哀しい怪物
◆
「なあ陣。俺が死んでも元気にやってけよ」
二人は今病室にいた。ベッドに腰かけている明人は、水色の病衣姿だ。
陣は手札を手に持ちながら、顔を俯かせた。
「どうしてそんなこと言うの?」
「ん?」
陣がバッと顔を上げて明人を見た。苦痛に顔を歪ませた表情だった。
「お兄ちゃんが死んじゃうなんてやだよ!」
叫んだ陣の目尻から涙が流れていく。
陣の感情がグッと明人の胸に突き刺さった。胸が痛くなる。
明人はカードをテーブルに置いて立ち上がり、陣の近くに寄った。
そして涙を懸命に拭っている陣の頭にそっと手を置いた。
◆
陣はビルの屋上から地上へ向かって落ちていた。
落ちているのに、浮遊する感覚。矛盾するその感覚が可笑しかった。
空に満月が見えた。嫉妬するほどに明るい。
その月が黒い影に遮られた。
闇夜に光る紅蓮の瞳。
そいつが陣に向かって漆黒の手を伸ばした。
◆
深夜、明人は病室のベッドの中にいた。
昼間見た陣の泣きじゃくる顔が頭から離れず、眠れなかった。
明人がまだ未成年だからか、医師が具体的な余命を告げることはなかった。しかし明人の世話をしにくる看護師や、見舞いにくる両親の様子を見ていれば、嫌でもわかる。自分の命はもう長くない。そういう運命に生まれたのだ。
まだやりたいことはたくさんあったが、不思議と諦めもついた。だけど一つ大きな心残りがある。
弟の陣だ。
まだ小さい陣を残していくのは心許ない。
陣は明人によく懐いた。まるで子犬みたいに愛想を振り撒いて寄ってくる。
自分がいなくなって、陣は大丈夫だろうか?
それだけが心配だった。
明人がベッドの上で考えに浸っていると、急に部屋の中に気配を感じた。
明人は体を起こし、消灯された薄闇の中で目を凝らした。
入口のドアの近くに何かいる。子犬ぐらいの大きさの動物。よく見ると、それはブタだった。
ブヒッ。
ブタは明人のほうを見ながら鼻を鳴らし、それから回れ右をして入り口のドアをすり抜けていった。
なんだろうあのブタは。目の錯覚だろうか?
ブタのことが無性に気になった明人は、ベッドから足を下ろしてスリッパを履いた。
自分はあのブタのことを知っている気がする。
廊下に出ると、ブタが近くで待っていた。明人が出てきたのを見て取ったブタは、短い足を動かして廊下を歩きだした。明人はその後をついていく。
おかしなことに、病院には誰もいなくなっていた。ナースステーションにも誰もいない。空間が静かに不気味に佇んでいる。
ブタについていった明人は奇妙な世界に迷い込んだ。
◆
節くれだった恐ろしく長い腕が伸びてきて、陣の体を抱えるように巻きついた。
三角に近いエイのような顔の輪郭。そこにある無数の紅い宝石のような瞳。何かが詰まった種のようにふっくらと丸い胴体。そこから伸びる細長い手足。
リミナルスペースで見た化け物が、落ちていく陣に迫ってきた。
陣はなぜか穏やかな気持ちで化け物のことを眺めていた。
化け物と接触したことで、陣の中に記憶が雪崩れ込んでくる。
◆
深夜にブタと一緒に誰もいない病院の探検をした明人の身に、不思議なことが起こった。翌日まるで示し合わせたかのように、みんなが明人の名前を忘れていたのだ。
ただ一人を除いて。
陣はまた明人とカードゲームをやりにきた。
暗い顔をして。
明人が昨日言ったことを気にしているのかもしれない。
「なあ陣」
「……」
ふて腐れている陣は、返事をしなかった。黙ってカードを切っている。
「俺の名前、わかるか?」
「……」
「おい」
「……明人。明人お兄ちゃん」
その日の夜も、ブタが明人の病室にやってきた。
再び誰もいない病院の探検をした。
◆
化け物ががっちりと陣の体を捕まえた。
まるでとても大事なものを抱えるみたいに。
化け物と陣は地面に向かって落ちていく。
◆
次の日は、みなが明人のことをわからなくなった。名前もわからないし、どうしてここにいるのかもわからないようだった。
そして明人は病院内をうろつく妙な存在に気づいた。
それは幽霊と呼ぶべき存在のようだった。明人はそういった存在の姿を見ることができるようになった。
陣が病室にやってきた。入口のドアの近くで尻込みしている。
「来いよ」
明人は陣を呼んだ。陣がおずおずと近づいてくる。
「陣。俺のこと、わかるか?」
陣は首を縦に振らなかった。不安そうに明人のことを眺めている。
明人は陣の肩に手を置き、そっと抱き寄せた。
「いいか、俺はお前の兄だ。お前は俺の弟。べつにお前は俺のことを忘れてもいい。だけど」
体を離して、明人は陣の顔を傍で見つめた。
「俺は、お前のことを忘れない」
深夜にブタがやってきた。明人はそのブタが家で飼っていた小次郎だということを思い出した。小次郎は普通の存在ではなくなっていた。そして自分もそれに近づいていることに明人は気づいていた。
どうせもうすぐ自分は死ぬのなら、幽霊になってやるのも悪くなかった。
そうすれば、いつまでも、あの泣き虫な弟を見守ってやれるから。
◆
水玉が空に向かって飛んでいった。
陣はそれが自分が流した涙であることに気づいた。
涙を置き去りにして、地面へ落ちていく。
◆
明人はついにこの世のものではなくなった。物質に触れることができなくなった。誰も明人の存在に気づかない。明人が存在した事実さえ消え去っていた。涼風家では初めから三人家族であったかのような生活が送られていた。
それは辛く悲しいことだった。耐え難い孤独を味わった。
ブヒッ。
小次郎の存在が大きな心の拠り所だった。
明人は肉体から解放された自由を感じながら、弟の陣の生活を見守った。
◆
陣は手を伸ばし、化け物の体に触れた。
驚くほど硬く、そして冷たい体だった。
そこに血は通っていなかった。
心さえ通っていないみたいに。
陣はそのことが悲しかった。
◆
陣が友人たちと一緒に川遊びをしていた。明人は小次郎と一緒にのんびり過ごしていた。
突然悲鳴のような叫び声が上がった。陣の友人が騒いでいる。
見ると、陣が体をばたつかせながら流されていた。
明人は飛び起きて急いで陣のほうへ走り出す。
陣の体に手を伸ばし、掴もうとしたが、明人の手は陣の体をすり抜けた。
くそっ!
陣の顔が水中に沈んだ。
このままでは陣が死んでしまう。
助けろ! 助けろ!
ドクッ、と明人の中で大きな心音が鳴った。
ビキビキビキ、と明人の腕が硬く硬直していく。
明人はもう一度陣に手を伸ばした。
手が水流に当たる感触があった。
そして黒く変色した腕で、陣の体をすくい上げた。
川原に運び、陣の体を横たえる。
陣の友人たちが走って寄ってきた。介抱を始める。
明人は荒くなった呼吸を繰り返しながら、状況を見守っていた。
そして見た。
自分の節くれだった黒い腕を。
◆
地面が近づいてくる。本当は自分のほうが地面に近づいているのに。
陣は衝撃に備えようと、体に力を込めた。
その時、メキメキと亀裂が入るような音がした。
陣は自分を抱えている化け物の姿を見た。
化け物の背中のほうから二つの黒いものが勢いよく突き出た。そしてそれはバッと左右に広がる。
化け物の体から漆黒の翼が生えた。風を切り、大きく羽ばたき出す。
◆
工事現場で落ちてきた鉄骨から。信号無視をした車から。
危険から陣を守るごとに、明人の体は変形した。
より醜く、よりおぞましく。
それが禁忌を破った呪いだった。この世のものに干渉した報い。
それでもいい。
こいつを守ってやれるなら。
いつしか呪いは明人の心さえ侵食していった。
人間の心から遠ざかっていく。意識が薄くなっていく。
明人はこの醜い体を陣に見られたくなかった。きっと怯えて泣いてしまうから。
自分を失っていっても、明人は陣のことだけは覚えていた。
もう一度、陣と遊びたかった。
一緒に遠出をした時の『駅』は混んでいた。
『アミューズメントパーク』も楽しかったよな。
『ショッピングモール』に行った時は、いつもゲームセンターで遊んだよな。
この思い出さえ消えていってしまいそうで、明人は哀しかった。
自分の力も制御できなくなってきた。
いつか陣すら手にかけてしまいそうで。
怖かった。
もう終わりにしてほしい。
陣。
陣。
陣。
お前の手で。
◆
陣は翼を広げ宙を舞う化け物の体にしがみつき、嗚咽を漏らした。
兄はいつも自分の傍にいた。
いつも守ってくれていた。
こんな姿になってまで。
それなのに。
自分は。
兄がいたことすら忘れてしまっていた。
悔しくて。
悔しくて。
こんな汚れた涙を流すことしかできない。
なんて愚かなんだろう。
月が憎らしいほどに綺麗だ。
また兄に笑われてしまう。
泣き虫だって。
昔からちっとも変わっていない。
化け物は蝙蝠のように羽を羽ばたかせ、空に向かって飛んでいく。
◆
「お兄ちゃん、遊ぼ」
明人が自室で机に向かっていると、陣が寄ってきた。
「今テスト勉強してんだけど」
明人がそう返すと、陣はしゅんとして俯いた。
そんないたいけな様子を見ると心が痛む。
「わかったよ」
明人は机の上のノートを閉じた。
「何して遊ぶ?」
明人が訊くと陣は嬉々として笑顔になった。
「ゲーム!」
◆
涙が止まらない。
兄はいつも優しくて。いつも期待に応えてくれて。
大好きだった。
もう二度と忘れない。
◆
家の前で陣とボール蹴りをした。お互いへのパスを繰り返す。
「シュート!」
明人は勢いよくボールを蹴った。ボールは狙いを逸れてあらぬ方向へ飛んでいく。
「あ」
ボールは近所の家の塀を越えて中へ飛んでいってしまった。そこは怒りんぼの老人が住んでいる家だった。
「陣、取ってきて」
「なんで!? お兄ちゃんがやったんでしょ」
「じゃあジャンケンしよ」
明人は自分が勝つまでジャンケンした。
◆
化け物が滑空し、地面に近づいていく。
公園の広場だ。
化け物が陣を降ろそうとしているのがわかった。
◆
その日、日が暮れても陣が帰ってこなかった。一緒に遊んでいた陣の友達に電話すると、森の中でかくれんぼをしていたという。陣は最後まで見つからず、みんな帰ってしまった。
雨が降っていた。明人は家を出て傘も差さずに走り出した。
暗い森の中へ入る。
泥がぬかるみ、足が滑る。雨が冷たい。視界は非常に悪い。
それでも、自分なら陣を見つけられる。明人は確信していた。
そして樹の幹の傍で体を丸めて泣いている陣を見つけた。
明人は近づいていく。
足音に気づき、陣が顔を上げた。
「陣、見ーつけた」
明人はニッと笑いながら陣に向かって手を伸ばした。
陣は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、明人の手を取った。
◆
化け物が腕から陣を解放した。陣は地面に下ろされた。
化け物はそのまま飛んでいく。遠ざかっていく。
さよならはもう嫌だ。
「待って!」
陣の声は届かない。
兄は自分の正体を知られたくなかった。
あんな醜い姿だから。
◆
「お兄ちゃん、あげる」
自宅の居間で、陣が雪見だいふくを一つ差し出してきた。
「それ、お前のじゃないの?」
明人は尋ねる。
「お兄ちゃん、あげる」
陣は顔に笑顔を浮かべながら先ほどと同じ言葉を繰り返した。
明人はそのもちもちのアイスを口に頬張った。
「美味しい?」
「ああ」
「ふふ」
「なに笑ってんだよ」
「お兄ちゃんが嬉しくて、ぼくも嬉しい」
◆
黒い化け物は、闇夜に紛れていった。
空に光る満月は、素知らぬ顔で静かに佇んでいる。
風が通り過ぎた。寂しげな音色を奏でて。
陣はその場で立ち尽くす。
思い出が溢れて、嬉しくて、
悲しかった。
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