満月

 翌日、陣はベッドで寝ている小次郎をそのままにして家を出た。

 陣は今他人から見ると存在が気薄になっている。影が薄いというか。そこにいるようでいないというか。人と接触しやすい電車内はもちろん、横断歩道を渡る時なども充分気をつけなければならない。

 人々の記憶からも、陣の存在は消えかけている。さらに状況が進めば、陣は存在しなかったものとして扱われ、この世のものに触れることもできなくなる。昨日の皐月の話を統合すれば、そういうことだった。

 皐月の話は本当なのか、そしてだとしたらなぜ彼女はそのことを知っているのか。今日会った時に、彼女から聞き出さなければならない。そして可能であれば、この状態を解除する方法も。

 職場に着き、斎場で仕事を始める。式場の用意に、発注、遺族への連絡。やることは多い。

 みな陣のことはほとんど気にも留めていないが、杏子だけは違った。恥ずかしいのか、陣の顔を見るとすぐ逃げていこうとする。あの玩具のナイフはどこで買ったのかと訊こうと思ったのに。

 斎場の中には、おそらく陣だけにしか見えない存在もいた。仕事が忙しいし、関わるのも面倒なので、陣は気づかないふりで通した。昨日会った白いワンピースの女の子の姿はない。彼女の遺体は今、斎場の霊安室に収められている。

 陣は黙々と仕事をした。黙って自分の責任を果たす。誰にも文句は言われないし、期待もされない。それでも。

 仕事の合間に、陣は母に電話をかけた。父の手術がどうなったのかを訊くためだ。

『もしもし』

「もしもし」

『誰?』

「陣だよ。ケータイにもそう表示されたでしょ」

『陣? えっと、どちらさま?』

「…………」

『もしもし? イタズラ電話ですか? 切りますよ』

「旦那さんは元気ですか?」

『えっ?』

「手術は成功しましたか?」

『どうしてそれを? あなたは誰ですか?』

「旦那さんの友人です」

『ああそうでしたか。もっと早く言ってもらえれば。手術は成功しましたよ。あとは検査をして状態を教えてくれるはずです』

「そうですか。よかったです」

『……あの』

「はい」

『いえ、なんでもないです』

「そうですか。では」

『はい』

 陣は通話を切った。



 仕事を終えて、陣は事務所を出た。何か言いたそうにしている杏子の顔が目に入ったが、気づかないふりをした。

 通りに出て、公園に向かって歩く。

 幽霊との待ち合わせだ。

 皐月は昨日二人で話をしたベンチに座っていた。切ない表情でじっと景色を眺めている。夕焼けが彼女の横顔を照らしていた。

「今日は、ずっとここにいたんですか?」

 陣は皐月の隣に座りながら尋ねた。皐月は前を向いたまま答える。

「こういう存在になると、時間を感じられなくなるんだ。きみもなったらわかるよ」

「なりたくないです」

 陣が即答すると、皐月は陣のほうを向いてニッと笑った。快活で明るい女性だ。

「それで、昨日の私の話は理解できた?」

「そうですね。自分でもなんとなく、そんな気はしてたのかもしれない」

「飲み込みの早い子は助かるよ。歳を取るとみんな融通が利かなくなるからね」

「それで、今日は何を教えてくれるんですか?」

「ただで教えるとは言ってない」

「えっ?」

「まあでも、いいよ。あなたにそれを知る覚悟があるならね」

「なんなんですか一体」

「移動しよっか」

 皐月がベンチから立ち上がり、歩き出した。陣は着物姿で歩く彼女の後を追っていく。

「うなじが綺麗だって褒めてくれてもいいんだよ」

「うなじが綺麗です」

「気持ちが入ってない!」

 二人は公園を出て、オフィス街のほうへやってきた。どこへ行くつもりなのかわからないが、陣はついていくしかない。そのころになると日も暮れて、夜になった。

 皐月が突然オフィスビルの中に音もなく入っていった。自動ドアの向こう側で振り返り、陣を手招きする。陣はちゃんと開いた自動ドアから中へ入る。

 皐月の後をついていくと、ある部屋の前で止まった。

「ちょっとここで待ってて」

 皐月がするりとドアを突き抜けてその部屋に入っていった。そしてすぐに戻ってきた。

「大丈夫、今人いないみたい。番号教えるからドア開けて中に入って」

「あの、何をするつもりなのか説明してください。良からぬことするわけじゃないですよね」

「悪いことなんてしないよ。ただ屋上に行くだけ」

「屋上?」

 陣は皐月に言われた暗証番号を入力し、ドアを解錠した。デスクの並んだ部屋の中に入る。そしてキーボックスに新たに暗証番号を入力し、そこから屋上の鍵を取り出した。

「なんかまずいことしてません?」

「大丈夫だって。あなたのことなんて誰も気にしないから」

「それはそれで悲しいんですけど。それで、なんで皐月さんは暗証番号を知っているんですか?」

「昼間のうちに開けてるとこ見ておいたの。お姉さんに感謝しなさい」

「いや、何をしようとしているかもわからないんですけど」

 陣と皐月は階段で上階へ向かった。ずいぶん長い階段だったが、皐月に疲れた様子はなかった。少しだけ、幽霊が羨ましかった。

 先ほど入手した鍵を使って屋上へ繋がるドアを開ける。

 風が吹きつけた。夜空に満月が光っている。近くに視界を遮るものがないので、空が広く近く感じられた。

 皐月はゆっくりとした足取りで低いフェンスの張られた屋上の端へ歩いていく。陣は彼女のほうへ近づいていった。

「それで、これから何が起こるんですか?」

「見てのお楽しみ」

 皐月は楽しそうに笑った。

「何をするんですか?」

「まだわからない?」

「はい、まったく」

「そこから飛び降りてみて」

 皐月が屋上の縁を指差した。

 陣はフェンス越しに下を見る。高い。十階まではいかないまでも、人をぺしゃんこにするには充分だ。

「あの、冗談ですよね?」

「冗談じゃないわよ」

「こんなとこから飛び降りたら、肉が潰れて、骨がぐにゃぐにゃに折れて、脳みそや内臓も飛び出るかもしれませんよ。遺体を運ぶ人間の身にもなってください。俺は死ぬなら綺麗な体のまま死にたいんです」

「誰も死ねなんて言ってない」

「言ってるも同然です」

「大丈夫よ」

「何が?」

「思い出してごらん」

「何をですか?」

「あなたはこれまでにも死にかけたことがある」

「……」

「そうよね」

「……はい」

 思い当たる節は確かにある。トラックと正面衝突しそうになった事故。小さいころに川で溺れたこともある。他にも。

「死んでもおかしくない事故もあった。けれど、あなたは無事だった。どうして?」

「それは、……たまたま運が良く」

「じゃあ、今回も大丈夫よね?」

 陣は何も言えなかった。この人は本当に自分を殺すつもりなのだろうか。

「あなたは知りたいのでしょう?」

 皐月の口調が芝居がかったようなものになっていく。

「そこから飛び降りれば、きっと真実を知ることできる」

「何ですか、その真実って」

「あなたの知りたいこと全部」

 知りたいこと? なんだろう? 知りたいことがありすぎて、もはや何を知りたいかもわからない。

 皐月の表情は真剣だった。彼女が嘘を言っているとは思えない。

 その時突然耳鳴りがした。目眩がして、方向感覚が狂い出す。足がもつれた。

 皐月が何かに怯えたように顔を歪め後ずさる姿が見えた。

 すぐ近くに何かがいた。恐ろしい、だけど懐かしい何かが。

 陣の視界が揺れる。正面に満月が見えた。背中にフェンスがあたる感触があった。

 陣は空を向いたまま、地に向かって落ちていった。

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