ごっこ

 杏子が陣の腹にナイフを突き立てていた。陣は突然の事態に驚き、困惑する。

 杏子は無表情だ。そこに何かしらの強い感情は感じられない。

 陣はナイフを刺された腹に手を当てたが、不思議と痛みは感じない。おかしいなと思って見ると、そのナイフの刃は陣の体にではなくナイフの柄の部分に沈み込んでいた。

「玩具?」

 陣はまだ驚きつつ苦笑いして訊いた。

 杏子は陣の体から玩具のナイフを離し、一歩後ろに下がった。

「これであなたは死にました」

「は?」

「死んだのですから、目を閉じて横になってください。あそこに横になるのにちょうどいいベンチがありますね」

 そう言って杏子はさっさと移動する。陣は事態を飲み込めずに、その場で立ち尽くした。

 ベンチに到着した杏子は、陣のほうを振り返ってベンチをタッタと叩いた。そこに寝ろということらしい。陣は頭を掻きながら、仕方なくそちらに近づいていった。

「で、どうしろって?」

「死んでいる人は喋りませんよ。早く横になってください」

 陣は呆れつつも、まずベンチに座った。そこから体を伸ばそうとしたところで、杏子の手の平に書かれた名前に気づいた。

「それ、俺の名前」

 陣が指を差して示すと、杏子は手を背中に隠した。

「なんで俺の名前が書いてあるの?」

「……忘れたくなかったので」

「えっ?」

 横を向いた杏子の顔が赤くなっている。それ以上尋ねるのは野暮な気がした。

 陣は両手を後頭部にあて、ベンチの上で仰向けになった。膝から先はベンチからはみ出している。

「それでは昼寝をしているみたいです。気をつけの姿勢になってください」

「注文が多いなあ」

「喋らない。棺桶の中に入っている気持ちで」

 陣は言われた通り真っ直ぐ手足を伸ばし、目を閉じた。杏子が陣の腰の辺りに座る。傍から見ると泥酔した人間を看病しているように見えるだろうか。

 杏子の傍で無防備に目を閉じているのは正直怖い。さっきも本当に殺されるかと思った。だけどちゃんとやることをやるまで杏子は解放してくれそうにない。一体どうするつもりだろう?

 杏子が目を瞑っている陣の髪に触れた。ゆっくりと手櫛で陣の髪を整えていく。杏子に一方的に顔を見られていると思うと、気恥ずかしかった。

 杏子の指先が陣の頬をそっと撫でた。陣は身震いしそうになるのをじっと堪える。杏子の指は陣の顔の輪郭に沿って顎のほうへ流れていく。

 杏子が陣の上着のボタンを上から順に開けていった。ボタンを全部開けると、さっと横に開く。杏子はYシャツの上から陣の胸に手をあてた。

「心臓が動いています。止めてください」

「無理言うな!」

 あまりの無理強いに陣は上半身を起こして飛び起きた。

「ゾンビは嫌いです。早くもう一度ただの遺体になってください」

「いつまでやんだよ」

「遺体は文句なんて言いません」

 陣は大きく溜め息を吐き、もう一度仰向けになった。

 目を瞑りながら、彼女はどうしてこんなことをするのだろうと考えた。

 単に彼女の変わった趣味に付き合わされているだけかもしれない。

 だけどなぜか、あまり嫌な気持ちにはならなかった。

 杏子が再び陣の髪に触れた。彼女の息遣いがすぐそこに感じられる。

 杏子が陣に覆い被さるように動いてくるのがわかった。

 そして唇に柔らかいものが触れた。陣は驚き、呼吸が止まった。

 とても長いようでとても短い時間が終わり、杏子が体を離していく。陣は仰向けになったままじっとしていた。

 ダッダッダッと何かが駆けていく足音が聴こえた。目を開けると、杏子が逃げるように走り去っていく後ろ姿が見えた。

 何だったんだ一体。彼女はやはり変わっている。

 陣は体を起こし、ベンチの背もたれに背中を預けた。

 指先で唇に触れ、彼女が残していった感触を思い出す。

 霊体になってしまえば、こんな感覚も味わうことはできなくなるだろう。

 死とは悲しいものだ。たとえ残滓として居続けることができたとしても、それはもう生きているとは言えない。

 陣は近くから急に人の気配を感じた。首を振って周りを見回すが、誰もいない。幽霊さえ。

 陣は立ち上がり、歩き出す。

 皐月は明日、陣にとって重要な真実を教えると言った。

 歩きながら、陣は日の暮れた空を見上げた。

 夜空にまん丸に近い月が光っている。明日はきっと満月だろう。

 月を見ると鼓動が高鳴り、陣は落ち着かなくなった。

 胸の底からまだ見ぬ自分の知らない感情が呼び起こされるかのような。

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