皐月

 病院の安置室の中、陣は布を被せられた寝台の近くに立っている白いワンピースの女の子に話しかけられた。

「見えるよ、きみのこと。それに声も聞こえる」

 陣は室内の他にいる人間に怪しまれないように小声で言った。といっても、他の人間は陣のことなど気にしていないのだが。

「じゃあ、お兄さんも死んじゃった人なの?」

 女の子がリスみたいなクリッとした目で訊いてきた。

「いや、まだ死んでないよ。ただそういうものを感じられる体質になったみたいだ」

 陣は黒崎が話をしている中年の夫婦のほうを振り返った。

「あの人たちは、きみのお父さんお母さん?」

「うん」

「そうなんだ」

「私の体はそこにあるよ」

 女の子が布が被されている寝台の上の塊を指差した。

 死因は聞いていないが、女の子はこんなにも若くして亡くなってしまったのだ。仕事柄陣は多くの葬儀を見てきているので、子供の故人も目にしてきた。年齢を重ねていればいいというわけではないが、子供の葬儀というのはやはりやるせないものがある。

「ねえ、お兄さん」

 女の子に呼ばれて、陣は顔を上げた。

「私、これからどうしたらいいの?」

 女の子の真っ直ぐな問いかけに、陣は答えることができなかった。当然仕事のマニュアルには載っていない事項だ。あるのは残された者たちのアフターケアだけ。陣には女の子を蘇らせる力などない。下手な慰めも彼女のためになるとは思えなかった。今言えることを正直に話すしかない。

「何日か後に、きみのお葬式があるんだ。きみのことを知っている人たちが集まって、みんなできみのことを送り出す。その時に様子を見にくるといいよ。それまではきみの好きなように過ごすといい」

「お兄さんも、そのお葬式に来るの?」

「うん。それが俺たちの仕事だからね」

「わかった」

 女の子は白いワンピースの裾をはためかせ、安置室の壁の中に消えていった。

 陣が女の子が消えた壁を見つめていると、黒崎が近づいてきた。

「あの、陣くん、だっけ? 今誰かと話してた?」

「いいえ」

 陣は黒崎と協力して、女の子の遺体を寝台から棺の中へ移した。

 女の子の体は不安になるほど軽かった。

 その軽さは、短い時間で儚く散ってしまった命の軽さなのか、魂が抜け出たことによる軽さなのか、陣にはわからなかった。



 この日の仕事を終えた陣は、事務所で帰り支度をしていた。机の上を片づけ、ビジネスバッグを片手に立ち上がる。

 陣は黒崎と杏子の視線に気づいた。二人が陣のことを気にしている。

 いつもなら、この後三人で中華料理屋の『加油ジョヨウ』に行くタイミングだ。しかし陣は行くつもりはなかった。黒崎も杏子も、陣に対する認識が薄れている。三人でご飯を食べに行っていたことも忘れているかもしれない。きっと『加油ジョヨウ』にいる王さんも陣のことがわからないだろう。そんな寂しい思いをするぐらいなら、行かないほうがいい。

 お先に失礼しますと挨拶して、陣は事務所から出た。

 ビルの一階まで下り、外の通りに出るところで、陣は近くに立っている着物姿の女性に気づいた。

「今日は一人なの?」

 女性が陣にそう問いかけてきた。艶のある魅惑的な声だ。

 陣は答える前に、女性のことを観察した。数日前に目にした、陣にしか見えない女性だった。そして今の陣は、霊なる存在と会話することができる。

「あなたは誰ですか?」

 陣は質問に対して質問で返した。

 女性はフッと口角を上げて微笑んだ。彼女の柔らかそうな唇に目が行ってしまう。

「私は宝城皐月ほうじょうさつき。でもね、女性に名前を尋ねる時はまず自分から名乗るものじゃない? 涼風陣くん」

 皐月が余裕のある笑顔でそう言った。

 陣は意外に思う。なぜこの幽霊は自分の名前を知っているのだろう? 同僚たちにすら名前を忘れられていたのに。

「俺に何か用ですか?」

 陣は突っぱねるように言った。なんだかこの皐月という女性と関わることが少し怖かった。実体のない状態で陣に危害を加えることなどできないはずなのだが。

「用があるのは私のほうじゃない。あなたのほうが私に用があると思うの」

「ああ。そりゃああなたはとても綺麗ですよ。だけど」

「ふふ、面白い子ね。口説けって言ってるわけじゃないわよ」

 ビルから出てきて陣の横を通り過ぎた人間が、陣に不審な目を向けてきた。そうだ、傍から見れば自分は今一人で喋っているように見える。

「公園にでも行きましょ」

 陣の思考を悟ったように皐月が言った。陣は彼女についていくしかなかった。



 杏子は、一人事務所から出ていった陣の後をつけていた。ビルの入り口で一人ブツブツ声を発している陣のことを不思議に思った。しかし杏子も毎日自室で人形やぬいぐるみに向かって話しかけているので、あまり気にならない。そのうち陣は歩き出した。

 彼の後をつけて何をしようとしているのか、杏子は自分でもよくわからなかった。だけど彼のことを知りたかった。彼の秘密を知りたかった。そしてその秘密は他人には知られたくなかった。自分だけのものにしたかった。

 陣はしばらく歩き、散歩道のある大きな公園に入っていった。杏子も気づかれない距離を保ちついていく。

 なぜか彼の名前をすぐ忘れそうになってしまうので、杏子は自分の左の手の平にマジックペンで名前を刻んでおいた。

『涼風陣』

 彼の名前を心で思い描くたびに、杏子の心は揺れた。

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