疑心
この日陣は朝から疲れていた。身心ともにふらふらの状態で駅の改札から出た。
満員電車に乗って出勤することはいつものことだ。毎日乗り越えるべき関門の一つである。
しかしながら、今日の満員電車ではいつも以上にもみくちゃにされた。足を踏んづけられ、みぞおちに肘打ちを喰らい、顎に頭突きをされた。不可抗力と言ってしまえばそれまでだが、もう少しばかり周囲を慮ってもよいのではないか。陣は朝からノックアウト寸前だ。
仕事前から既に大量のスタミナをロスした陣は、重い足取りで葬儀社事務所のドアを開けた。
「おはようございます」
同僚の面々に挨拶をして、自分の席に座る。
違和感があった。
周りの人間たちがみな、驚きや戸惑いの表情を浮かべて陣のことを眺めている。
陣はすぐに何かが起きたのだと悟った。前にもこういうことがあったからだ。その時は、みなが陣の名前を忘れていたようだった。
陣は事態を確認すべく、上座に座っている黒崎のほうを見た。いつも通り置き物のようにそこにいる黒崎とサングラス越しに目が合った。
「えーと」
黒崎が考えをまとめようとしながら口を開いた。
「きみは?」
「俺? 俺がどうかしましたか?」
陣は背中に冷たいものを感じながら訊き返した。
「きみは誰? どうしてここにいる?」
陣は黒崎の顔を真っ直ぐ見つめながら、硬直した。どうしてそんなことを訊かれたのかわからなかった。
「どうしてって。俺はここの社員で、ここが仕事場だからですよ」
「新しく入ったの?」
「いや、何年も前からここにいますよ。いつも一緒に仕事してますよね?」
陣のその問いかけに、黒崎は首を縦に振らなかった。親近感のある黒崎のサングラスが今は不気味に感じた。
事務所の中が静まり返る。息が詰まる不快で居心地の悪い静寂だった。
その時静けさをかき消すコール音が鳴り響いた。黒崎のデスクからだ。
黒崎は電話に出て会話を始めた。張り詰めていた空気が解け、各々がそれぞれの作業に戻った。
陣は身動きも取れず、椅子に座ってじっとしていた。
少しして黒崎が電話を終えた。それから何かを探すように辺りをきょろきょろと見回し始める。陣には黒崎が何をしようとしているのかがわかった。おそらく遺体を引き取ってもらうよう連絡が来たのだ。
陣は立ち上がり、黒崎に向けて言った。
「俺が車を出しますよ」
水瀬杏子は、先ほど黒崎と一緒に事務所から出ていった男のことが気になった。
すらっと背の高い、癖毛の男。よく周りに振り回され、少し情けない表情を浮かべていることが多いが、笑うととても愛嬌があって……。困ったら相談に乗ってくれて……。
あの男は誰だろうか? 知らないはずなのに、知っている気がする。奇妙な感覚だった。彼のことを考えようとすると途中で思考が遮断されるかのような。
彼がいつか自分の手の届かない遠くへ行ってしまいそうな気がして、杏子は胸が痛くなった。喪失感に苛まれる。そうなったらもう、手遅れだ。そうなる前に……。
杏子は自分のおかしな考えに気づき、心の中で笑った。名前も素性も知らない男にそこまで気持ちを寄せるなんて。
生きている人間は嫌いだ。傲慢で、自分勝手で、他人の言うことも聞かず、平気で他者を傷つける。とても罪深い存在。傍になどいたくない。
けれど、彼は。彼なら。
自分という存在を真っ直ぐに受け止めてくれる気がした。
陣は寝台車の運転席に乗り込んだ。ハンドルを握って黙って待つ。
遅れて黒崎が助手席のドアを開けた。そこから陣のことをしばらく観察していたが、やがてゆっくりと席に座り、ドアを閉めた。
陣はまだ車のエンジンをかけない。黒崎に訊くべきことがあった。
「俺のことどこまで知ってます?」
陣が尋ねると、黒崎はちらっと陣のことを見た。
「今、僕に向かって俺のことどこまで知ってます、と尋ねた人間だ」
「冗談はいいんですよ」
「なにを言う、冗談は大切だ。冗談の一つでも言わなければ、人生なんて味気ないものだよ」
「人生観を語ってくれなんて言ってません」
「正直に言おう。僕はきみのことを知っているようで、知らないんだ」
「名前もわかりませんか?」
「ああ」
「涼風陣」
「陣? 陣。うん。なるほど」
「覚えはありませんか?」
「懐かしい気はする」
「一昨日会ったばかりですよ。そういえば、昨日は休みをいただいてありがとうございました」
「そうだったのかい?」
「おかげで父の顔を見てくることができました。それで、……そうだ。リミナルスペースに入りました」
「リミナルスペース?」
「前に話しましたよね。そういう都市伝説のこと」
「……」
「もしかして」
あの空間に行ったことが関係しているのだろうか? まさか、無事現実に戻ってこられたと思っていたが、実は微妙に異なる世界、パラレルワールドのような場所に移ってしまっていたり。考えすぎだろうか?
黒崎はリミナルスペースという言葉を聞いてから、何かに思い当たったように考え込んでいる。
「どうかしましたか?」
難しい顔をしていた黒崎が顔を上げた。
「いや、とりあえず車を出してくれ。話は移動しながら聞こう。早くしないと死体が腐ってしまうからね」
「せめてご遺体と呼んでください」
陣が運転する寝台車は病院に到着した。棺を出して裏口から入る。
陣はストレッチャーに固定した棺を押しながら病院の廊下を歩くこの時間が好きではなかった。まるで荷物を引き取りに来た宅配業者のように人間の遺体を引き取りに来るのだ。そして自分たちは、そのことで給料をもらっている。もちろん誰かがやらなければならない仕事だということは理解しているが。
黒崎とともに安置室に入った。中にいた遺族の中年夫婦にお悔やみの言葉をかける。
そして陣は違和感を感じた。夫婦が、挨拶した陣のほうを一切見なかったのだ。黒崎が言葉をかけた時は確実に反応があった。陣は背が高いので、否応なしによく目を向けられることが多いのだが、安置室に入ってから遺族は陣のことをまったく気にする様子がなかった。
まるで陣のことが見えていないかのように。
黒崎が遺族にこれからの手順を説明する。陣を置いて話が進んでいく。
陣は白い布の被された寝台のほうに何気なく近づいた。
その近くに十歳ほどに見える白いワンピースを着た女の子が立っていた。
陣がその女の子のことを眺めていると、女の子が驚いたようにこう言った。
「お兄さん、私のこと見えるの?」
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