会話

 アパートの隣人に誰ですかと尋ねられた陣は、しばらく押し黙った後、答えた。

「隣の部屋に住んでいる者ですが」

「そうですか。最近越してきたんですか? はじめまして」

「いや、もう何度も会っているはずだけど」

「はあ。失礼、用事があるもので」

 隣人の男は陣の横を通って階段を下りていった。陣はその後ろ姿を黙って見送った。

 おかしい。そんな急に自分のことを忘れられることなんてあるだろうか。とくに関わりはないとはいえ、隣の住人だぞ。

 陣は疑問を拭えないまま、自分の部屋に入った。

 暗い部屋の中で何かが動く気配があった。

 電気を点ける。何もいない。気のせいだったか?

 陣の頭の上に乗っていたブタが床に飛び降りた。ダッダッダッとダッシュしていき、ベッドの上に飛び乗る。陣の頭の上ということはなかなかの高さから飛び下りたことになるが、なんともないらしい。そもそもどうやって陣の頭の上に乗ったのか。やはり幽霊らしく宙に浮かべるのだろうか。飛んでいるところはまだ見たことない。そしてこいつは本当に幽霊なのか? そもそも幽霊って何だ?

 陣はベッドの上に寝転んで幸せそうな顔をしているブタを眺めた。

「お前、なんて名前なんだ?」

 そう尋ねて、ブタがそうじゃわしは、と答えるはずがない。ブタは、おとといきやがれ、とでも言いたげな顔をしただけだ。

 その時陣の中で妙な感覚が流れた。既視感にも似た。

 陣はこのブタの名前を知っていた。その名を口に出す。

「小次郎」

 ブタはバフッと鼻から息を吐き、その通りだよ、とでも言いたげな顔をした。

 名前に付随して、小次郎にまつわる記憶が陣の中で蘇ってくる。

 こいつは陣が小さかった時に実家で飼っていたブタだ。陣はまるで自分に弟ができたかのように可愛がっていた。初め見た時から妙に親近感があったのはそのためだ。

 その小次郎が、今は幽霊になっている? どうしてそうなった? そして、なぜ自分は小次郎のことを忘れていたのか。

 ある程度記憶は戻ってきたものの、実家にいた小次郎がどうなったのか思い出すことができなかった。

「なあ小次郎。何があったんだよ」

 小次郎は、少しは自分で考えたまえ、とでも言いたげな顔をした。

 わからない。幽霊ということは、死んだのか? それで成仏できずに陣の周りをうろちょろしているのだろうか? しかし小次郎が死んだという記憶は陣の中にない。いつからいなくなった?

 今の状態でこれ以上考えても、答えが出る気がしなかった。陣は気持ちを切り替えるためにシャワーを浴びた。

 体を拭き、部屋着に着替えた。小次郎はベッドの上を占領して眠っていた。

 陣は机の上に、今日の戦利品を置いた。

 陣が小学生の時、誕生日に兄からもらった腕時計だ。

 リミナルスペースから持ち帰った品を順に並べる。カードに、ゲームのコントローラーに、腕時計。そのどれにも、兄との思い出が詰まっていた。いつも付きっきりで遊んでくれた兄。父や母よりも、兄と過ごした時間が多く、そして楽しさに満ちていた。

 その兄はどこに行った? 兄の名前は何だ? どうして兄のことを忘れていた?

 小次郎のことと同じように、思い出すことができない。

 思考は忙しく動くけれど、体は休息を求めていた。化け物に追いかけられ、骸骨たちから逃げ惑ってきたのだ。そんな人間世界広しとはいえ他にいないだろう。

 もうあんな空間に陥りたくない。しかしあの空間は同時に情報の源でもあった。陣が抱えている疑問に対する答えが、あの場所にある気がした。

 だがどちらにしろ、自分の意思で出入りできるものではない。

 陣は精魂尽き果て、眠りに落ちた。



 夢の中で、陣は廊下を歩いていた。

 つんと鼻につく臭い。明るく綺麗だけどどこか冷たい感じのする造り。陣はこの廊下を歩くことが嫌いだった。この場所は陣の心を不安にさせた。

 番号のついた部屋の中に入る。部屋の中央に一つベッドがあって、その上に一人の男が座っている。

 ああこれは今日見た光景か、と陣は思った。入院し手術を控えていた父。

 しかしそこにいたのはもっと若い、少年。陣と似ているが、より勇ましさのある風貌。陣はその少年に近づいていった。

「陣、来たのか」

 少年が陣の頭にポンポンと触れてきた。陣は少年を前にして俯いた。

「どうした? 元気ないな」

「お兄ちゃんと遊びたい」

 少年は陣の頭に触れながら、視線を逸らしてどこか遠くを見た。

「友達と遊べばいいだろ」

「お兄ちゃんとがいい」

 少年は困ったような顔になり、それから小さく微笑んだ。

「じゃあ、遊ぶか」

 陣は顔を上げて、笑った。早速持ってきたカードゲームをバッグから引っ張り出した。新しく買ったカードを兄に自慢したかった。



 陣は目を覚ました。

 実家の二段ベッドで寝ていた錯覚があったが、実際にはボロアパートの一室にいた。

 傍らで小次郎がぐーすか寝ている。陣は小次郎に手を伸ばすが、その手は小次郎の柔らかそうな体を貫通した。

 ベッドから出て、仕事へ行く支度を始めた。

 顔を洗うために洗面所に行く。

「うわあああ!」

「うわあああ!」

 陣は悲鳴を上げて後ずさり、尻もちをついた。自分の家の洗面所に、見知らぬ人間が立っていたのだ。その人間も陣の悲鳴を聞いて驚き、同じように悲鳴を上げた。

 そこにいたのは、丸いレンズの眼鏡をかけた二十代らしき男だ。

「誰だよあんた」

 陣は体を起こし男から遠ざかりながら尋ねる。

「なんでこんなとこにいんだよ」

「きみこそいきなり叫び声を上げるのはやめてくれ。心臓が止まるかと思ったじゃないか。いや、もうとっくに止まっているのだけど」

「はっ?」

 そして陣は気づいた。洗面所に立っている男の姿が、鏡に映っていないことに。

「あんた、もしかして、幽霊?」

「なぜそんなことを訊く?」

「なぜって」

「きみも同類だろう?」

「は、何言ってんの? 俺は生きてるよ」

「ん? ほう」

 男はピントを調節するように眼鏡のレンズに触れて、興味深そうに陣を見た。幽霊になっても目が悪いままで、眼鏡も一緒にくっついてくるのか、と陣は思った。

「これは面白い」

 男はそう呟くと、すっと洗面所の壁を通り抜けていき、消えた。

 何だったんだ一体。幽霊になってどこにでも自由に移動できるようになったとしても、勝手に人の家に上がり込まないでほしい。まあ普通の人間であれば幽霊がいることに気づきもしないのだろうが。

 陣は、はあー、と大きく溜め息を吐いた。朝っぱらから疲れてしまった。霊なんか見えるようになるもんじゃない。

 陣は洗面所の鏡の前に立つ。

 暗い顔をした寝ぐせでぼさぼさ頭の自分の姿が見える。

 そしてようやく気づいた。

 自分が死者と会話していたということに。

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