腕時計

 陣の顔面を余裕で鷲掴みできそうな巨大な黒い手の平が迫ってきた。避ける間もなく、陣はその手の平をただ見つめていた。

 衝撃はなかった。かわりに目に見える光景が切り替わった。

 漫画だ。見習い忍者が里一番の忍者を目指すストーリー。

 陣は実家の自分の部屋にいた。二段ベッドの二階で、横になりながら漫画を読んでいる。

「陣」

 名前を呼ばれて、陣はそちらに顔を向けた。

 陣と顔の似た癖毛の少年が立っている。

「ほら」

 少年が手に持ったものを陣に差し出した。陣はそれを受け取る。

「え、なあに、これ?」

「誕生日おめでとう」

「わあ!」

 それはデジタルの腕時計だった。かっこいいデザイン。陣はこれまで母の腕時計をふざけて勝手につけたことはあったが、自分の腕時計を持ったことはなかった。

 早速左の手首に装着する。父も母も左手につけていたことを覚えていた。陣は左手をかざし、しげしげと真新しい腕時計を眺めた。

「ありがとう、お兄ちゃん」



 周りが騒がしかった。

 照明が眩しい。

 陣はショッピングモールの通路に立っていた。周囲はたくさんの人々で賑わっている。

 現実に戻ってきた。

 戻る時はいつも唐突だった。向こう側へ行く時も唐突だが。

 陣は自分の左手に握られているものを見た。

 デジタルの腕時計だった。だいぶ年季が入っている。色が落ち、ところどころ傷がついていて、電池がないのか壊れたのかわからないが時刻が表示されていない。

 何の役にも立たない腕時計だ。

 けれど陣にとっては大切なものだった。

 自分には兄がいた。少し歳の離れた兄だ。今回のリミナルスペースの冒険で、陣はそのことを確信した。

 でもどうしてだ? どうして自分は、兄がいたことを忘れていたのだ?

 兄は? 今兄はどこにいる?

 実家にいた痕跡もなかった。母も知らない顔をしていた。

 陣が突っ立ったまま考えに浸っていると、後ろからドンと何かがぶつかってきた。

「あ、すみません」

 ショッピングモールの清掃員だった。清掃員はぺこっと頭を下げて去っていく。

 陣は少し不思議に思いながら清掃員を眺めた。

 ブヒッ。

 傍らにブタがいて、陣を見上げていた。

 メシまだか、とでも言いたげな顔だ。

 お前はメシ食えないだろ、と陣はひとりごちた。



 陣は東京に向かう電車に乗っていた。さらに頭の上には重さのないブタが乗っている。

 実家に行き、病院で父を見舞ってきた帰りだ。

 陣は車両の中ほどで吊り革に掴まって立っている。身長の高い陣にとっては吊り革は少し掴まりにくい位置にある。

 途中の停車駅に到着し、出口のドアが開く。陣の前に座っているサラリーマンが立ち上がった。

 陣が体を寄せて道を開けようとすると、サラリーマンが体を陣にぶつけてきた。サラリーマンは陣のほうをちらっと振り返り、何も言わずそのままドアから出ていった。

 小さなことだが、陣はサラリーマンの態度に少し苛立った。

 しばらく経っても誰も座る者がいなかったので、陣は空いた席に腰を下ろした。

 次の駅に到着し、乗客が乗り込んでくる。ヒールの高い靴を履いた金髪の女がこちらのほうに歩いてきた。

「いてっ!」

 陣は短く叫んだ。女がヒールで陣の足を踏みつけていったのだ。

 陣は女を睨みつけ何か言ってやろうと思ったが、女は振り返ることもなく他の車両へ歩いていった。

 列車が発車する。

 区間を走行中、車両が揺れた時、近くに立っている中年女性が持っている鞄が陣の顔に当たった。だが女性は気にする素振りを見せない。鞄がずっと陣の顔にくっついているような状態だった。

「あの、当たってますよ」

 陣が苛々しながらそう言うと、ようやく気づいたらしい女性が謝罪した。

 次の駅に到着する。

 腰の曲がったおばあちゃんがのろのろと乗車してきた。辺りをきょろきょろと見回す。

 他に譲る人間がいないなら、自分が席を譲ろうと陣は思った。しかしその前におばあちゃんが一直線にこちらに進んでくる。

 そしておばあちゃんは、陣の腿の上に座った。

 頭上のブタがブヒッと鼻を鳴らした。



 自宅の最寄り駅に到着し、陣は商店街を歩いていた。

 なんだか散々な目に遭った。最近は毎日散々な目に遭っている気がするが、また方向性の違う散々だった。

 電車の乗客たちが、まるで陣のことが見えていないのかというほどに、無遠慮にぶつかったりしてきた。

 そういう態度の悪い人間はいるものだが、こうも立て続けに発生するものだろうか? おばあちゃんに至っては、陣を椅子と勘違いしたのだ。もちろんあの後陣は席を立っておばあちゃんに席を譲った。

 陣は歩きながら、ふー、と大きく溜め息を吐いた。近ごろは溜め息を吐いてばかりの気がする。

 自宅のボロアパートに到着し、二階に上がった。

 部屋の前の廊下を歩いていると、隣の部屋の住人がドアを開けて出てきた。大学生風の男だ。とくに関わりはないが、よく顔は合わせている。

「こんばんは」

 もう日も暮れているので、陣はそう挨拶した。

 男が陣を見て口を開きかけたが、そこで停止した。不思議そうにじっと陣を眺めている。

「あの、どうかしましたか?」

 陣は疑問に思ってそう尋ねた。

 そして男は陣に向かってこう言った。

「あなたは誰ですか?」

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