実家

 住宅地の一角にある、見慣れた二階建ての住居。風雨に晒された外壁は陣の以前の記憶より色褪せている。

 門を開けて、さらにその先の玄関のドアの取っ手に手をかける。引くと、そのまま開いた。陣が来ることがわかっているからか、鍵がかかっていない。

 陣は玄関から上がり、まず洗面所に行って手を洗った。勝手のわかる我が家に帰ってきたようなルーティンだ。

 それから一階のリビングに顔を出すと、母の明子がいた。明子は嬉しそうに微笑んでいる。

「陣、久しぶり」

「うん」

 陣の傍をスススと進んでいくものがある。ブタだ。ブタはリビングのスペースをはしゃいで走り出した。

「元気だった?」

 明子がブタに気づかず陣に訊いてくる。

「まあね」

 ブタはブオンブオンと飛び跳ねながら走り回っている。一体何にそんなに興奮したのか。

 明子が陣に近づき、ペタペタと陣の体を触ってきた。陣は母の体を押して遠ざける。

「ずいぶんでっかくなったね」

「前からだろ」

 逆に、母はどこか小さくなったように感じた。

「モテるでしょ? 彼女は? 結婚は?」

「うるさいな」

 陣は話を遮って歩き出す。二部屋続きのリビング。手前がフローリングで、奥がたたみだ。フローリングのほうには台所もある。一階はこの部屋と、洗面所に風呂場、そしてトイレ。

 二階は三部屋あって、一つは両親の寝室。一つはかつての陣の部屋。父は既に入院していて、今この大きな家には母一人しかいない。

「お葬式の仕事、大変でしょう? 大丈夫?」

「大変じゃない仕事なんてないだろ」

 ブタはウッホウッホとはしゃぎまくっている。その様子を見ていた陣は、一つ思うことがあった。

「あのさ」

「何?」

「前にこの家で、ブタ飼ってなかった?」

「ブタ?」

「そう。ちょうどこれぐらいの」

 陣はすぐそこにいるブタを見ながら手振りで大きさを示した。

「ブタ……」

 明子は目を大きく開いて、遠くを見るような表情だ。

 ブタを飼っていたか飼っていないかなんて、即答できるような話だ。にもかかわらず、母の歯切れが悪い。

「ごめん。ブタなんてうちで飼ってないよ。飼ってないはず」

 母はそう言いながらも、確信を持つことができていないようだ。それは陣も同じだった。まだ実家にいたころ、この部屋に小屋を置いてブタを飼っていたような気がしたが、記憶が定かではない。うっすらとそんな情景が思い浮かぶだけで。

「今日、お医者さんがお父さんの手術の説明してくれるんだって」

 母のその言葉で、陣は自分が実家に戻ってきた目的を思い出した。これから病院に向かう。

「陣の顔見たら、お父さんも喜ぶと思うよ」

 そうだろうか? 仮にそうだとしても、自分にできることなど何もない。

 あるとしたら、父が亡くなった場合だ。

 陣の仕事は死者を送ることだ。死者にさせないことではない。

 一通り走り回ったブタが、明子の足元にすり寄っていった。かなり懐いている。

「今そこにブタがいるよ」

「えっ?」

 陣はリビングを出て、階段を上がった。見ておきたい場所があった。

 二階の廊下を通った、一番奥の部屋。

 陣はドアを開けてその部屋に入った。

 物が少なく、すっきりしている。ただ漫画本がぎっしり詰まった本棚はそのままだった。思わず手に取りたくなる、懐かしいタイトルたち。

 陣はその部屋の一角に、二段ベッドのイメージを見た。

 ここはかつての自分の部屋。自分がゲームをして、漫画を読んで、寝ていた部屋。

 普通であれば、一人息子のために二段ベッドを買う親はいない。それなのに、記憶のどこかでこの部屋に二段ベッドがあった光景がある。

 キシキシ。

 妙な音が聴こえた気がして、陣は振り返った。

 しかしそこには何もいない。

 陣は思い出すことができない。

 失われた記憶のピースは見当たらなかった。



 母の明子とともに父の入院している病院に向かった。ついでにブタが陣の頭の上で眠っている。

 ロビーの受付で手続きを済ませ、廊下を歩く。

 目的の病室はドアが開いていた。中を覗くと、黄緑の病衣を着た父の正行まさゆきがベッドに座っていた。陣は中に入っていく。父と目が合うと、頷くように小さくお辞儀した。

「わざわざ来てくれたんだ」

 穏やかにそう言う父は、少し見ない間に髪の毛が真っ白になっていた。染めるのも面倒になったらしい。そして全体的に痩せた気がした。

「具合はどう?」

 陣は尋ねた。

「べつになんとも」

「そのせいで発見が遅れたんでしょ」

 後を引き取るように母が言った。発見が遅れたということは、癌が進行してしまっているということなのか。

 それからしばらくすると、白衣を着た中年の男の先生がやってきた。二日後に行う手術についての説明をするためだ。

 先生は用紙に印刷された図を用いながら、そこにペンで線を引いたりして、具体的な内容を説明していった。陣はあまり聞いていなかったが、腸の一部を切断して短くなるため、術後は大便が出やすくなるという話の箇所だけやけに印象に残った。とにかく癌らしきものが発生した箇所を丸ごと取り除くらしい。そして切られた二つの箇所を繋ぎ合わせる。他の場所に転移していないかどうかは、その取り除いたものを検査して確かめるという。手術を行う上で、父と母の了承のサインが必要になり、二人はサインした。

「何か質問はありますか?」

 一通り説明を終えたところで、先生が陣に向かってそう尋ねた。説明の間一言も発していない陣に気を遣ったようだ。

「先生の好きな食べ物は何ですか?」

「ふっ。好きな食べ物? 僕の? なんだろ。餃子とか」

「そうですか。わかりました」

「他に質問はありますか?」

「いいえ」

 先生は最後にまた両親に伝えるべきことを伝えて、病室から出ていった。誠実で、優しそうな人物だ。きっとちゃんと手を尽くしてくれるだろう。

 これで父と会うのが最後になるとは思わなかった。それでも別れ際、陣はもう一度父の姿をその目に収めた。

 棺桶に入った父の姿が想像された。

 陣はそのイメージを振り切るように首を振り、病室から出た。



 陣は明日からまた仕事なので、東京に帰ることになる。病院は退屈だったのか、ブタはずっと陣の頭の上でぐったりしている。

 夕食を一緒に食べていこうと母に言われて、陣たちは駅前の大型ショッピングモールにやってきた。

 懐かしい場所だ。他に目ぼしい施設もないこの地域では、学生時代遊びに行くといえばだいたいこのショッピングモールだった。自転車を走らせてよく来たものだ。

 ただっ広い空間に多くの店が並んでいる。見ながら歩いているだけでも楽しい。老若男女問わずたくさんの人間がいて、いろんな音が混じり合って波のように耳に届く。賑やかだ。

 陣たちは一階のレストラン街にあるパスタ専門店に入った。席に着き、各々好きなものを注文する。陣は中華料理は毎日のように食べているので、それ以外ならなんでもよかった。

「お父さん、心配だね」

 母の明子が不安そうに言った。

「手術が成功しても、他に転移している可能性があったら、薬を飲まないといけないみたい」

 それはつまり、薬に頼らなければ生きていけない体になるということなのか。父の正行はまだ五十過ぎだ。この時代の平均寿命を考えればまだまだ生きられる。常に不安を抱えながら生きなければならないというのは、大きな重荷だ。

 テーブルにパスタが運ばれてきた。陣はフォークを手に取る。

「こんな気持ち、陣が死にかけた時みたい」

「えっ?」

 陣のフォークを持つ手が空中で停止した。

「陣って、よく危ない目に遭うでしょ? 川で溺れたり。自転車に乗って車と事故を起こしたり。工事現場から落ちてきた鉄骨に当たりそうになったり」

 陣は言われて思い返す。確かに過去にそんなことがあった。溺れた時なんか意識を失ったはずだ。酷い臭いのする水死体になっていてもおかしくはなかった。

「毎回運よく助かってるけど、陣のこといつも心配になるの。東京に出てからも。最近は大丈夫?」

 陣は驚き、返答することができなかった。思い当たる節があったのだ。ついこの間、寝台車を運転している時にトラックと正面衝突しそうになった。あのまま行けばほぼ確実に自分は死んでいた。助手席に乗っていた黒崎とともに。

 陣が助かったのは、トラックが突然方向を変えたからだ。何か理解できない力が働いて、危険を阻止し陣を守ったかのように。一昨日の酔っ払いに絡まれた時だって。

「陣?」

 陣は母の声を聞いていなかった。思考が繋がっていき、脳内物質がすごい勢いで回っている。

「陣が東京に行ってから、すごい寂しいんだよ」

 飛び立った陣の思考が現実に戻ってきた。少しやつれたような顔の母が顔が見える。

「家がすごく広く感じて。陣だけじゃない。他にも……」

 そこで母の言葉が途切れた。まるで見えない手に口を噤まれたように。

 違和感を感じているのは陣だけではないようだった。あの家には他にも誰か住んでいた。だけどその誰かが、思い出せない。記憶に蓋をして閉じられているかのように。

「あのさ」

 陣は思い耽るような表情の母に尋ねる。

「俺って、一人っ子?」

 母が目を見開いて陣を見つめた。

「そんなの決まってるでしょ」

「何が決まってるって?」

「お母さんたちの子供は、陣だけ……」

 母の目線が下がっていく。それは確信を持った言い方ではなかった。

 テーブルの上で、ブタが寝転んでいた。

 陣はフォークを動かし、皿の上のパスタを巻いた。



 レストランを出て、母と別れた。父の手術の後、結果を報告してくれるように頼んである。

 陣は東京に帰り、明日からまた仕事だ。

 葬儀というものに急に実感が湧く。それはどこか遠くの出来事ではなく、いつ自分たちが当人となってもおかしくないものだ。

 それはつまり、死というものは常にどこに潜んでいるかわからないものだということだ。

 人の多い賑やかなショッピングモールの中を歩く。

 ブヒッ。

 ブタが突然鼻を鳴らして勢いよく走り出した。

 陣がブタが走っていった前方に目を向けると、一人の男が背中を向けて立っていた。

 陣より少し背の低い、陣と同じような癖毛。少年といった佇まい。

 耳鳴りがした。陣の視線はその少年に吸い寄せられた。

 一歩、一歩、近づいていく。

 遊ぼうぜ、陣。

 陣は少年に向かって手を伸ばした。

 そして落ちた。

 静かで不気味な空間へと。

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