郷愁
中華料理屋『
その通話で陣は母から父が癌かもしれないと告げられた。
「うん、それで。手術って?」
陣は努めて冷静に話そうとするが、自分でも若干声が震えていることがわかった。
『腸の一部を切らなきゃいけないみたい』
「……」
生々しい内容を聞かされ、陣は言葉に詰まった。それはつまり、腹を切り開くということか。
『それほど心配はないみたいだけど。万が一ということもあるから。手術前に一度お父さんの顔見に来れないかなって』
「ああ、うん。行くよ」
その後陣は母から父の入院と手術のスケジュールを聞いた。
通話を終えて席に戻ろうとすると、近くに王さんが立っていた。
「陣さん。誰か病気なの?」
「うん。父が癌かもしれなくって、手術するんだって」
「ごめんネ、聞こえちゃって」
「ああ、いいんだよ」
王さんが申し訳なさそうな顔をしているので、陣は構わないというように笑った。
席に戻る。
「愛人からの電話だった?」
黒崎が澄ました顔で訊いてきた。杏子がきつい目つきで陣を睨みつける。
「愛人もなにも、俺結婚してないですよ」
陣は母からの電話の内容を伝えた。父との面会をするため、仕事のスケジュールを調整してもらう必要がある。
「休み、一日だけでいいの?」
黒崎に尋ねられる。
「はい。別に俺がいてもどうにもできないですし。手術前に一度顔を見られれば」
「もっと休んでいいのに」
「実家にいても、漫画読むことぐらいしかやることないですよ」
「あの、陣さん」
名前を呼ばれ、顔を向けると、杏子と目が合った。
「ああ。なるほど。かけ合ってみようか?」
「何をですか?」
「もし父が死んだら、その遺体は杏子の好きにしてもいいかって」
「陣さん、私のことなんだと思ってるんですか」
「死体愛好家」
「怒りますよ」
「違かったっけ?」
「これでも心配してるんですよ」
「ああ、そうなんだ」
「でも、もしそうしてもらえるなら」
「えっ?」
「な、なんでもないです」
この日の食事を終え、陣たちは店を出る。
「陣さん、
別れ際、王さんにそう声をかけられた。いつもは「頑張って」という意味の「
帰路に就き、自宅のアパートの部屋に到着した。部屋に入り、明かりを点ける。
玄関を上がってすぐのところに、ブタの置き物があった。こんなもの買った覚えはない。陣がリビングのほうに進んでいくと、ブタの置き物が音もなくついてきた。どうやら置き物ではなかったらしい。
シャワーを浴び、歯を磨き、部屋着に着替える。ベッドの上に横になってスマートフォンの路線アプリをつけた。明日実家に着く時間を想定して、電車に乗る時刻を決め、家を出るべき時間を確かめた。すぐ横ではブタが眠そうな顔でダラッとしている。こいつは今日一日何をしていたのだろう? 知らないうちに陣の部屋に住み着いている。
陣は髪が乾くまでベッドの上で漫画を読み、それから眠った。すぐに眠りに落ちる。
夢の中で、陣はブタの散歩をしていた。
「小次郎、行くぞ」
陣はブタのことを小次郎と呼んでいた。小次郎はその辺の草をむしゃむしゃとむさぼって、動こうとしない。食いしん坊な奴だ。
場面が切り替わる。
陣がランドセルを背負って学校から帰ると、母がリビングから出て慌てた様子で駆け寄ってきた。
「陣、小次郎がいなくなっちゃったの」
どれだけ探しても小次郎は見つからなかった。電信柱に迷子の子ブタの張り紙を貼っても。
朝が来た。夜が朝に変わるように、潜在意識から意識を受け取る。
仕事の支度をしなくては、と一瞬考えるが、今日は仕事ではなかったことに気づく。
久しぶりの帰省だ。
陣は仕事柄毎日のように葬儀の光景を見る。親戚一同が集まるのは、大抵誰かの不幸があった時だ。今日陣が家族に会いに行くことも同じく。そう考えると少し虚しい。
支度を終えて部屋を出ようとすると、陣の頭の上に何かが乗った。乗ったと思ったが、何の感触もない。頭が若干重く感じられたが、手で触ろうとしても何にも触れない。
ブヒッ。
陣の頭上で音が鳴った。陣の視界の上のほうで、突き出た鼻のようなものが見えている。
陣はブタの帽子を被って家を出た。
ブタを頭にのせて歩く陣だが、道行く人は誰一人頭上のブタに目を留めることはなかった。頭にブタをのせている人間がいたら、大抵の人は二度見ぐらいするだろう。このブタもやはり、陣以外の人間には見えないのだ。
電車に乗り、都心から遠ざかる方向へ向かう。
席が空いてくると、ブタが陣の頭から下りて隣のシートでごろんと横になった。陣はブタのお腹をもみもみしようとしたが、やはり触れない。
目的の駅に到着し、陣は席を立つ。
「おい、行くぞ」
陣が周りの人間に怪しまれない程度の小声で声をかけると、ブタがとはっと目を開いた。シートから飛び降りてトコトコと陣のあとをついてくる。もしブタが起きなかったらそのまま置き去りにしていただろう。触って起こすこともできないのだから。
陣は駅を出て、故郷の地に足をつける。
空が広い。東京で暮らしていると、この空の広さを忘れてしまう。
駅前でも人が少なく、のどかだった。
開発が進んだ街並みは、陣の記憶と異なる部分がある。けれど大抵は変わらない。
昔から。
いろいろな思い出が蘇ってくる。
歩く陣の横を、ブタが短い足を懸命に動かしてついてきた。
実家に近づいてきた。
陣の記憶と寸分違わぬ光景。
陣はなぜか突然怖くなった。
この場所に真実が待っている気がした。
取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな焦燥に駆られる。
自分は罪を犯したのだ。
大切なことを、忘れてしまった。
知ることが、怖かった。
ブヒッ。
足を止めた陣を、ブタが傍で見上げていた。つぶらな瞳で見つめている。
「ああ」
陣はブタから一粒の勇気をもらい、再び歩き出した。
道の角を曲がり、その先に二階建ての実家が見えてきた。
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