晴れた空

 深夜近くの裏通り。憂いを帯びた瞳で着物姿の女性が陣を見つめていた。

 陣を憐れんでいるような、そんな表情。

 陣が何か言おうとすると、女性の唇が動いた。いくつかの文字の言葉を発するように。しかし女性の声は陣の耳に届かなかった。

 女性の視線が移った。陣の背後を覗き込むように。陣は後ろを振り返った。そこには誰もいなかった。前に向き直る。女性は陣に向かって優しく微笑んだ。それから背中を向け、歩き去っていく。下駄が地面に触れても音が鳴らない。

 陰でこそこそしていた野次馬たちはもう消えていた。

 折れてしまった街灯。へこんだ地面。

 異常は現実をも侵食している。

 帰らなければ。

 帰って、寝て、また明日に備えなければ。

 疲れがどっと押し寄せてくる。陣の脳はもはや考えることを放棄していた。ただ重たいだけのお荷物な頭蓋。

 まるで歩き方を忘れてしまったかのように、陣の体は動かない。しかし思い切って一歩を踏み出せば、あとは車輪が回るようにして進んでいった。

 自宅のボロアパートに到着し、部屋に入る。

 陣は力尽きるようにして、ベッドにダイブした。もう一歩も動く気力がない。

 ブヒッ。

 耳元でブタの鼻が鳴った。



 夢の中で、長い長い廊下を歩いていた。等間隔に蛍光灯が光る一直線の道。

 廊下は果てしなく、突き当たることなくどこまでも続いている。

 キシキシ。

 進むごとに視界が傾き、揺れた。左に、右に、上下に。風に舞う木の葉のように。

 胸の内は、一つの強い感情で満たされていた。

 哀しみ。

 もう戻ることはない、郷愁。

 泣き虫な、あいつ。

 こんな真っ黒な手では、もうその頭を撫でることは叶わない。

 キシキシ。

 もう終わりにしたかった。

 終わらせてほしかった。

 もう、いいだろう?

 お前はもう、大人になったのだから。



 陣はベッドの上で、目を覚ました。朝日がカーテンの隙間から漏れている。

 夢の中で発生した感情が、急速に萎んでいく。

 陣は濡れている目尻を拭った。

 ベッドの上で上半身を起こし、ぼーっとする。

 あと少しで、重要な何かを思い出せそうな気がした。しかし掴もうとするほどその記憶は逃げていく。

 眠ったことで、パンクしかけていた脳は、ある程度すっきりしていた。

 昨日はシャワーも浴びずに寝てしまったので、体がべたついている。陣はベッドから下りて風呂場に向かった。

 熱めのお湯を全身に浴びせる。昨日の出来事は、既に少しだけ過去の出来事となった。

 人間はすぐに忘れていく。時にそれが宝物のようにとても大切なものだったとしても。

 そうやって惰性で生きている。

 きっとそれは、いつか死が迎えにやってくることを忘れてしまいたいからだ。馬鹿なふりをして、生きるのだ。



 午前中の告別式。昨日の通夜で見た面々が参列している。

 棺の窓を開け、故人の遺体の顔の周りにみなで花を添えていく。故人の顔は銅像のように動かない。静かにただ佇んでいる。

 花を添える遺族たちに混じり、陣だけに見える故人本人が自分の遺体を覗き込んでいた。自分の遺体を見下ろし、何を思うだろうか。

 近くで陣が待機していると、故人である寝巻き姿の老人がやってきて、陣の隣に立った。昨日はずいぶん愉快そうにしていたが、今日は少し寂しげだ。悲しみに暮れる遺族たちを黙って眺めている。

「どうか安らかに」

 陣が小声で呟くと、隣に立つ老人が陣を見た。

「あと少しだけ、お供します」

 告別式が終わり、斎場の外へ棺を運んでいく。遺族や参列者たちに見送られ、霊きゅう車に棺を積み込む。

 陣が霊きゅう車の運転席に乗り、黒崎が助手席に乗った。その二人の間の人が座れないスペースに、老人がちょこんと乗っていた。

 陣が老人のほうを眺めていると、黒崎が訝しげな表情を向けてきた。

「まさか、そこに誰かいたりしないよね?」

「さあ、どうでしょう」

 陣は霊きゅう車を発進させた。ルームミラーに老人の姿は映っていない。

 晴れた清々しい陽気の中を進んでいく。雨の日の葬儀は、陣も気分が重くなる。もし選べるのなら、良い天気の日に送ってあげたい。そのほうが、天にも昇りやすいだろう。

 気づけば車内にいた老人の姿が消えていた。もちろん遺体はちゃんと棺の中にあるはず。いなくなったのは精神だ。

 火葬場に到着した。霊きゅう車から棺を出し、焼却炉のほうへ運んでいく。

 故人との最後の別れだ。遺族たちに棺の周りに集まってもらった。その中に寝巻き姿の老人の姿があった。

 老人は遺族一人一人の顔をじっくりと眺め、時に手で顔に触れるようにして、陣には聞き取れない言葉をかけていった。別れの挨拶をしている。黒崎が先を促そうとしたが、陣は老人が挨拶を終えるまで待った。老人は遺族たちに挨拶を終えると、朗らかな顔で陣のほうを向き、小さく頷いた。陣も頷き返す。

 遺体の入った棺は焼却炉の中へ。

 火葬の最中、陣は妙な感覚を感じた。

 何かが見えたわけではない。聞こえたわけでもない。

 ただ、何かが、空に向かって飛んでいった。

 そんな感覚があった。

 きっともう、あの老人に会うことはないだろう。

 故人は、輪廻の輪へと還ったのだ。



 この日の仕事を終えた後、陣たちはいつものように『加油ジョヨウ』を訪れていた。

 今日は杏子が好きな麻婆豆腐。山椒の効いた刺激的な味つけ。杏子は辛いものが好きだ。どんなに辛くても大丈夫らしい。陣と黒崎は辛いものはあまり得意ではない。セイロで蒸された点心類でお茶を濁す。

 美味しい料理に舌鼓を打っていると、陣のスタートフォンから着信音が鳴り出した。電話がかかってきている。画面を確認すると、母の明子あきこからだった。

 母から電話がくることはたまにあるが、大抵はアプリのメッセージで済ませている。突然の電話に少し戸惑いつつ、陣は出ることにした。

「ちょっとすみません」

 一声かけて席を立つ。人のいないトイレへの通路のほうへ進み、通話ボタンを押した。

「もしもし」

『あ、もしもし? えっと』

 母の声だ。

「陣だよ。自分の息子の名前も忘れたのか?」

『そんなことない。ちゃんと覚えてるよ』

「何か用?」

『あの、お父さんが検査で』

「ん?」

 母がお父さんと呼んでいるのは、陣の祖父のことではない。陣の父のことだ。母はお父さんという続柄で呼んでいる。

「検査がどうしたって?」

『ポリープが見つかったの』

 陣の体に嫌な感じが流れた。

『入院して、手術するんだって』

「手術?」

 スマートフォンを持つ陣の手がぷるぷると震え出した。

『もしかしたら、がんかもしれないって』

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