過剰
陣は駅前のロータリーで杏子に追いつき、一応の謝罪の言葉をかけた。なんだか知らないうちに機嫌を損ねていたみたいだから。杏子はいまいち納得していないようだったが、ひとまずよしとしておいた。
陣は電車に乗り、帰路に就く。電車に揺られながら、いろいろと考えた。
リミナルスペース。幽霊にブタ。忘れられた名前。
思考がぐるぐると回り、答えも出ないまま宙を漂う。
車両のドアが開き、自宅最寄り駅の駅名がアナウンスされていることに気づき、慌ててドアから出た。もう少しで乗り過ごしてしまうところだった。
下りのエスカレーターに乗り、左側に立つ。開けられた右側をせっかちな人間たちが階段のように下りていく。
改札を通過し、南口から出た。ロータリーを通り、アーケードのある商店街に入る。夜も遅くなってきたので、人はまばらだ。
コンビニで飲み物と明日の朝食べる甘いパンでも買おうかと考えて歩いていると、近くから短い悲鳴が聞こえた。
大通りと、今陣がいる商店街の間に、薄暗い裏通りがある。道を一本隔てるだけでだいぶ雰囲気が変わる。そこはガラの悪い若者がよくたむろしている場所だった。
商店街の横道から、一人の若い女が数人の男たちにからまれているのが見えた。悲鳴はその女が上げたようだ。危険な犯罪現場というよりは、男たちは酔った勢いで声をかけている迷惑行為に見えた。
陣は足を止めて逡巡する。関わるのは正直面倒だ。場合によっては自分の身にも被害が及ぶかもしれない。巡回する警官に見つかりでもすれば、職場に連絡される可能性も。どう転んでもメリットはない。
どうすべきか陣が迷っていると、こちらに顔を向けた懇願するような表情の女と遠くで目が合った。女は目で訴え、助けを求めていた。
こうなっては仕方ない。陣はここまできて黙って立ち去れるほど薄情でもなかった。騒ぎが起きている裏路地のほうへ進んでいく。
アルコール臭い赤ら顔の男たちは、ひょろっと背の高い陣が現れたことに一瞬驚いたようだった。しかしすぐにとろんとした眠そうな目でじろじろと陣のことを観察してくる。品のない不快な視線だった。男たちは四人いて、一人が女の手首を掴んでいる。
「えっと。困ってるみたいなので」
進み出たはいいものの、気の利いた台詞も思いつかなかった陣は、女を示してそう言ってみた。
男たちの目つきが鋭くなる。
「お前にゃ関係ねえだろ」
「天然パーマ野郎め」
「やんのか?」
「何を?」
陣は薄ら笑いを浮かべてそう訊き返した。
男たちの一人が、陣の上着の襟を掴んできた。酔って判断が鈍っているようだ。手を出せばのちのち困るのはそちらなのに。男がヘドロのような臭い息を陣に吹きつけてきた。恐怖というよりただただ不快だ。
グキッ。
聞き慣れない歪な音が響いた。上着の襟から男の手が離れた。
何が起こったのかわからなかった。男はたたらを踏んで数歩遠ざかっていた。
男は驚愕に目を見開いていた。そして自分の右腕を見下ろしている。
陣は見たくないものを見た。男の右腕、肘から先が、折れた枝みたいにあり得ない方向へ折れ曲がっていた。
「うわあああああああ!!」
男が絶叫を上げた。他の男たちは何が起きたのかわからず呆然としている。男の曲がった腕を目にした女も、短い悲鳴を上げた。
陣は何もしていない。ただ立っていただけだ。何が起きたのか。
腕の折れた男はみっともなくその場に仰向けになり、ひっくり返った虫のように両足をバタバタ動かして喚き騒いでいる。赤ら顔がすっかり真っ青だ。
ドン!
音とともに、衝撃で地面が揺れた。
陣の近くのアスファルトが、小さなクレーターみたいにへこんでいた。
ゴン!
街灯の棒の中間部分の一部がひしゃげ、上部が支え切れず折れ曲がり、地面にぶつかった。
陣は目の前で繰り広げられる光景に、心の奥底からの恐怖を感じた。すぐ傍に、目に見えない何かがいる。獰猛で、狂暴な、恐ろしい何かが。
「きゃあああ!」
女の悲鳴が上がった。
見ると、女の手首を掴んでいた男が、宙にぶら下がっていた。陣の身長よりはるかに高い位置。建物の二階より高い。まるで片方の足首を掴まれているみたいに、そこを軸にして逆さに吊られている。何もない空間に浮かんでいる。
これから男の身に起ころうとしていることを想像し、陣はゾッとした。
男の一人が宙に吊られ、一人は腕を折られて這いずり回り、あとの二人は驚きと恐怖で足をもつれさせながら転んでいた。
吊られている男の体がブンと振り子のように振られ、上体が浮き上がった。
「やめろ!」
陣は自分でも気づかないうちに叫んでいた。
そのまま地面に向かって放り投げられると思った男の体が、宙で止まった。男の顔は涙と鼻水でぐしょぐしょだ。
数秒ののち、男がそのまま真っ直ぐ地面に落下した。尻から墜落し、体がガクンと曲がり一瞬跳ね上がる。どうにか受け身を取ったようで、命は無事のようだった。
駆け出していく足音。振り返ると、女が泣きながら逃げていく後ろ姿が見えた。
陣はその場で呆然と立ち尽くす。男たちは無事な者から順に、散り散りとなって逃げていった。
陣から逃げるようにして。
騒ぎを聞きつけたらしい通行人が数人、通りの端からちらちらとこちらを窺っていた。どこまで目撃したかはわからない。
陣はその場から動けなかった。今目にした光景が信じられなかった。
茫然自失の陣の視界の中で、ふわりと浮かび上がるものがあった。
陣の目に、着物の女性の姿が見えた。『
女性は悲しげな表情で陣を見つめていた。
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