着物の女性
中華料理屋の『
「あなたのお名前は何デスカ?」
王さんにそう尋ねられ、陣は固まった。
これはさすがに偶然では済まない。会う人会う人がみな、陣の名前を忘れているのだ。毎日のように会う親しい人たちが、だ。陣はゾクッと背筋が冷たくなるのを感じた。
「俺の名前、本当にわからない?」
陣に訊き返された王さんは、不思議そうな表情で首を斜めに傾げた。キツネのように少し吊り上がった細い目で陣を見据えている。
「ごめんナサイ。
「いや、謝らなくていいよ。ただ、本当にわからないの? 嘘吐いてない?」
「陣くん。それぐらいでいいんじゃないかな」
陣は黒崎にたしなめられた。
「じん。ああそうデス。陣さんデス。あなたの名前は陣さんデス」
王さんは破顔して嬉しそうに言った。だが陣はまだ納得できない。みんなが示し合わせたように自分の名前を忘れるなんて。
そのことに対して怒りの感情があるわけではない。
どこか不気味なのだ。みんなが自分のことを忘れてしまったような気がして。
陣たちは席に着き、料理を注文した。
ふーっと一息吐き、気持ちを切り替える。
「陣くん」
黒崎のサングラスが陣を向いている。
「今日の葬儀中、なんだか上の空みたいだったけど」
「ああ、はい」
「大丈夫?」
「大丈夫、といえば大丈夫です」
陣はあのことを正直に話すことにした。というより、誰かに聞いてもらいたかった。
「俺、見えるようになったみたいです」
黒崎と杏子が陣に注目している。
「葬儀の最中、故人がその辺を歩き回っているのを見ていたんですよ」
「故人って、棺の中の?」
「はい。お経を唱えている間、棺の中にいるはずの人が、盆踊りを踊ったり、お坊さんの頭をすりすりしたりしていたんです」
「お坊さんの?」
黒崎がクスクスと笑い出した。きっと黒崎なら、葬儀の最中でもお構いなしに笑っていただろう。
「お坊さんの頭の感触はどうだった?」
「俺が触ったんじゃないです」
「そのきみが見た幽霊とは、会話できるの?」
「えっ?」
そういえば試していない。驚きがあまりに強く、それどころではなかった。
「もし死んだ人と会話できるなら、それは羨ましい才能だね」
黒崎の声が心なし憂いを帯びているような気がして、陣は彼を見た。黒崎は少し寂しげな表情で、サングラスの奥の瞳がどこか遠くを見つめているようだった。次の瞬間にはいつもの淡々とした顔に戻っていたので、気のせいだったかもしれない。
「水瀬くんはどう思う?」
黒崎が杏子に話を振った。
「知らないです。陣さんのことなんか」
杏子は突っぱねるように言った。拗ねているようだ。昼にちゃんと話を聞いてあげなかったことをまだ怒っているのだろうか。
「え、どうしたの二人。痴話喧嘩でもした?」
黒崎が突っついてきそうなところで、タイミングよく王さんが料理を運んできた。細切りのピーマンと豚肉、たけのこを炒めたチンジャオロース。陣はこの料理がかなり好きだ。濃いめの味つけが白米とよく合う。シャキシャキとした歯ごたえも良い。
「生きていることは幸せだ。死んだら美味しい料理を食べられないだろう?」
黒崎がサングラスの位置を調節しながら言った。確かに多くの人にとって食べることは生きる楽しみの一つだろう。死んで魂が天に旅立つことなく、幽霊のような存在としてこの地に留まれたとしても、実体のない状態では食べることは叶わないのだ。
「だけどね、僕は時たま、どうしようもなく死というものに恋焦がれることがあるんだ」
それは意外な発言だった。陣たちと年齢が離れているからかもしれないが、黒崎が自分の胸の内を晒すことは滅多にないし、そして死に惹かれているという言葉も。思えば陣はこのサングラス姿の御仁についてほとんど知らない。ほぼ毎日顔を合わせているにもかかわらず。
「その話、もっと詳しくお聞かせ願えますか?」
この際もっと腹を割って話してみたいと思い、陣はそう言った。
すると黒崎がきょとんとしたような顔で陣を見た。それから真顔に戻る。そして言った。
「うーん。なんだか眠くなってきたよ」
「え?」
「陣くん、子守歌を歌ってくれる?」
「……」
よくわからないが、どうやら軽く受け流されたらしい。あまり話したくはないようだ。
「じゃ、じゃあ、杏子は? 最近どう?」
「どうもしません」
「何か話したいことある?」
「陣さんに話したいことなんて何もありません」
杏子は冷たく言い放った。彼女は根に持つタイプなのか。怖いな。いつか後ろから背中に包丁を突き刺してきたりしないだろうか。いや、彼女は遺体は綺麗な状態にしたいと思うから、殺すなら薬か? この前彼女からもらったグミを口にしてしまったが、大丈夫だっただろうか?
「陣さん、ガンバ」
近くを通った王さんがそう声をかけてきた。彼女はいつも応援してくれるが、常に自分が頑張らなければならない状況にあると考えると、少し惨めだ。黒崎と杏子にももっと頑張ってほしいが、彼らは常にマイペースだ。踊らされるのはいつも自分のほう。
陣は、はあー、と大きく溜め息を吐いた。
「陣さん、頑張ってね。
店を出る時、いつも通り王さんが声をかけてくれた。何をどう頑張ればいいのかわからないが。
温まった体で、駅に向かって歩く。
三人で。
……おかしい。四人いる。一人多い。
陣は黒崎と杏子のほうを振り返った。
黒崎の隣に、着物を着た女性がいた。美人で、品のある佇まい。年齢は陣の母親と同じぐらいに見えるが、熟練された魅力のようなものが漂っている。
「あの。クロさんの知り合いですか?」
陣は立ち止まり、黒崎と着物の女性を交互に見ながら言った。
「えっ、誰が?」
「その、横にいる人」
陣が方向を示し、黒崎がそちらに顔を向けたが、どうやらピンときていないらしい。
「ええと、もしかして見えてないんですか? 杏子は? 杏子には見える?」
「陣さん。またそうやってふざけるつもりですか?」
「いや、俺はふざけてない」
「嫌いになりますよ」
「嫌わないで」
と、懇願している場合ではない。女性が進み出て、陣のほうに近づいてきた。腰から上体を曲げて、じろじろと陣の全身を眺めてくる。
「あ、あなた誰ですか?」
陣は思わずそう口走っていた。女性は直立に戻り、意思の強そうな目で陣を見据える。凛として、美しい。その瞳に吸い込まれそうだ。
杏子が女の勘で何かを悟ったのか、陣に近づき上着の裾を引っ張ってきた。
「もしかして、そこに誰かいるの?」
黒崎が訊いてきた。
「はい。少なくとも、俺の目にはバッチリと」
「どんな人?」
「綺麗な人です。着物を着て、上品な」
「着物……」
黒崎が考え込むような顔になった。
「私より綺麗ですか?」
「えっ?」
杏子から思わぬ言葉が飛んできて、陣は戸惑った。
「その人と私、どっちが綺麗なんですか?」
杏子が陣をキッと睨みつけながら言った。
陣は混乱した。ただでさえ想定外の事態なのに、なぜかちょっとした修羅場にまでなっている。
「え、えっと、そりゃあもちろん……」
陣は着物の女性と杏子を交互に見ながら魚のように口をパクパクさせた。こういう場合どうするのが正解なのだろう? 正解なんてあるのか?
女性がフフッと微笑んだ。妖艶でいながら、子供っぽさもある笑みだ。女性は踵を返し、背中を向けて歩いていく。結った髪の間から覗くうなじが綺麗だなと思っていると、消えた。煙のように。
「消えました。いなくなりました」
陣は実況を続けた。
「陣さん。いつまでそっち見てるんですか?」
「えっ?」
杏子に言われて振り返る。杏子はまだ怒っていた。彼女もこんなに感情を表に出すのだと意外だった。初めは人形のように静かな人だと思っていたのに。彼女も血の通った人間なのだ。
「何? もしかして嫉妬してんの?」
「し、してませんよ!」
杏子は顔を赤らめながらプンと顔を逸らし、その勢いで歩き去ろうとする。
「ちょっと待てよ」
陣は杏子を追いかけようとしたところで、その場にいる黒崎に意識が向いた。
「あの、クロさん、おつかれさまです。今日もごちそうさまでした」
「ああ。おつかれ」
黒崎はその場から動かない。どこか心ここにあらずといった様子だ。少し気になるが、今は杏子を追わなければ。明日からも彼女と顔を合わせて仕事するのだがら、ずっと気まずいままでいたら身が持たない。
陣は夜の街を駆けていった。
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