忘却

 朝。陣は目を覚ました。

 怖い夢を見た気がしたが、内容は思い出せない。ただ目のくり抜かれた着ぐるみの顔が脳裏にちらついた。昨日迷い込んだ不気味なアミューズメントパークの空間が頭に浮かぶ。

 人の消えたリミナルスペースに迷い込むなんて、ただの都市伝説でしかない。作り話だ。そう信じたいが、あの空間での出来事は確固たる体験として陣の中に植えつけられている。それを嘘とは言えない。あの体験が紛いものであるのなら、今いるこの現実の世界だって同じように紛いものになってしまう。疑い出せばきりがない。

 誰かに話してみるべきだろうか。だが話したからといってどうなるというのか。たとえ相手が陣の話を信じたとしても、置かれている状況が変わるわけではない。自分はどうしてあの空間に連れていかれてしまうのか、どうやって現実に戻ってきているのか。何もわからないのだ。

 もうあの化け物に出会いたくはない。リミナルスペースの中で、自分の他に唯一の動いている存在。もう少しで捕まるところだった。もし捕まったなら、化け物はやはり自分を喰おうとするのだろうか? 自分で言うのもなんだけど、とても美味しいとは思えない。サーロンステーキでも食べたほうがましではないかと思ってしまう。丸ごと食べられてしまったら遺体が残らないので、その場合棺桶が空っぽになってしまうな。杏子はきっと残念に感じるだろう。陣が食べられてしまったことではなく、陣の遺体が残らなかったことを。

 朝から妙な想像が捗ってしまい、陣は考えを振り切るようにしてベッドから起き上がった。用を足すためにトイレに向かう。

 トイレのドアを開けた。

「うわあああああ」

 陣は昨日の夜から何度目なのかという悲鳴を上げた。

 トイレの便器の中に、ブタがすっぽりと収まっていた。ブタは便器の中から愛嬌のある顔を陣に向けている。おはよう、良い朝だな、とでも言いたげだ。

 そういえば、ブタと一緒に寝ていたことを忘れていた。とんだ居候。

「てめえなんでそんなとこにいんだ」

 ブタは、おとといきやがれ、とでも言いたげな顔をした。

 陣はブタを持ち上げて便器の水にどれだけついているのか確認しようとした。その汚い水のついた体でその辺を走り回られたらたまったものではない。しかし陣の思うようにはいかなかった。ブタを掴もうとした陣の手が空を切ったのだ。そうだそうだ、こいつには触ることができないのだった。だとすれば、ブタの体に便器の水がつく心配もいらないのかもしれない。

「ちょっとそこ、どいてくれよ」

 日本語が理解できるとは思えないブタに対し、陣は話しかける。

「顔面にぶっかけちまうぞ」

 ブタは、やれやれ、と言わんばかりの顔で重い腰を上げた。便器の中からピョンと床に飛び降りた。意外にも身軽だ。

 陣はその場にしゃがんで、ブタの体の状態を確認する。よく見えないが、どうやら濡れていないらしい。念のため匂いも嗅いでみた。まったくの無臭だ。そもそも実体が無いようであるし。だが実体が無いはずなのに、床に足がついている気がする。不思議だ。

 リミナルスペースの他にも、このブタの問題も片づけなければならなかった。しかしひとまずは、用を足そう。

 陣はズボンのチャックを下ろした。

「ん? おい、見んなよ」

 ブタが陣のイチモツに興味津々といった目を向けていた。

「見られてたら出しにくいだろ。あっち行け」

 ブタは、そんなもんか、とでも言いたげな顔をしてトコトコと歩き去った。閉まっているトイレのドアを真っ直ぐ突き抜けていく。

「そんなもんで悪かったな」

 リビング兼寝室に戻ると、ブタが常軌を逸した様子でグルグルと円を描くように部屋の中を走り回っていた。

「どうした? 腹でも減ったのか? だが残念だったな。お前に食わせるワンタンメンはねぇ! そもそもお前実体がないんだから食えないだろ」

 陣はまるで人と話すようにしてブタに声をかける。なぜかそれがあたりまえだという気がした。

 ブタはしばらく走り回った後、急に電池が切れたようにドカッと横向きに倒れ込んだ。お腹ががら空きなので陣はその腹を揉もうと手を伸ばしたが、やはり触ることができない。陣は若干の欲求不満に陥った。そんな柔らかそうな体を見せつけてくるんじゃない。

 そんなことをしているうちに、家を出なければいけない時間が迫ってきた。陣は手早く支度を済ませる。ひとまずこのブタのことは放っておこう。今のところどうすることもできないわけだし。

 陣はビジネスバッグを片手に、部屋を出た。今日も葬儀社での仕事が始まる。



 陣は葬儀社に到着し、事務所に入った。同僚の面々と挨拶を交わす。

 自分のデスクに着いたところで、陣は違和感を感じた。

 なんだかみなが視線を交わし合い、時折ちらちらと陣のことを横目で見てくる。頭に鳥の糞でもついているだろうかと陣は自分の癖毛を擦ってみたが、汚れている形跡はない。何か言いたいことがあるなら言ってほしい。

 陣が視線を彷徨ませていると、上座に座っている黒崎と目が合った。目と目が合ったというより、陣の目と黒崎のサングラスが合ったのだが。

「あの、どうかしましたか?」

 陣は黒崎にというより、この場にいる全員に向けて尋ねた。

「ああごめんよ。一つ訊いてもいいかな?」

 黒崎がそう言う。

「はい、何ですか?」

「きみの名前は?」

「えっ?」

 事務所の中が静まり返る。その場にいる全員がその質問に注目しているのがわかった。

「何言ってるんですか? 俺の名前忘れたんですか? 日が一日空いただけで」

「すまないね。どうしても思い出せなくて」

「陣です。涼風陣です」

「ああ」

 黒崎は合点がいったというように右手をグーにして左の手の平をポンと叩いた。

「そうだったそうだった。陣くんだったね」

 周りの同僚たちも、疑問が解消されたようなすっきりした表情になった。

 どうしたのだろう? こんな一斉に人の名前をド忘れすることなどあるだろうか?

 そういえば、気にも留めていなかったが、昨日リミナルスペースから現実に戻ってきた時、杏子も自分の名前を尋ねてはいなかったか? そんな偶然があるだろうか? みんなに一斉に名前を忘れられるなんて。

 陣は違和感を覚えながら、この日のスケジュールを確認した。



 斎場に行き、通夜の準備をした。式場で祭壇を組み立てて、飾りをつけていく。陣はシフトが同じ杏子と一緒に作業していた。

「昨日は、どうだった?」

 手を動かしながら、陣は杏子に話しかけた。杏子が陣に目を向ける。

「楽しかった?」

 一緒に行ったアミューズメントパークの話だ。

「はい、楽しかったです。ありがとうございます」

「そう。それならよかった」

「陣さん。あの」

 陣はそれ以上杏子の話を聞いていなかった。驚愕に目を見開き、ある場所を見つめた。

 今式場の中には二人しかいないと思っていた。しかしすぐ近くに人がいる。寝巻き姿の老人だ。老人はぼんやりとした表情で祭壇を眺めている。

 その老人の顔は、設置してある遺影の顔にそっくりだった。

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