添い寝
木の葉のように薄く広がった耳。豆粒のようにつぶらな瞳。スタンプを押すのに適していそうな突き出たピンクの鼻。
アパートの自室の前に、ブタがいた。まだ子供なのか、それともそういう品種なのか、それほど大きくはない。体長五十センチ、体重ニ十キロと見た。
なぜそんな即座にブタのおおよその体重を把握できたのか、陣は少し不思議に感じた。しかしもっと不思議なことが、目の前にある。なんでこんな場所にブタが。近所の誰かが飼っているのか?
ブタは陣の存在に気づいたらしい。もっちりとした胴体の大きさに比べ短めの足を動かし、トコトコとこちらへ近づいてくる。
「お、なんだこっち来んのか?」
陣は来るなら来いと、ブタを受け止められるように上体を屈めた。
ブタは真っ直ぐ近づいてくる。
そして陣は見た。
「うわあああああ」
陣は近隣住民に迷惑のかかりそうなみっともない悲鳴を上げた。ブタが、陣の足の中に吸い込まれていったのだ。陣は思わずその場で尻もちをついた。
「あれ?」
廊下の床に座り込んだ陣は、自分の後ろにブタがいることに気づいた。
「お前今どうやって」
吸い込まれたのではなく、すり抜けたのか? とはいえ驚くべき現象であることに変わりはない。
ブタが方向転換をして再び陣のほうへ近づいてきた。陣は受け止めるためにブタのほうを向いて両手を構えた。
「うわあああああ」
ブタが陣の手と足をすり抜けていった。陣は再び尻もちをつく。
ブタは後ろ側にいた。方向転換しまたこちらへやってくる。
「うわああ、って、三回も同じことするか!?」
陣は近づいてきたブタに両手で掴みかかった。
「なに!?」
陣の手がブタの体の中にめり込んでいた。にもかかわらず一切の感触がない。
また陣の後方へ進んでいったブタを、陣は仇でも見るような目で振り返った。
「お前、何なんだよ」
陣に関心を持たれていることを悟ったらしいブタは、ブヒッと楽しそうに鼻を鳴らした。
「えっ?」
陣はそのブヒッという音に聞き覚えがあった。一昨日の夜、『
「お前は?」
尋ねられて、そうじゃわしは……とブタが答えるはずがない。ブタは餌でも探すようにその辺をふらつき始めた。
「放っておいて、いいんだよな?」
アパートの管理人に手で触れないブタがいるんですけどと報告しても、ただ不審に思われるだけだ。
まだ疑問は拭えていないものの、陣は一度自宅に入ることにした。後でもう一度顔を出して確認することにしよう。
アパートの自室に入り、電気を点け、鍵を閉め、荷物を置いて手を洗いに行った。
またいろいろと妙なことが起こった日だった。陣は洗面所の鏡に映る自分の疲れた顔を見ながらそんなことを思った。癖毛は相変わらずだ。
手を洗い終え、リビング兼寝室の我が城へ移動した。
そして陣は見た。
「うわあああああ」
先ほど部屋の前にいたブタが我がもの顔で陣のベッドの上に居座り、気持ち良さそうに寝そべっていたのだ。
「なんでお前がいんだよ!?」
訊かれたブタは、ノーコメントを貫いている。騒ぐんじゃない、もっと品良くエレガントにいたまえ、とでも言いたげだ。
玄関のドアは閉まっている。ちゃんと鍵もかけたはずだ。陣が入る時に一緒に入ったわけでもない。それならさすがに気づいている。このブタはどこから入ってきたのか。
「お前まさか」
言ってみたまえよ、とでもブタは言いたげだ。
「ゆ、ゆ」
そうだ、勇気を出して。
「ゆ」
きみにエールを。
「湯豆腐好きなのか?」
ブタは興味を失くしたように目を閉じて眠った。
その日、陣はブタと添い寝した。ブタに実体はなく、触ることができないので、ベッドの上から追い出すことができなかったのだ。ブタは美味しいものを食べる夢でも見ているのか、時折寝ながら口をもぐもぐと動かした。あどけない仕草が可愛く見えて、つい手を伸ばしてしまうが、やはりブタの体を通過してしまう。どうせならこのもっこりとした体の体温を感じながら寝てみたかったのだが。
ブタを眺めていると、陣は懐かしさを感じた。ずっと前から、このブタのことを知っている気がする。そんなわけはないのに。なぜだろうか。
陣は電気の消された薄闇の中、テーブルの上にあるゲームのコントローラーに目を向けた。
それも懐かしい品だった。実家にいたころ、学校から帰ると毎日そのゲームで遊んでいた。
一緒に。
……あれ?
おかしい。
思い出せない。
自分は一人ではない。二人で一緒にプレイして、対戦を楽しんでいた。
相手がいたはずだ。
その相手が、思い出せない。
毎日一緒にいたはずなのに。
記憶のその部分だけが、靄がかかったように歪んでいる。
陣は思い出したかった。
とても大切な宝物を失ってしまったように、自分の中から何かが抜け落ちている。
胸の内に喪失感が広がっていった。
目尻に涙が浮かび上がってきた。
大切な誰かのことを、忘れてしまっていた。
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