送る

 夢の中で、長い長い廊下を歩いていた。

 等間隔に並ぶ蛍光灯が光る、一直線の道。

 キシキシ。

 前へ進むごとに視界がぐらついた。

 左に傾き。右に傾き。上下に動き。

 ゆらゆらと、水面の上で揺れるように。

 キシキシ。

 意識が一つの強い感情で満たされている。

 溢れそうなほど、哀しみでいっぱいだった。

 キシキシ。

 多くのことを忘れてしまった。

 自分が誰なのかも忘れてしまった。

 キシ。

 目の前に小さな男の子がいた。つぶらな瞳のいたいけな少年。

 少年に向かって手を伸ばした。

 骸骨のように節くれ立った黒い手を。


 ブヒッ。

 陣は目を覚ました。

 遮光カーテンの隙間から微かに朝日が漏れている。

 心地良い一日の始まりを祝福するように、鳥たちが囀っている。

 夢を見そうな気はしていた。昨日はいろいろとあって、様々な感情に囚われて眠ったのだ。

 陣は体を起こそうとして、ふと気づいた。

 目尻が濡れている。

 指先でそっと触れ、拭った。

 泣いていたのか。なぜか悲しい夢だった。

 築四十年を超える広くもないアパートの一室。

 陣はベッドの近くにあるテーブルの上を見た。

 そこに一枚のカードが置かれている。昨日駅で拾った、懐かしいゲームのカード。

 カードに手を伸ばそうとしたところで、目覚ましのアラームが鳴った。穏やかな朝に響く騒々しい音を止める。

 さあ今日も出勤だ。陣は床に足を下ろし、立ち上がった。

 陣の中で悲しみの痕はもう消えていた。



 陣は葬儀社に出勤し、それから斎場へ向かった。昨夜の通夜に続き、今日は朝から告別式がある。

 ロビーで参列者の案内をしていると、近くから怒号が聞こえた。

 確認しに行くと、スタッフの杏子に向かって中年の男が声を荒げていた。その男は喪主だったはず。

「どうかされましたか?」

 陣ができるだけ丁寧に声をかけると、喪主の男が興奮した赤ら顔を陣に向けた。陣はひょろっと背が高く、男より頭一つ分ぐらい背が高い。陣の体格を見て男は一瞬躊躇ちゅうちょしたようだが、すぐに鼻息荒く話し始めた。

「この姉ちゃんにちょっと尋ねただけだよ。おたくらぼったくりじゃないかって」

「ぼったくりですか」

「高すぎるんだよ。何もかも」

 葬式にかかる金額は、確かに高い。車一台買えてしまうほどだ。祭壇に飾る花や食事にかかる値段にしても、普通に買うより何倍もかかる。陣もこの職場で働き始めて驚いたものだ。男の言いたいこともわかる。しかしあらかじめ取り決めがあったはずだ。

 杏子は両手を胸に当てて不安そうにしながら、成り行きを見守っている。引っ込み思案な彼女は初対面の人間と話すことは得意ではない。おそらく男は相手が弱いとわかっていて杏子を怒鳴りつけたのだろう。

「お話はお伺いします。ただし、葬儀は故人様を送る大切な儀式です。どうか安らかな気持ちで故人様を送って差し上げることはできませんか?」

「ちっ」

 陣の真っ当な言い分を受けて、男は苛立たし気な態度で去っていった。

 この手のことは、よくあることだ。この社会の何割かに、そういうタイプの人間はいる。

 陣はその場で突っ立ったままの杏子を見た。

「大丈夫か? 気にするなよ」

 陣が声をかけると、杏子は陣を見つめながら小さく頷いた。

 陣は仕事に戻った。今の相手が喪主だったので、この後の葬儀が少しやりにくくなるが、仕方ない。ビジネスモードで乗り切ろう。

 陣が告別式前の会場の整理を行っていると、突然くいっと上着の裾を後ろから引かれた。

 振り返ると、そこに人形のように無表情な杏子がいた。

「ん? どうした? また何かあった?」

「あの、陣さんこれ」

 杏子が小さなパックを差し出した。スーパーやコンビニで売っている果物味のグミだ。

「グミ? それがどうした?」

「どうぞ」

 杏子がパックの開け口を陣に見せるようにした。

 なんで今ここでグミ? と思ったが、せっかくの厚意を無下にもできないだろう。陣はパックからグミを一粒取り出して口に運んだ。

「ありがと」

 陣がお礼を述べると、杏子は陣を見つめながら静かに身を引いて、それから背中を向けて去っていった。

 一体何なんだ? さっき助けたお礼のつもりだろうか? やっぱり彼女はちょっと変わっている。



 式場で告別式が始まった。黒崎が司会をし、故人について作成した文章を読み上げる。遺族の意向によって簡単な動画を作ることもある。依頼した住職にお経を唱えてもらい、お焼香をする。陣たちにとっては毎日のように見る光景だ。

 告別式が終わると、故人の棺を霊柩車に積み、火葬場へ向かう。運転手は陣だ。昨日は寝台車運転中に事故に遭いかけたので、より慎重になった。一度死んだのにもう一度死ぬなんて、故人もこりごりだろう。

 火葬場に着き、遺体を焼く間、参列者たちには食事をしてもらう。

 火葬場には火夫かふという遺体を焼く仕事をする人間がいる。焼かれていく遺体の状態を見ながら、骨以外が完全に溶けるように火力や風力を調整していくのだ。陣は直接見たことはないが、とても凄惨な現場だろう。けれど、そういう仕事をする人間がいるから、この社会は成り立っている。普段自分たちが牛肉や豚肉を食べたりできるのも、その処理を行っている人間がいるからだ。

 火葬が終わり、遺族や参列者に集まってもらって遺族の骨を骨壺に収めていく。

 すすり泣く声が聞こえた。喪服を着た小さな女の子だ。故人の孫か、さらにその下の世代かもしれない。

 女の子の泣き声につられて、遺族たちの表情にも悲しみの色が広がっていった。自分たちの前から、一人の人間がいなくなったのだ。そして自分たちも、いずれそうなる。

 人はこの世に生まれ、多くの人と出会い、そして最後は別れる。

 最後は必ず別れが待っている。

 そう考えると、人生というのは切ないものだ。

 いずれお別れをすることが決まっているのだから。



 葬儀社としての業務を終えた後、陣たちは再び中華料理屋の『加油ジョヨウ』を訪れた。

「いらっしゃいマセ」

 中国人留学生の王さんが快活に声をかけてきた。

「やあ王さん。今日も綺麗だね」

 サングラスの黒崎が淡々と言った。

「えっ、綺麗デスカ!? 嬉しい! 謝謝シェイシェイ!」

「いてっ!」

 王さんがはみかみながらバチコーンと陣の肩をひっぱたいた。

「なんで俺を叩くんだよ」

「えっと、つい」

「ツイストスパイラルパーマ」

 杏子がよくわからないことをぼそっと呟いた。

 王さんが陣に目を向ける。

「陣さんも言ってくださいヨ。ワタシのこと綺麗だって」

「綺麗だよ」

「ぜーんぜん気持ちこもってないデス!」

 バチコーン!

 痛い。

 陣たちはテーブルに着いた。

「今日もおつかれさま」

 黒崎が紹興酒を片手に言った。

「きちんと送ることができて、故人も安らかに旅立てるね」

 その黒崎の言葉を聞いて、陣は一つ思ったことがあった。

「そういえばこの仕事をしているとたまに聞きますけど」

「アカウントがBANされることがあるって?」

「えっ、違いますよ。なんでアカウント」

「安置室から人体の一部を盗んでホルマリン漬けにし、部位ごとにネットで紹介しているアカウントだよ」

「そりゃBANされるでしょ! つーか垢BANどころじゃないでしょ!」

「そのアカウントはどこにありますか? 教えてください」

 杏子が興奮で目を見開きながら言った。冗談が通じないのか?

「そんなものはなーい! 俺が訊きたかったのは、クロさんも見えたりするのかってことです」

 陣は黒崎のことをクロさんと呼んでいる。

 テーブルにエビチリが運ばれてきた。杏子はエビが好きだ。

「見える? 幽霊ってこと?」

「はい」

 黒崎も杏子も、なんとなく自分より霊感がありそうな人間に見える。どことなくそっち寄りというか。

「残念ながら、僕は見えたことないね。友人にそういう人間はいるけど」

「そうですか。杏子は?」

「私は実体のない幽霊より、実体のある遺体のほうが好きです」

 好きです、と言ってしまっている。そっちのほうが怖いぞ。彼女に訊くんじゃなかった。

「生きている人間よりも好きなの?」

 黒崎がなぜか深掘りしようとする。

「生きている人間は嫌いです。だけど」

 杏子が視線を彷徨わせて躊躇した。もじもじしているところは女の子らしい。やがて杏子の視線が一点に向いた。

「陣さんのことは好きです」

「えっ?」

 熱のこもった杏子の視線を受けて、陣は戸惑った。それはどういう意味の言葉? 遺体が好きなのと同じような感じ? それとも恋愛として?

 杏子が頬を赤らめながら顔を逸らした。黒崎は陣と杏子の様子をサングラスをかけた無表情で観察している。

「お待ちどうさまデース」

 王さんが良いタイミングで料理を運んできた。揚げた鶏肉にタレと刻んだネギのかかった油淋鶏ユーリンチー

 料理に意識が向き、その話は曖昧に終わった。



「陣さん頑張ってね。加油ジョヨウ!」

「だからなんで俺だけ」

 王さんに見送られて、三人は店を出た。

 駅に着き、それぞれ乗る路線の違う三人は別れる。

 陣が改札から入ろうとすると、突然上着の裾を後ろから引っ張られた。

 振り返ると、杏子がいた。

「ん? どうした?」

「陣さん。私たち明日休みですよね」

「ああ。葬儀もないし、緊急で呼び出されたりしないかぎり」

 杏子は陣の上着の裾を掴んだままだ。無理に引き剥がそうとは思わないが、ちょっと体が近い。杏子の大きな瞳が強烈に視界に入る。

「私、明日あそこに行きたいんです」

「あそこ?」

 聞くと、それは誰もが知る有名なアミューズメントパークだった。

「そうなんだ。友達と行くの?」

「いいえ」

「もしかして、一人で?」

「……今のところ」

 杏子は陣の上着の裾を掴んだままじっとしている。陣が何か言ってくれるのを待っているらしい。

「ああ、うん。そうだなー。俺もなんとなく明日そこに行きたい気がするなー。誰か一緒に行ってくれる人はいないかなー」

 陣は下手な芝居がかった口調で言った。

「ああそういえば、杏子も行きたいんだっけ? じゃあ一緒に行く?」

「はい」

 杏子は嬉しそうに笑い、パッと陣の上着の裾を離した。

 まさか杏子から誘われるなんて思ってもみなかった。相手が相手だけに少しばかり不安だが、家でただゴロゴロしているよりは充実した休日になるかもしれない。

 軽く明日の予定を決めて、杏子と別れた。

 陣は改札から入り、列車に乗車した。

 列車の閉まったドアに寄りかかり、車窓から何気なく外を眺めていると、どこからか予感が湧いてきた。

 明日は何かが起こりそうな気がする。そんな予感が。

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