ブヒッ
「いらっしゃいマセ」
少し片言の明るい声が響いた。
陣たちが来たのは、斎場の近くにある中華料理屋の『
陣と黒崎と杏子の三人は、王さんに促されてテーブルに着いた。王さんがテーブルにグラスに入ったジャスミン茶を並べる。黒崎が料理の注文をした。
「陣さん、今日はなんだか元気がなさそうデスネ」
「そう見える?」
王さんに言われて陣は訊き返した。
「彼は今日、二回も死にかけたんだよ」
黒崎がなぜか嬉しそうに言った。
「えっ? 彼女にキレられてフライパン投げられたんデスカ?」
「なんでそうなるんだよ」
近くで杏子がぼそぼそっと「頭にぶち当たって亡くなればよかったのに」と呟いた気がした。彼女だけは本気でそう思っていそうで怖い。
王さんが注文を受けて引っ込んでいく。
三人は葬儀社での仕事を終えた後、毎日のようにこの店で晩餐をする。お金は全て黒崎が出してくれるので、一人暮らしの陣に断る理由はない。領収書切ってるから大丈夫だよ、と黒崎は言うが、きっとそれはジョークだろう。
葬儀社の仕事は、肉体的にも精神的にもきついものが多い。故人の遺族たちは悲しみや不安を抱えている。彼らに不謹慎な態度は取れないし、葬儀の最中は不用意な失敗はできない。それだけ緊張を強いられることになる。働く時間も不規則だ。
それに、毎日のように人間の死体と向き合うことになる。
そのような日々を送る陣たちにとって、この店は一つのオアシスだった。
テーブルに前菜が運ばれてきた。蒸した鶏肉を冷やしゴマ風味のタレをかけたバンバンジー。ピリ辛のキュウリの和えもの。アヒルの卵を発酵させた黒いピータンは癖が強く、黒崎しか食べない。それぞれの皿に少量ずつ取り分けて食べる。
「水瀬くん、どう? この仕事上手くやれてる?」
黒崎がくいっとサングラスの位置を直して杏子に話しかけた。
「はい。陣さんは頼りないけど、一応優しくフォローしてくれるので」
「頼りないは余計だろ」
「そう。陣くんは癖っ毛だけどね」
「陣さん癖っ毛ですけど」
「癖っ毛関係ないでしょ!」
「そういえば、水瀬くん。きみが霊安室に入り浸っているという噂を耳にしたんだけど。何か良からぬことしていないよね」
料理を口に運ぼうとしていた杏子の手が、一瞬止まった。
「はい、問題ありません」
「そう。ならいいんだ」
遺体が安置されている霊安室で一体何をしているのかと、陣はまた一つ杏子に恐怖を覚えた。普通の人間なら近づきたくもない場所だ。まさか遺体を引っ張り出して何かしたりしていないよな。
「水瀬くんは一人っ子だっけ」
黒崎が尋ねた。
「お人形さんは数に入りますか?」
杏子がまたさらっと怖いことを言った。
「お人形さんは兄弟なの?」
「お友達です」
「じゃあ数に入らないね」
「では一人っ子です」
陣は杏子の趣向を秒で受け入れる黒崎に凄みを感じた。変わり者同士はわかり合えるものなのかもしれない。
「陣くんは兄弟いる?」
「俺ですか。俺は……」
陣は言おうとして、言葉に詰まった。考えるまでもない質問のはずなのに。
「一人っ子です」
その自分が出した当然の答えに、陣はなぜか違和感を感じた。自分に兄弟なんていないはずなのに。
王さんがテーブルに料理を運んできた。セイロに入った熱々の小籠包。黒酢のソースを片栗粉で固めたとろみのある酢豚。青菜とニンニクの炒めもの。
「どんどん食べてくださーい」
王さんが
この店にいる間は楽しい。黒崎も杏子も風変わりな人格の持ち主ではあるが、一緒にいて嫌な感じのする人間ではない。店の雰囲気も明るく、料理も美味しい。
ブヒッ。
「えっ?」
突然奇妙な音が聴こえた気がして、陣は顔を上げて辺りを見回した。
「どうしたの陣くん」
黒崎が訊いてくる。
「今、誰か何か言いました?」
「さっきからずっと言ってるじゃないか。僕は陣くんのことを愛してるんだ」
「私も陣さんのこと愛してます」
「いや、そんなこと一言も言ってなかったでしょ。つーかなんですかその冗談」
「ワタシも陣さんこと愛してマース」
エビがゴロッと入った炒飯を運んできた王さんまで乗っかってきた。
「もうなんなんだよ」
「どうしたんデスカ?」
「なんでもないよもう」
まるでブタが鼻を鳴らしたような音が聴こえた気がしたなんて、どうでもいいことだった。
「陣さん頑張ってね。
帰り際、王さんが陣に向かってそう声をかけてきた。
「なんで俺だけ」
陣たち三人は駅で別れ、帰路に就いた。料理で心も体も温まり、良い気分だ。
列車に乗車し、自宅の最寄り駅に到着する。コンビニで明日の朝食べる用に菓子パンを買った。
夜でも明るいアーケードの商店街を歩き、それから通りを外れて住宅地に入る。ところどころに設置された街灯が照らす、少し薄暗い道。
周りに人はいない。自分の足音だけがこだまする。
やけに静かだ。気のせいだろうか。
気配を感じた。後ろから何かがついてきている気がする。
陣は今朝の駅で起きた奇妙な体験を思い返し、恐怖を感じた。
振り返らないほうがいい。振り返ってもきっと何もいない。だが、改めて他に視線を向けた時、そこに何か良からぬものが見える。それがホラーの定番だ。
このまま視線を逸らさず、前だけを向いて家まで歩く。
両の手の平から汗が滲み出てきた。
本能が理性に反抗しようとする。振り返って恐怖の源を確認しようとする。
振り返るな、振り返るな、振り返るな。
陣は必死に念じた。
すぐ背後から吐息のような音が聴こえた。
反射的に陣の体は後ろを振り返った。
誰もいない。
しまった。これで前に向き直るとそこにいるパターンだ。わかっていたのにやってしまった。
こうなったら、一度後ろに進んで道を迂回してくるしかない。そうすれば何にも出会わないはず。
ブヒッ。
「ひっ!」
陣は思わず右手に持っていたビジネスバッグを手放してしまった。上のほうに入れていた菓子パンが地面にこぼれた。
陣の体が金縛りにでも遭ったように硬直した。外部からの力ではない。自身の中から生まれてくる恐怖で。
目に見えないものほど、恐ろしい。
額から汗が垂れてきた。
結局、今日は散々な日だった。最初から最後まで。
その諦めの境地が、陣の体を動かした。思考が転換し、恐怖を薄めていく。
地面からバッグを拾い、菓子パンも拾って入れた。
ゆっくりと後ろを振り返る。
そこには何もいなかった。
きっと、初めから。
自分はただ脳が勝手に繰り広げる恐怖に怯えていたのだ。
ブヒッ。
だが、すぐ近くからブタが鼻を鳴らす音が確かに聴こえた。
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