へこみ

 陣は確かに見た。

 車線を外れて正面からこちらへ突っ込んできたトラック。そのトラックが、陣たちが乗る寝台車に衝突する寸前、何かが横からぶつかったみたいにして突如方向を変えた。急にハンドルを切ったとかそんなレベルではない。陣から見て右方向へ、鈍い衝撃音とともにトラックが元いた車線のほうへ吹っ飛んだのだ。

 陣たちの車は事故を免れた。トラックはその後反対方向の路肩へ飛び出して側面を道沿いの建物へぶつけ、しばらく車体を擦りつけるようにしながら走行し、止まった。

 警察と消防が駆けつける騒ぎとなった。幸い、トラックの運転手の他に怪我人はいなかった。救急車で運ばれていく運転手も、体を強く打ったようだが、目に見える外傷はなく意識もあるようだった。後で警察からいろいろと事情を訊かれるだろう。

「危なかったね。ぺしゃんこになるかと思ったよ」

 陣の傍らに立っている黒崎が淡々と言った。

「僕らも棺桶に入ることになるところだったね」

 黒崎は冗談のつもりなのか楽しそうにそう言うが、陣はちっとも笑えない。本当に死にかけたのだ。

 陣は路肩に突っ込んだトラックの有様を見た。

 明らかに違和感がある。

 建物にぶつかったほうではない車体の右側面。金属の荷台の部分に、大きなへこみがあった。走行の最中、そこに何かがぶつかり、トラックは方向を変えて、陣たちは助かった。しかし走行中のトラックを横から跳ね飛ばすなんて並大抵の力ではない。そしてそのトラックを跳ね飛ばしたはずの物体は、どこにも見当たらなかった。

「どうかしたかい?」

 黒崎がサングラスをかけた顔で陣を覗き込んでいる。陣は黒崎よりニ十センチほど背が高いので、見上げるような形だったが。

「いえ、なんでもないです」

「やっぱり棺桶に入ってみたかったのか? 遺影用の写真でも撮影してあげようか? とびっきりの笑顔のやつ」

「……結構です」

 陣は停車している寝台車のほうへ戻っていく。遺体の入った棺を置きっぱなしだ。もう少しでこの故人は二度死ぬはめになるところだった。



 陣たちは斎場に着き、遺体の入った棺を霊安室に運んだ。そして今日は他の故人の通夜があり、その準備をしなければならない。

 もう少しで事故に遭うところだったため、それを考慮して黒崎から休養を取るよう言われたが、人手が足りていないのが現状だ。陣は式場へ向かった。

 式場の中では同僚の水瀬杏子みなせあんずが作業をしていた。陣の三歳下の二十四歳。常にどこか不安そうに見える表情が、彼女の人見知りの体質を表している。

「あ、陣さん」

 陣に気づいた杏子が作業の手を止めて顔を向けた。

「もしかして、幽霊ですか?」

「なんでだよ」

「事故があったと聞きました」

「俺たちは無事だよ。かすり傷一つない」

「そうですか。それは残念です」

 杏子の長いまつ毛のついたまぶたが瞬いた。陣はウッと息が詰まり、一歩後ずさった。

「陣さんの死体にお世話してあげたかったです」

 消え入りそうな静かな声で杏子がそう言った。

 この職場は、少しばかり変わった趣向を持つ人間が多く、杏子もそのうちの一人だった。彼女は人間の死体に並々ならぬ興味を持っている。基本的にとても真面目な人間ではあるのだが。

 杏子の調子はいつものことだ。陣は気を取り直して作業を始める。

 式場の奥側に、葬儀の宗派に合わせた祭壇を作っていく。遺影や花はもちろん、輿や灯籠、供物や住職が扱う道具に至るまで。重いものも多く、かなりの肉体労働だ。今日の通夜では参列者の宴会も組まれているので、そちらの会場の準備もしなければならない。

 通夜の準備作業を進めていると、黒崎が式場に入ってきた。司会席にてマイクテストとナレーションの練習を始める。

「さあゲートが開きました。各馬一斉にスタート。少しばらけたスタートになった。今年もあなたの、そして私の夢が走ります。あなたの夢はどの馬ですか? さてまずは先行争いですが……」

 黒崎は葬儀とまったく関係のない競馬の実況を淡々とした口調で行っていく。一体何をしているのだろう? だがこれもいつものことだった。彼なりのウォーミングアップなのかもしれない。放っておこう。もちろん実際の葬儀ではちゃんとしたナレーションをしている。お昼休みの名物番組の司会者みたいに。

 陣は作業をしながら、頭の片隅で今日の出来事を考えていた。

 朝の駅での不可思議な出来事。そして運転中に起きた不可思議な出来事。

 どちらも、自分のちょっとした勘違いだと言ってしまえばおしまいだ。いや、さすがに朝のほうは勘違いというレベルではないはず。しかし疲れてぼーっとしている間に見た夢のようなものだと説明できたりしないだろうか。現にあの人のいない空間にいた間、時間が経っていなかったのだ。

 まあいずれにしろ、他人に話して共感してもらえるような話とは思えない。黒崎は陣の話に興味を持っていたが、それもどこまで信じているかわからない。彼は本当の話ではなくただ面白い話が好きなのだ。

 陣はこのわだかまりのようなものを自分の中に留めておくほかなかった。



 通夜はつつがなく終わった。あとは明日同じ式場で告別式が行われ、故人は火葬場へと運ばれる。それが一連の流れ。

 参列者や遺族への連絡を終え、宴会場の片づけをする。

 今日はなんだかとても疲れてしまった。いつも疲れるが、今日はなんだか余計に。

「おつかれさま」

 仕事を終えたところで、黒崎が普段通りの涼しい表情で声をかけてきた。サングラスをかけているためにそう見えるだけかもしれない。

「さあ、僕らにも休息が必要だ」

 陣は待ってましたとばかりに頷いた。

 陣と黒崎、それに杏子は、揃って斎場から出た。

 これから三人で毎日のように通っている行きつけの店に行く。

 外に出ると、夜空にまん丸の月が光っていた。

 暗く、寂しげな空。

 葬儀屋の仕事は、尽きることがない。今日もどこかで、人は死んでいるのだから。

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