下げる

 陣は出勤時刻に遅れることなく会社に到着した。おかしなことに、人のいないあの奇妙な駅の空間にいた間、どうやら時間が経っていないようだった。こうなると本当にあれが現実の出来事だったのか疑わしくなってくる。

 陣は会社の事務所の中に入った。同僚の面々と挨拶を交わし、自分のデスクに着く。

 上座の位置に、直属の上司である主任の黒崎正悟くろさきしょうごがいる。黒のオールバックに、いつでも必ずかけている黒のサングラス。印象的な見た目だ。人によっては堅気でない人物に見えてしまいそうなスタイルだが、黒崎はその落ち着いた柔和な雰囲気と小柄な体格により、他人に圧を与えることはない。年齢はおそらく五十代ほどだが(尋ねても毎回はぐらかされてしまう)、どうやら昇進を断っているようで、ずっとこの現場で働いている変わり者らしい。サングラスをかけていつも置物のようにそこにいる。

 黒崎は目の疾患のためにサングラスをしているらしいが、元々のミステリアスな空気も相まって何を考えているかわかりづらい。陣は黒崎がじっとこちらを見ているような気がして顔を向けるが、黒崎の反応はない。もしかすると目を瞑って眠っている可能性もある。

「陣くん」

 陣は突如黒崎に名前を呼ばれて驚いてしまった。置物に話しかけられたかのように。

「は、はい、なんでしょう」

「顔色が良くないよ」

「はあ。そうですね」

 思い当たる節はもちろんあった。あの朝の奇妙な出来事は陣の中で当然消化できていない。あの空間は一体何だったのか? しかし、他人に話して信じてもらえるとも思えず、陣の中でわだかまったままだ。

「まるで死人みたいだ」

 黒崎がそう言って可笑しそうにハッハッハッと笑った。笑っているのは彼一人で、他の同僚たちは誰一人クスリともしていない。この職場で発するジョークとしては、若干度を超えている。陣はへらへらと愛想笑いを返すしかなかった。

 陣はデスクに向き直って、今日のスケジュールを確認する。

 その時黒崎のデスクに電話がかかってきた。黒崎はゆったりとした動作で受話器を持ち、淡々と慣れた口調で相手と会話した。数分ののち、受話器を下ろした。

 黒崎が陣のほうへ顔を向ける。

「陣くん」

「はい」

「車を出してもらえるかい?」

「わかりました。……あの、どっちからですか?」

「病院からだ」

 陣はほっと胸を撫で下ろした。



 陣は緑ナンバーの寝台車を運転していた。助手席にはサングラスをかけたスーツ姿の黒崎が座っている。

 向かっているのは連絡のあった病院だ。警察からではなかったぶん、少しだけ気が楽だった。

「陣くん。何かあった?」

 黒崎が唐突に話しかけてきた。

「えっ? 何かって何ですか?」

 陣は左折のウィンカーを出しながら訊き返した。

「なんだかどこか不安そうだ。悩みでもあるのかい?」

「……聞いてくれますか?」

 陣は今朝の駅で起きた出来事を話した。既視感を感じ、突然周りから人がいなくなった。エスカレーターに乗っても元いた場所に戻ってきてしまうし、改札には壁ができて通れなくなっていた。そして自分の他に唯一の動くもの、徘徊していた化け物のことも話した。

 こんな話、普通であれば法螺話として一蹴するだけだろう。しかし黒崎は終始興味深そうな表情で(といっても黒崎はほとんど表情が読めないので、あくまで陣の実感だが)聞いてくれていた。黒崎のこういうところが陣は好きだった。だからこそ話す気になったのだ。

「面白い話だね。それ、もしかしてリミナルスペースってやつかい?」

「えっ、リミナルスペース? 何ですかそれ?」

 車が交差点の右折に差しかかった。直進の道に入り落ち着いたところで黒崎が次を話す。

「海外の都市伝説みたいなものさ。本来は人の多い場所。例えば今日陣くんがいた駅みたいに。普段人が多いはずなのに、そこに人が誰もいなくなると、人はその風景に不気味さや、ある種の居心地の良さのようなものを感じるらしい。そういった空間のことをリミナルスペースと呼んでいて、そこからさらに派生しみんなで怖い話を集めるようになった」

「それは、どこかに閉じ込められるとか、怪物が出るとかいう話ですか?」

「まあそんなようなもの。陣くんは今日それを直に体験したというわけだ」

 そう言って黒崎がハッハッハッと笑った。この人は笑いのツボが少し変わっている。こっちはもう少しで死ぬかもしれなかったんだぞ。

 前方が赤信号になり陣は車を停止させた。

「でもそれはあくまで作り話で、実際に起こるわけがないでしょう?」

「そう。だが、きみは実際に体験した」

 黒崎は楽しそうに言う。無邪気な子供みたいに。サンタさんがいると信じている子供みたいに。良い歳をして。

「まるで俺が得をしたみたいな言い方ですね」

「だって面白そうなアトラクションじゃないか」

「化け物に襲われそうになったんですよ」

「もしその化け物に喰われていたら、きみは今ここにいないというわけだ」

 そう言って黒崎はハッハッハッと愉快に笑った。

 信号が青に変わり、陣は黙って車を発進させた。なんだか横にいるこの人のほうが怖くなってきた。



 病院に到着した。ワゴンの寝台車のバックドアを開け、ストレッチャーに固定された棺を外に引き出す。裏口から病院に入り、安置室へ向かった。

 黒崎が先に安置室に入った。陣は神妙な顔つきを意識してから、棺を押していった。

 部屋の中にいた遺族と思われる中年の人間にお悔やみの言葉をかける。それから黒崎が遺族にこれからの手順の説明を始めた。

 傍らには、寝台に乗った白い布を被されている遺体がある。

 故人が病院で亡くなった場合には、その後病院側で清拭せいしきであったり、体に残った内容物の処理なども行ってくれる。死後硬直の後に開きっぱなしになってしまう顎も閉じられ、上の穴にも下の穴にも綿が詰められる。簡単に言えば、遺体が綺麗で清潔なのだ。

 しかし警察から運び出す遺体の場合はそうはいかないことが多い。警察から引き取る遺体は事故などで亡くなったものが多いので、遺体の損傷が激しい。見た目もそうだが、それ以上に臭いが耐え難い。とくに悲惨なのが、電車に轢かれて亡くなった場合だ。探しても見つからないパーツが多々ある。陣は扱ったことはないが、水死体もかなり酷いらしい。

「では、陣くん」

 遺族への説明を終えた黒崎が、陣のほうを向いた。陣は小さく頷き、遺体に近づく。陣が頭のほう、黒崎が足のほうから抱えた。老衰しやせ細った老人のようで、それほど重くない。黒崎は前に一度この場面でぎっくり腰をやってしまい、遺族の前で遺体を頭から床に思い切り落としてしまったことがあるようだ。以前黒崎がその時の様子を愉快に笑いながら語っていた。話を聞いた陣はさすがに「笑いごとじゃないでしょ!」とつっこんでしまった。

 遺体を無事に棺のほうへ移した。遺体は斎場の霊安室に運ばれ、通夜までそこで保管される。

 そう、陣たちの仕事は葬儀屋なのだ。

 人は死んだ後、物として扱われる。寝台車の緑ナンバーは、有償で運送を行う印である。寝台車はタクシーやバスのように人を運ぶものではなく、貨物を運ぶための車だ。

 仕事柄、陣は人の死についてよく考える。人に魂はあるのか。死んだ瞬間、人の意識はただ失われるものなのか。体が機能を停止した時、精神はどこへ行くのだろう? 人の体は単なる入れ物にすぎないのか。魂があると錯覚させるための。

「あまり深く考えすぎると、この仕事はやっていけないよ」

 時折そうやって黒崎に諭されるが、陣はたまにそのような考えごとに囚われてしまうことがあった。

 陣は遺体を乗せた寝台車を運転し、道路を走らせていく。

 対向車線の前方からトラックが走ってきた。

 ふらっとトラックの進路が変わり、中央の車線をはみ出してこちらの進路に侵入してきた。右前方からトラックが迫ってくる。

 左側に避けられるほどのスペースはなかった。

 目の前に広がる光景がスローモーションになっていく。

 トラックがフロントガラスのほうへ近づいてくる。

 そして、鈍い衝撃音が鳴った。

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