ステーション2

 陣は喫茶店の壁際に身を寄せて隠れていた。すぐ近くに、化け物がいる。

 心臓が踊っている。掴まないと口から飛び出していってしまいそうと思うほどに。

 危険のシグナルだ。動物的な狩られる者の恐怖が鼓動を暴走させている。全身に勢いよく血を流し、必死に逃げることを促している。しかし陣はあいつから姿が見えないように壁際に体を隠したまま動けない。奴は壁一枚を隔てたすぐ外にいる。陣のすぐ頭上の窓ガラスからもろ見えのはずだ。陣はもはや床にへばりつくような体勢で隠れていた。

 差し迫った危機はないなんて間違えだった。あんな化け物がいるなんて。まるで触手のような細長い手足。前傾しなければ優に天井の高さを越える巨大さ。顔のような部分にあった、無数の目のようなもの。この世のものとも思えない、おぞましい怪物。

 あんなものが徘徊しているなんて、やはりここは自分の知っている駅などではない。

 脱出しなければ。

 どこへ?

 改札口は壁で塞がれていた。エスカレーターに乗っても元の場所へ戻ってきてしまう。

 とにかくどこかにある出口を探さなければいけない。本当にそれがあるとすればだが。

 すぐ傍からキシキシと音が鳴った。あれが動き出したのだ。

 陣は床に這いつくばりながら、両手を合わせて握った。あれが去っていってくれることを祈った。

 キシキシ。キシキシ。

 音が少しずつ遠ざかっていく。

 陣は息を殺して待った。

 やがて音が聴こえなくなった。

 陣は大きく息を吐き出して深呼吸をする。ハイになっている心臓を落ち着かせねば。

 陣はその場に座り、袖で額を拭った。全身冷や汗でびっしょりになっている。

 何だったんだあれは。深淵から出てきたようなあれは。

 出てきてほしいのはあんな化け物ではない。

 早く現実に戻らないと。

 満員電車にぎゅうぎゅう詰めにされる朝のラッシュが恋しい。

 体が落ち着きを取り戻してきたところで、陣は立ち上がった。

 周囲を警戒しながら、喫茶店の入り口からゆっくりと外を窺った。

 大丈夫。見える位置にあいつはいない。

 ん?

 陣は近くの床に小さなものが落ちているのを見つけた。近づいて、拾い上げる。

 一枚のカードだった。火を吐くトカゲモンスターのカード。

 陣はそのカードに見覚えがあった。昔よく――。

 再び既視感がやってきた。

 脳裏に映像が流れていく。

 テーブルを挟んで向かいに誰か座っている。その人物は顔がぼやけて見えない。

 テーブルの上にはカードがたくさん並んでいる。陣はワクワクしながらそのカードゲームで遊んでいた。

 視界がフラッシュする。

 落ちた。

 陣は硬い床に転がった。

 ざわざわと騒がしい音が響く。近くを忙しなく多くのものが行き交っている。

 陣は体を起こし、周りを見た。

 人々がみなぶすっとした顔で右左と入り乱れている。たまに怪訝な表情を陣に向ける者もいた。陣にぶつかってもお構いなしに通り過ぎていく者もいる。

 陣は立ち上がって、通路の壁際のほうへ退去した。

 喧騒の朝の駅に戻ってきた。

 誰もが急ぎ足でどこかへ向かおうとしている。陣のことなど気にも留めない。スピーカーから列車が遅れる旨のアナウンスが聴こえてくる。慌ただしい。まるで戦場のよう。

 人がいなかったあの空間が嘘のようだ。

 陣はひとまずスマートフォンで現在の時刻を確認しようと思った。その時、自分が右手に何かを握っていることに気づいた。

 カードだった。火を吐くトカゲのモンスター。

 陣はしばらくそのカードを見つめていた。

 やがてそのカードを懐に仕舞い、朝の喧騒の中へと足を踏み出していった。

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