追憶の部屋 -Nostalgic Zone-
さかたいった
LEVEL0
ステーション
頭上から、列車が通過する振動音が響く。効果音と音声アナウンスが入り乱れる。
慌ただしく、騒々しい雑踏。蠢く人々。雑音が一体となり、波のように襲いかかってくる。
流れに逆らえず、押し合いへし合いしながら排出口から流れ出るパチンコ玉のよう。大勢の人の波を見て、陣はそう思う。
人々の頭上では、無機質な電光掲示板が列車の発車予定時刻を示している。この界隈、この時間帯では、正確な時刻に発車できる列車のほうが稀だ。混雑により、あるいは大なり小なりの何かしらのアクシデントにより、列車は停止や徐行を強いられる。大抵の人間はそうなることはある程度想定して乗っている。ふー、と一つ溜め息を吐き、流れに身を任せるしかないと悟りを開くのだ。
駅構内の人込みの渦中にいる陣は、歩きながら唐突に妙な感覚を感じた。
既視感だ。
前にもこんなことがあった。同じ場所で、同じシチュエーションで、同じことを感じ、考えた。そんな気がする。
この駅は毎日通る通勤経路だ。目の前に映るのはいつもの光景であり、既視感もなにも普段と同じ状況である。
だがそんな論理的思考とはまったく別の、潜在意識が五感を超えたメッセージで訴えかけてくる。
パチンコ玉みたい。
突然目の前の景色が消えた。前へ一方通行であるはずの時間軸がずれ、意識が過去へ飛び立っていく。今ここではない情景を脳裏に映し出す。
自分を呼ぶ声。伸ばされた手。
落ちた。
落ちる夢を見た時のように、体がビクッと瞬間的に硬直した。
陣はバランスを崩して転ばないように足に力を入れた。
顔を上げて周囲を見回す。
駅の連絡通路だ。近くにはホームへ上がるための階段とエスカレーター、頭上には電光掲示板が変わらずある。自分がいた場所だ。
しかし先ほどと変わったことが一つあった。
人がいない。当たりが出たパチンコ玉のようにごった返していた人々が、自分を除きみな消えている。
陣は目を疑い、首を左右にブンブンと振って目を瞑り、そしてまた開けた。
やはり、誰もいない。朝のラッシュの喧騒が消え去っていた。
一体これはどういうことなのか? 夢でも見ているのか? いや、夢は睡眠中に見るものだとしたら、それはない。自分は確かに今朝目覚めてアラームを止め、洗面所でほうきの穂先のような癖毛を強引にまとめ、築四十年以上のボロアパートを出て最寄り駅に向かい、この巨大ターミナル駅で路線を乗り換えようとしていたはずだった。それが自分の確かな記憶。もし人の記憶というものが頼りになるものであれば。
慌ただしいはずの朝の駅が、静まり返っている。
不思議で、違和感のある光景。
戸惑いながらも、陣はどこか心地良さを感じた。得をした気分にもなる。自分がこの空間を独り占めしているのだ。
人々はどんなイリュージョンで消えたのかわからないが、ともあれ電車に乗らなければ遅刻してしまう。陣は自分が乗るホームの番号を確認し、稼働している上りエスカレーターに乗った。
乗ってから、すぐに違和感に気づいた。
エスカレーターの終着が見えない。斜め上へどこまでも続いている。
列車が到着するホームまでそれほど高さはないはずだった。にもかかわらず、動く階段はどこまでも伸びている。
陣は一緒に上がっていく動く手摺りに手を置いて、後ろを振り返った。
「嘘だろ?」
すぐ下にあるはずのエスカレーターの始まりが無くなっていた。合わせ鏡のように無限の彼方から続いている。
「どうなってんだ」
陣は誰にも届かない呟きを吐き出した。
陣は前に向き直り、ひとまずホームへの到着を待つことにした。香港に世界一長いエスカレーターがあるが、それはこんな密閉された空間ではない。陣は閉塞感を感じ、呼吸が荒くなるのを感じた。
何か妙なことが起きている。その認識がようやく確信に変わった。
同じ光景が延々続くエスカレーターに乗っている陣は、そのうち今自分が上っているのか下っているのかもわからなくなってきた。上下の感覚を失っていく。気を抜くと尻もちをつきそうだ。
陣は現在の時刻を確認しようと、スーツの上着のポケットからスマートフォンを取り出した。しかしスリープを解除しようとしても、電源がつかない。陣は黒いままの画面を苛立たしく何度もタップした。
ヒュッ。
「おわっ!」
陣は驚いて思わずスマートフォンを落としてしまった。
今一瞬、黒い画面に人の顔のようなものがくっきりと映った気がした。反射して見える自分の顔ではない。もっと鮮明な。
陣は動く階段に落ちたスマートフォンを恐るおそる拾い上げた。画面を確認するが、やはり何も映っていない。不気味に感じ、すぐに仕舞った。
陣は自分のお腹をさする。気分が悪くなってきた。この延々と続くエスカレーターのせいで頭がおかしくなりそうだ。
一体何が起きているのか? やはり夢でも見ているのか? よくほっぺをつねって痛かったら夢じゃないと言われるが、その法則はよくわからない。夢の中だって痛覚があるかもしれないじゃないか。
陣が自分のほっぺをつねろうかつねまいか迷っていると、唐突にエスカレーターの終点が見えてきた。どうやら助かったようだ。
だがほっとしたのも束の間、エスカレーターから降り立ったところで異変に気づいた。
自分は初め上り方向のエスカレーターに乗ったはずだ。にもかかわらず、降りた時は下り方向のエスカレーターになっていた。方向感覚がわからなくなっている間に切り替わったのだろうか? しかし乗っている途中で上下が切り替わるエスカレーターなどあるだろうか? さらにおかしなことは、降りた場所が列車が到着するホームではなく、先ほどいた乗り換えの連絡通路だった。元いた場所に戻ってきてしまったのだ。そこは相変わらず静かで、人っ子一人いない。野良猫一匹いない。ツチノコだっていない。
ともあれ、陣は無限に続くかのような動く階段から抜け出せたことに少しだけ安堵した。職場に時間通り出勤することはひとまず忘れよう。一旦落ち着き、気持ちを整えたい。
陣は静寂の駅構内を見渡す。
ここはどこなのだろう? 本当に自分がいつも通る駅なのだろうか? そういえば列車が上の階を通過する時の振動や音、発車のアナウンスなども聞こえない。ここは一日の乗降客数が世界一にもなったターミナル駅だ。朝のラッシュ時にこんな静かなはずはない。いつだっててんやわんやなのだ。
もうあの気分が悪くなるエスカレーターには乗りたくないので、陣は改札口のほうへ向かってみることにした。窓口に駅員さんがいるかもしれない。
コツコツと革靴の底が床を打つ音が響く。自分の足音が静寂にやけに響いた。
改札口が見えてきた。そして陣は愕然とした。
改札機のすぐ向こう側に、シャッターが下ろされている。いや、近づいてよく見ると、それはシャッターではなく灰色の石の壁のようだった。その壁が出口を完全に塞いでいる。
「おい!」
陣は反射的に怒鳴った。焦りのあまり大きな声が出る。
「どうなってんだよ!」
答える者はいない。改札横の窓口にもやはり誰もいなかった。
「誰かー! 誰かいませんかー! おーい!」
陣の問いかけは静寂に無情に吸い込まれていく。
もしかして自分は、この無人の駅に閉じ込められたのか? そんな馬鹿なことがあるか?
「もしかして、ドッキリ?」
陣は周囲を見回して戸惑う自分を撮影している隠しカメラがないか探す。
いや、こんな大がかりなドッキリをただの一般人にする番組などあるものか。
人々は陣のすぐ目の前で消えたのだ。ほんの一瞬のうちに。
陣は今一度上着のポケットからスマートフォンを取り出した。ここはどこなのか、そして誰かに連絡する手段はないか。しかしスマートフォンはどこを触っても起動せずに黒い画面を保ったままだ。昨日の夜充電した記憶が確かにあるはずなのに。
「くそっ」
陣は吐き捨て、その場から歩き出した。改札内の連絡通路を歩き回る。
とりあえず、すぐに差し迫った危機があるわけではない。売店を探せば簡単な食料だってきっとあるだろう。どうせ販売員もいないだろうから、取り放題だ。いや、念のため支払いもしておこうか。
そう考えると、ここはある種快適な空間であるかもしれない。何をしても誰にも咎められる心配はない。大きな自宅のような。咎めるために誰かが出てきてくれたとしたら、それはそれでありだ。
少し気を良くした陣は、ある思いつきを実行した。メガホンを作るように両手を口元に添えて息を大きく吸い込む。
「〇〇〇〇好きだー! 俺と付き合ってくれー!」
陣の大声が空間にこだました。ちなみに〇〇〇〇には有名な美人女優さんの名前が当てはまる。各々好きな女優さんの名前を入れて想像してくれ。
「ははっ」
失笑した陣の中では可笑しさと虚しさが同居していた。
陣は通路を歩いていく。しばらく行くと、改札内にある喫茶店を発見した。中に入る。
店員はおろか、客一人いない。音楽もかかっていない。使う者がいない客席のテーブルと椅子が寂しげに見えた。
まるでゴーストタウンだ。
人工物が形を残しつつ、人だけが消えた。
みんなどこへ行ったのか? どうして自分だけがいるのか?
陣は急に心細くなった。かくれんぼをして、誰にも見つけてもらえず、みんな先に帰ってしまった。一人きり。そんな心細さだ。
そう、あの日自分は泣いていた。日が暮れた森の中。怯えて動くこともできず、両手で膝を抱えてただ泣いていた。
あの人に見つけてもらえるまで。
差し伸べられた、大きくて、がっしりとした、温かな手。
あの人――。
……誰だ? 記憶の中のその人は顔がぼやけていて、思い出せない。
自分を見つけてくれたのは、誰だ?
キシキシ。キシキシ。
突然奇妙な音が響き、陣を現実に戻した。
キシキシ。キシキシ。
喫茶店の外の通路のほうから聴こえてくる。何かが軋んでいるような、少し甲高い音。
キシキシ。キシキシ。
音が少しずつ大きくなってきた。
キシキシ。キシキシ。
何か近づいてくる。
キシキシ。キシキシ。
陣は喫茶店の窓ガラス越しに、黒くて巨大な動くものを目にした。
キシキシ。キシキシ。
動いている。生きている。
キシキシ。キシキシ。
異常なほど長い手足が、その甲高い音を出している。
キシキシ。キシキシ。
陣はその黒いものの顔にあたる部分を目にした途端、本能的に恐怖を感じ、焦りながら急いで店の壁際にしゃがんで身を隠した。
キシキシ。キシキシ。
それは化け物だった。見たこともない。おぞましい。
キシキシ。キシキシ。
音が止んだ。
そいつは喫茶店のすぐ外で止まった。
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