序章Ⅱ

 長い夢の終わりに、青年は現実を取り戻した。スマートフォンから鳴り響くベルの音、まだ少し薄暗い部屋の中。どこを見渡しても当たり前の光景が広がっていた。

 青年・坂本さかもと七緒なおはこの春、高校二年生に進級した。始業式を先日に終え、いまは平常授業期間真っ只中である。

 制服をハンガーから手に取り、着替える。布の擦れる音と壁掛け時計の秒針だけが孤独な彼と部屋の静寂を際立たせていた。


「次は秋葉原、秋葉原」


 朝の通勤電車に余裕をもって乗り込み、ぎゅうぎゅうに詰められたあとは癖の強い男性声のアナウンスに従うだけだ。十一分ほど外回り電車に揺られ、ホームに降り立つまでも彼は無表情――無感情であった。

 彼が通う高校、悠瑛はるはな高等学校は秋葉原駅からやや歩いたところに位置している。万世橋を渡り、ガラス張りの大きな建物を囲む門をくぐる。周囲からは「おはよう」といった挨拶が飛び交ったが、どれも坂本に向けたものではなかった。

 教室に入り、窓際の席に着く。今日の朝のお供はシェイクスピアの名作集のつもりだったが、窓の外に広がる異様なソレを目にして、彼の手は止まった。

 異限境数環光帯いげんきょうすうかんこうたい

 太陽を覆う光の環――太陽を狂わせ、地を灼き滅ぼす異常の摂理。詳細は不明だが、これにより世界各地で被害が報告されている。現在進行形で文明が消え去っているのだ。

 坂本はふうとため息をつき、湧き出てきた恐怖心から切り替えるように文庫本に目線を落とした。そのときだった。


「坂本くん、だっけ?」


 自分の名前が呼ばれた。それも女子の声で。

 クールめいて人に近寄られ難い坂本も、この世の中で数多にあふれる思春期男子のひとりだ。顔には出ないが、心は動揺した。


「いっつも変な本読んでヒマそうだよね」

「変……」

「あゴメン。でもそう見えるから」


 オレンジ色のツインテールを揺らし、彼女はうろちょろと机の周りを歩く。どこまでも正直な女だと坂本はがっくりした。

 彼女は永倉ながくら行成ゆきなり。男らしい名前だが、彼女はいつも「ユキってついてて可愛いでしょ」と誇らしげだ。転校生だったか元からいる生徒かは――あやふやで記憶に無い。興味も無い。

「ね、ちょっと僕に付き合ってよ」

 このような思わせぶりな言い回しも彼女の特徴だ。黒板を見遣ると、ただ日直の当番が被っているだけだというのに。いいように扱われる人生。やっぱり世界など滅んでしまえばいいと、坂本は厭世的になりながら立ち上がった。


「坂本くんって……ナナオくん、だっけ」

「ナオ」

「ふうん、可愛い名前だね」


 ふたりは理科準備室にて、一限に使う道具や環境を整えていた。

 その返答はそっけないものだったが、坂本は内心、単純に嬉しかった。名前を褒められた経験など今までこれっぽっちも無い。孤独を極めるとこんな些細なことにも幸せを感じてしまうものだ。雑用に付き合わされるのは不服だが。

 この理科準備室には坂本と永倉のふたりきり。ラブコメじゃあるまいしと坂本は何とも思っていなかったが、作業が終わったそのとき、永倉はいきなりずいっと顔を近づけてきた。


「坂本くん、ヒマなら僕に協力してよ」

「あ? 協力はもう済んだろ」


 静かに揺れる永倉の唇が眼前に、間近に捉えることができる。坂本は意図せず鼓動が早まるのを感じた。実験机に後ずさるように逃げようとしても、永倉は容赦なくすり寄る。

 永倉の金の瞳が、朝の天道のごとく輝く。


「――環光帯観測、および削除に」

「……は?」


 あからさまに動揺する坂本をよそに、永倉はまくし立てるように続ける。


「どーせ友達いなくてひとりさみしくご飯食べて授業受けて帰ってゲームしてるならさあ、手伝ってよ、世界救うの」


 坂本は改めて己の生活における孤独を指摘され、無意識にも物悲しくなった。それでも彼には、その言葉や目的が嘘に聞こえなかった。


「反論は認めないからね! そんじゃあよろしく、観測隊幹部、坂本七緒くん!」


 まだ何も言っていなかったが、坂本は「はあ」と頼りない返事をするほかなかった。

 何でもない、感情を昂らせることもないようなつまらない日常に、ひと匙のスパイス――この高校生活に密かに期待していたことだが、とんでもないことになってしまった。

 敵は異限境数環光帯。

 永倉に振り回されるように、ほとんど強制的に、坂本は「観測隊」とやらに入れられることとなったのである。

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異限境数環光帯 式咲チエ @actloid

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