松風

増田朋美

松風

とにかく風が強くて大変な一日であった。そんな日は出かけるのも苦労するなと思われる日であるが、それでものんびりと過ごしている人もいる。それでも杉ちゃんとジョチさんは、製鉄所でいつもと変わらず過ごしていた、と言いたいところであるが、その日は杉ちゃんもジョチさんも頭を悩ませていた。

「理事長さん、ちょっとお話が。」

利用者の一人がジョチさんに言った。

「はあ、どうしたのですか?」

とジョチさんが言うと、

「はい、須田梅子さんのことなんですけど。」

と利用者は言った。須田梅子さんとは、一週間前から製鉄所を利用している女性である。

「梅子さんがどうかしたのですか?」

ジョチさんが言うと、

「梅子さんがまたお酒を飲んだらしいんです。単にお酒は楽しみで飲むのならいいんですけど、梅子さんの場合は朝から浴びるように飲んでイますから。」

と、利用者が言った。

「そうですか。またですか。」

ジョチさんはこういうことには慣れている。だけど、須田梅子さんに関しては、みんな偉く手を焼かされてきた。確かに梅子さんは、お酒を万引きしようとして、警察に捕まったところを、華岡が製鉄所へ送りつけてきた人物であった。なんでも一人暮らしで、毎日酒を浴びるように飲んでおり、酒を飲んで虫が見えるなどの症状を訴えることもあったので、犯罪性は薄いと判断されたようである。利用者たちも彼女の話を聞いてくれたり、庭へ酒を捨てるなどの事をしてくれたのであるが、それでも彼女は酒を飲んでしまうのであった。製鉄所の近くに缶ビールの自動販売機があるのを。杉ちゃんもジョチさんも恨めしく思わずにはいられなかった。ただ毎日毎日製鉄所へ来てくれるので、それは他の利用者に比べたらいいのかもしれなかった。

「自動販売機を撤去してくれというわけにも行かないし、どうしたらいいんだろうね。」

杉ちゃんも困った顔で言った。ジョチさんと杉ちゃんは、すぐ梅子さんのいる食堂へ向かった。

「梅子さんだめですよ。そんなふうに酒を飲んじゃ。また虫が見えるとか、そういうふうになってしまいますよ。」

ジョチさんは理事長らしくそういったのであるが、

「うるさいわね。あたしは酒を飲むことしか、自分を楽にするものがないのよ!」

と梅子さんは缶ビールを一気に飲み干した。ジョチさんは、こういうときに力で抑えられる人物がいたらいいなと思ってしまうのであった。いくら理事長職にあっても、力で抑えなければ、つまり酒を彼女から持ち去るとか、そういうことができないとなんの意味もないことでもある。杉ちゃんも水穂さんもそれは同じであった。だからこういうとき、力持ちがいてくれたらと思う。そういうところでも、製鉄所は、まだ人手不足であった。

「でもあたしは、それしかやることも無いのよ。だって大好きだった父を私は見殺しにしてしまったの。だから何もできること無いのよ。」

そう言って泣き出す梅子さんに、

「一体何で梅子さんは、お父さんを見殺しにしてしまったと言うんだろう?だって彼女のお父さんはたしか、心筋梗塞だったっけ?それで亡くなられている。だから殺したという表現は合わないのではないか?」

なんでも喋ってしまう杉ちゃんが言った。

「ええ。事実上の死因は心筋梗塞だったのかもしれませんが、その前日に大喧嘩したとか、そういう理由があったのかもしれません。その理由は、梅子さんが話してくれないと何もわかりませんが。」

水穂さんがそう杉ちゃんに言う。

「なにか酒じゃなくて、それ以外のもので彼女を慰めてくれる手段があればいいんですけど。彼女がしてきたことといえば、勉強しかしてこないで、部活も何もしなかったというそうですからね。まあやることが何もなかったと考えられます。エリートコースを走ってきたぶん、それが奪われたとき、酒に走るしかなかったのでしょうね。」

「仕方ないですね。まあとりあえず、酒を飲んでいるとしても、毎日ここへ来てくれるというのであれば、仕方ないと思うしか無いですかね。僕らももう少し体力があれば良いんですけど。それはできませんから。それにしてもこういう仕事は、本当に人手不足ですよね。まあ心が病んでいる女性たちを助けるという、一見すると、すごい仕事に見えるけど、やってることは大変すぎることばかりですからね。」

ジョチさんは大きなため息をついた。確かに彼の言う通りでもあった。以前やめていった女中さんに、介護施設のほうがよほど楽だと悪態をつかれたこともある。

「そう考えると、僕らのしていることは何だと思いますね。中には、居るんですよ。こういうふうに重大な症状を持っている人が。精神医療は本当に楽だという人がいますが、決してそんなことはありませんよね。やれやれ、僕ら人力持ちが色んな面でいてくれるといいんですけどね。」

その間にも、梅子さんは浴びるように缶ビールを飲んでいた。彼女の前に大量のビールの缶が置かれている。これを一日で飲んでしまうのである。力づくて止めることができる人がいたら、もうちょっと流れが変わってくるのだろうなと思うのである。それは強制的にジョチさんたちに従おうという気持ちが湧くという効果もあるからである。その日も梅子さんは、家族に迎えに来てもらって家に帰っていったが、ああして酒を飲んで居るとなると、ご家族もたまらないであろうなと思われた。

翌日、梅子さんはいつもどおりに製鉄所にやってきた。また大量に酒を持ってきている。そして、また食堂に行き、酒を飲むのである。せめて彼女が酒を飲む理由を話してくれればいいのだが、酒を飲まない彼女は自分のことはなにひとつ人に語らないのであった。それも、彼女が抱えている問題かもしれなかった。彼女は黙っているときは、普通の女性と変わらない。酒さえ飲まなければ、そう酒さえ飲まなければ。

その日も水穂さんがピアノの練習をしていたところ、

「右城くん居る?ちょっと相談があるのよ。お願いしても良いかしら?」

と、サザエさんの花沢さんににた声がして、浜島咲の来たことがわかった。

「実は彼女の着物のことで相談なのよ。お琴教室にふさわしい着物ではないから、別のものを着るようにって苑子さんが怒るのよ。」

「浜島さんにしてみれば重大なことでもあるんですよね。苑子さんは着物に関してはとても厳しい方ですから。本当に着物の事を知っている人は、少ないですからね。」

ジョチさんは、タイミングが悪いなと言う顔で、ため息をついた。

「まあお酒とはあまり関係の無いことでしょうから、お通しして大丈夫なのでは無いですか?」

と水穂さんが言うと、杉ちゃんが、

「ああいいよ。入れ。」

と言った。

「今日は彼女の着物についての相談なのよ。彼女、藤田亜希子さんの着物のことでね。彼女ちゃんと理想的な着物を着たと言っているのに、叱られるとは、何が悪かったのかしら?」

浜島咲はそう言って、一緒に来てくれた女性を顎で示した。その藤田明子さんという女性は、黄色の色無地を来て、黒に金色で刺繍を施した、名古屋帯をつけている。

「実は彼女、箏曲松風を習い始めたの。古典をやるのだからちゃんとした着物を着るようにと言われたので、そのとおりにしたのに。なんでこっぴどく叱られなければならなかったのかしら?」

「松風。ああえーと、中能島検校のか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうよ。」

と、咲が言った。

「なら大失敗。この色無地は化繊だろ。そうじゃなくてちゃんと正絹で光沢のある着物を着なくちゃ。正絹と化繊の違いは本当に難しいけどさ。着るときに、静電気が起きるとか、そういうことで気をつけなければだめだよ。いくらなんでも化繊の着物で、松風という由緒正しい曲を弾くのはやめようよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうかあ。これは化繊の着物だったのか。確かに苑子さんといえば大の化繊嫌いで有名だし、それじゃ行けないと言われても仕方ないわ。じゃあ次は正絹の着物で行くように指せるわ。あたしも気をつけるわね。」

咲も、彼女、藤田亜希子さんも納得してくれたようだ。

「でも違いをどうやって見極めたらいいのですか?私、違いが分からなくて。咲さんに光っていれば正絹だと言われたので、そのとおりにしたんですけど。どういうふうに区別をしたらいいのでしょう?」

亜希子さんはそう杉ちゃんに聞いた。

「だから、まず初めに着させてもらってさ、静電気が起こるかどうか確かめるとか、ちょっとわざとくちゃくちゃにしてみてシワがすぐに戻ってしまうとか、そういう事を確認することだな。まあ最近は化繊も賢くなっているけどさ。でも、やっぱり、化繊は正絹に比べたら、ちょっとカジュアルすぎるよ。」

杉ちゃんが答えると、

「そうなんですね。それでは次に気をつけます。というか、通信販売だと、素材表記が無いことも多いので、私も分からないで困っていたんです。」

亜希子さんはそういった。

「そうだねえ。初めて買うんじゃ、着物屋さんへ行った方がいいよ。幸いリサイクル着物屋であれば、そんなお金を取られることも無いから。そして、今度はちゃんとした着物で松風を習ってね。あと、色無地は、地紋にも気をつけてね。地紋が、おめでたい柄であるかもちゃんと気をつけるんだぞ。例えば桜とか、椿とか、そういう縁起の悪いとされる柄は、お稽古には使用できないぞ。」

杉ちゃんが言うと、彼女はそれをメモ用紙に書いた。

「ありがとうございます。忘れないようにしておきます。色無地という着物は、お琴教室だけしか使えないのですか?」

亜希子さんがそう言うと、

「いや、そんなことはありませんよ。色無地は、気軽な食事会などの外出から、格の高い地紋であれば、お琴教室を始め、身内以外の方の結婚式などでも使うこともできます。ただし、礼装として使える色無地は、地紋が格の高い柄であるだけではなくて、光沢のある生地でもある必要がありますけど。」

と、水穂さんが説明してくれた。

「そうなんですね。そうなると結構便利な着物と言えるんですね。」

「ええ、場合によっては、もちろん色柄によりますけど、色無地は、法事や略式喪服としても使えます。帯を黒いものにすれば。」

水穂さんが続けると、

「そうなんですか。それは着物も黒にするんですか?」

亜希子さんは聞いた。

「いやそれは違うな。略式喪服として使うんだったら、紺とか、茶色とか、モスグリーンみたいなそういう色を使うといい。その場合は光沢のない生地でね。ただし、紬や、化繊などはだめだぜ。その辺もまた必要になったら説明してあげるから、いつでもおいで。とりあえず今日は、お琴教室に使う着物を買うといいよ。」

と、杉ちゃんがにこやかに言った。

「ありがとうございます、これで今日怒鳴られた理由がわかりました。これからもお琴教室頑張りますし、着物も頑張って着られるようになりますので、また相談に乗ってください。」

亜希子さんはにこやかに笑った。

「よしよし。着物は、なかなか難しいが、それでも、条件をクリアすれば、すごいいいものになるからな。それを忘れないで、楽しんで着てね。」

杉ちゃんもにこやかに言った。

「ありがとうね杉ちゃん。杉ちゃんみたいな人がいてくれてよかったわ。あたしじゃ着物のことで説明できないし、呉服屋さんに言ってもお琴教室に使えそうな着物と聞いて、変な着物を出されるだけだし。それなら杉ちゃんに聞くほうがよほど早い。本当に助かった。杉ちゃんありがとう。」

咲は、やっとホッとしたという顔をして、杉ちゃんに言った。

「いえ大丈夫だよ。それより、相談できるやつがもう少し近いところにいてくれたらいいのにね。お琴教室の着物だって、本来苑子さんが教えるべきだけど、その辺昔の人は頑固なんだよな。まあ、着物の勉強頑張りや。何か相談があったらいつでも来てね。ははははは。」

杉ちゃんがそういうと、咲と亜希子さんはありがとうございましたと言って、製鉄所を出る支度をした。すると、ちょっとよろめいたような足音がして、誰かが、四畳半にやってくる音がした。

「あれれ、梅子さんじゃないか?」

杉ちゃんがすぐ言うと、

「どうしたんですか?なにか具合でも悪いですか?」

と、水穂さんも言った。

「いえ、そういうことではありません。あの、先ほど色無地という着物についてお話されてましたよね。杉ちゃんの言ったこと、本当なんですか?」

梅子さんは真剣な表情をしてそう言っている。

「本当っていうか、昔から色無地に伝わる慣習だ。それがなんだって言うんだよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。そうかも知れないけど、その話、何にもまとめられてないじゃありませんか。そのあたり本にしてまとめたら、きっと着物のことで悩んでいる人に取って大きな助けになると思うんですが。それはいけませんか?」

と梅子さんは言うのだった。その表情から、冗談で言っているとか、変な事を言っているという顔でもなかった。

「その色無地という着物がもっと広まれば、また着物が広がるのではないかと思うのですが?お稽古のときの着物だったり、普段着として着ることもできるんでしょう。それを皆さんに広めればいいじゃないですか。だって柄もないから、見分けるのも簡単だし。」

「うーんそうだね。」

と杉ちゃんは腕組みをしていった。

「確かに、色無地は誰でも着られる着物であって、お稽古ごとなどでは着用が義務付けられる事もあるが、でも、それはあくまでも昔ながらのお教室の話し。見分けるのは確かに簡単だが、地紋のある無しや、使用している素材で格がかなり違うので、同じ色無地であってもとんでもない間違いをする可能性がある。それに、お前さんが言う通り、柄がないというのは確かだが、そのためにあまりに地味すぎるため、年寄から嫌味を言われる可能性もある。」

「そんな事、関係ないじゃないですか。着物を着られればそれでいいっていう人は居るはずです。それに柄もないし、一色で染めてあるだけなら、選ばなくていいし、着物選びが随分楽です。そのあたりを長所として、広めていけばいいと思うんです。その第一歩として、私にも色無地を着させてください。私、それで観光地に行ってみたりしたいです。」

そういう梅子さんに、こんな行動的な有様があったのかと、みんな言葉が出なかった。かろうじて杉ちゃんだけが、

「でも先程言った通り、地紋や素材や色を吟味しなければならないし、対象年齢の事もあるから、色無地は初心者向きの着物じゃないよ。」

と言ったのであるが、

「それだっていいじゃありませんか。とにかく柄のない一色で染めた着物であるとみんなに伝えれば、みんなわかりやすい着物だって、納得してくれるんじゃないかしら。それなら私、いろんなアプリも知っていますから、色無地着用日誌みたいなウェブサイトを作ってもいいと思います。本に書くことができないなら、そういう事をすればいいと思うんです。」

と、梅子さんは明るく言うのだった。

「そうですか。確かにお琴教室だけではなくいろんなところに使える着物ではありますね。色無地は柄を入れないで、黒あるいは白以外の一色で染めた着物ではあるんですけど、その代わり吟味するところが多く、奥の深い着物でもあります。日本の文化は、単純なところから、複雑なものを求めようとする。それは、IとYOUしか概念がない海外の方にとっては、とても思い出深いものであると言われます。それなら、ウェブサイトを作ってみてもいいかもしれませんよ。」

ジョチさんが、梅子さんの話をまとめるように言った。

「それなら、梅子さんも色無地を着て、外出してみればいかがですか?」

水穂さんがそう言うと、

「でも着物警察っていうのかな、それにバレたら最悪だぜ。」

杉ちゃんが言った。

「でもいいじゃないですか。少なくとも缶ビールを飲み続けるよりは良いと思いますよ。着物は、相手を変えてくれる魔法だって、言ってくれたのは杉ちゃんでしょ。」

水穂さんがそう言うので話は決まった。亜希子さんが紹介してくれたサイトで、亜希子さんと梅子さんはそれぞれ色無地を購入した。もちろん帯やその他の小道具も買わなければならないが、それもすぐ買うことができた。最近は作り帯という結び目を用意してくれてある帯が流行っているので、梅子さんのような帯結びを知らない人であっても大丈夫になっている。必要なものを全部用意しても、一万円をこすことがないのも、リサイクル着物の良いところだった。

それから数日後。梅子さんが、製鉄所にやってきた。紺色の色無地の着物を着て、黄色のお太鼓結びの作り帯をつけている。

「お、かわいいじゃないか。なかなか行けてるぜ。」

杉ちゃんがそう褒めてやると、

「ええ今日はこれで図書館でも行ってみようかなと思うんです。」

梅子さんは嬉しそうに言った。ジョチさんが、気をつけて行ってきてくださいというと、梅子さんはありがとうございますと言って、バスのりばに向かって歩いていった。流石にその時は酒を飲まなかった。

その日のお昼前。

なんだか玄関先で泣いている声がしたと思ったので、杉ちゃんが玄関先に行ってみると、梅子さんが着物を着たまま泣いている。一体どうしたんだよと聞くと、いつもなら自分のことは絶対喋らない梅子さんが、

「実はバスで待っていたら、中年のおばさんに言われてしまったんです。若いくせに年寄りの格好をして生意気だと。」

というのであった。

「ほら見ろ。やはりそうだったんだ。だから色無地だけあれば何でもいいっていうわけじゃないの。だったら、もう少し明るい色の着物を着るんだね。」

と杉ちゃんが言うと、

「そうですね。わかりました。じゃあ生意気だと言われないようにするためにはどうしたらいいか、杉ちゃん教えてください。」

と梅子さんは言った。

「はあ、お前さんは、酒を飲まないで、そういうセリフを言うことができたのか!」

杉ちゃんが驚いてそう言うと、

「あたし、そんな事を言ったんですか?」

梅子さんは呆然としたような顔をしているが、

「一度だけでも、酒に頼らないでそういうセリフを言うことができたんだったら、これからも前向きにその姿勢でやってくれませんか。失敗してすぐに酒に逃げるのではなくて、そうやって相手に質問することを、学んでください。」

と水穂さんがそういったため、梅子さんは、小さな声で、

「わ、、、わかりました。」

と言ったのだった。

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松風 増田朋美 @masubuchi4996

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