最終話
あれから、俺たちは順調に仲を深めていた。俺が過去を告白してからもキョウカの俺に対する態度は変わらず、むしろ甘くなっていく一方だった。俺もそんなぬるま湯のような関係は居心地がよく、このままずっと続けばいいのにと思うようになっていた。
金曜の晩から月曜の朝まではどちらかの家に行き、絵を描くキョウカの横で漫画を描き、それに飽きたらいちゃいちゃとお互いを求めあう。そんな生活を続けていた。
キョウカと付き合い始めて一か月が経とうとしていたある日、俺は大学の講義終わりにコンビニにふらりと寄って、お菓子でも買おうかと商品棚を吟味していた。
定番のお菓子に懐かしい駄菓子。挑戦的な味の組み合わせの新商品。いろいろな商品が並ぶ中でどれを選ぼうかと迷った挙句、結局いつも通りのお菓子を手に取ってしまう。
挑戦をあきらめて安定に走ってしまうのは人間の性……、なんて考えながらレジで会計をしていると、視界の端に好ましくない人物が映って、心臓が縮こまる。
俺は隠れるようにしながらコンビニから出ようとする。
「タイガっ!」
後ろから衝撃。俺はたたらを踏んで何とか踏みとどまる。
振り向くと予想通りの人物。今最も会いたくない人間だった。
「久ぶりだねっ」
通う学部が違かったから、学年が上がるにつれて会うこともなくなって、今後会わずに済むなんておもっていたが、まさか家の近くで会うなんて。
「元気ー?」
アリスはにへらと笑って俺の前に立っている。彼女は首元で綺麗に切りそろえられた緑の黒髪を風になびかせながら、逆U字のガードポストに腰かけてその細長い脚をプラプラと遊ばせていた。
「ああ……」
俺はアリスに曖昧に答える。早くこの場から立ち去ってしまいたかった。
「あ、それ。前から好きだったよねぇ、それ」
それそれ、とアリスは俺が持っているお菓子を指さしている。そういえばアリスとそんな会話もしたか、と遠い記憶が蘇ってくる。
「ねぇ、無視ー?」
アリスがぴょんとガードポストから飛び降りて俺の顔を覗き込んでくる。アリスは女性にしても身長が低く、それなりに身長のある俺と並ぶとどうしても身長差が目立った。その点、キョウカは身長が高いから俺と並んでも全く違和感がない。
「なんだ」
「なんでそんな緊張してるのー。もしかして私にフラれたこと根に持ってる?」
小首をかしげてアリスが言う。逆になんで根に持っていないと思うんだ。お前はなんでそんなに明るく接してくるんだ。様々な思いが脳内で渦巻いて、中々口からは言葉が出てこなかった。まるで言語を失ったかのように、あだの、うだの言って言葉を探していた。
「ねぇ、私のラインまだ残してる?」
アリスにそう聞かれ記憶をたどる。たしか別れてからも連絡はしていないが、ブロックはしていないはずだ。
「……うん」
「じゃあさ、今日ライン送るから返してね! それじゃ」
そう言い残してアリスは風のように去って行ってしまった。なんだったんだ。俺は呆気にとられながらも家の方向へ足を向けた。
◇
ラインを送るから返せ。その言葉に帰宅してからもびくびくしていた。スマホを遠くに置き、なるべく意識しないようにしてテレビゲームをする。気にしないようにしていてもどうしても気になってしまって、ファントムバイブレーションに悩まされた。
そしてゲームにも飽きてきたころ、今度こそ幻聴ではない通知音がした。
恐る恐るスマホを開いてトーク画面を表示させる。
そこに書いてある文面を、俺は何秒間か理解できなかった。
『やほー。久々』
『急だけどさ』
『ヨリ戻さない?笑』
その意味を数秒間かけてじっくり咀嚼し、寒気がした。
アリスとよりを戻す。つまりはキョウカとのこの生活を手放すということ。そんなことは論外だ。
なのに、俺の手は一向に動かなかった。ノーと一言返信すればいいだけなのに、それができなかった。
アリスとよりを戻したその先を想像してしまって、すぐに否定できなかった。あの日アリスに受け入れられていた、その先にはどんな光景が待っていたのか想像してしまった。
そしてなにより、アリスとキョウカを天秤にかけるような真似をしてしまった自分が情けなくて、余計に返信ができなかった。
ブー、と音がした。
俺が固まった手をようやく動かしてその通知を開くと、キョウカからのメッセージだった。
『今週末、どうする?』
お互いの家を何回も行き来しているうちに、こんな内容のラインでも意味が伝わるようになっていた。どうする、というのは、どちらの家で過ごすか、ということだ。
俺はアリスをすぐに突き放せなかった罪悪感で、キョウカにも返信ができなかった。
スマホを遠くに放り投げて、俺はベッドに突っ伏した。
もう誰にも関わりたくなかった。
◇
アリスに会ってから何度か夜を越したと思う。ずっと引きこもっていた俺はすっかり日付の感覚がなくなり、今が何日で何曜日なのか分からなくなっていた。ひげも伸ばしっぱなしでいい加減気持ちが悪い。風呂も入っていないから、夏が近づいてきている気候で、部屋の中が酸っぱい匂いになりつつあった。
あの日ス放り投げてからその位置のまま放置されていたスマホは、しばらくは通知音が絶えなかったが、そのうち電池が切れたのか今はうんともすんとも言わない。
何日も引きこもっていればむしろ疲れる。いくら現実逃避でも、限界はある。俺はそろそろその限界を感じてようやくスマホを拾った。
充電器を繋いで枕元に置く。すぐに充電が開始されて、10分もしないうちに電源が付く。
スマホは電源が切れてからの通知を読み込んだのか、しばらくブーブーと断続的に鳴った。
通知はいくつかはアプリの通知やネット通販のメールマガジンだったが、ほとんどはキョウカからの着信だった。百件近い着信に、俺は心配させてしまったとまた自虐的になる。一言だけ、無事、と送って別のトーク画面を開いた。
アリスからは一件だけメッセージが来ていて、なんでもない、と送られていた。その前にあったはずのよりを戻そうというメッセージは送信取り消しされているのか見当たらなかった。
そうやってふさぎ込んでいた分の通知や着信を整理して、またスマホを枕元に置くとスマホが鳴った。
「もしもし」
それはキョウカからの着信で、俺は数瞬躊躇ったのちにその電話に出た。
『もしもし?! 大丈夫?!』
スピーカーから聞こえてきた第一声は、焦燥感に溢れた大音声だった。キョウカってこんな声も出すのか、と変に冷静な感想が浮かぶ。
「うん。ごめん」
『なんかあったの?!』
「いや、まあ、ちょっと……」
『今すぐそっち行くから! 行っても大丈夫だよね?!』
「え、あ、うん」
キョウカの勢いに流されるまま頷いた後に、引きこもっていたせいでずっと風呂にも入っていないことを思い出した。
今すぐに入ればキョウカが到着するまでにまにあうはずだと、急いで風呂の準備をしてシャワーを浴びた。
そしてシャワーを浴び終わって髪も乾かしたころに、ちょうどインターホンが鳴った。
「はい……」
「タイガ!!」
玄関の扉を開けると転がり込むようにキョウカが入ってきて、俺に抱き着いた。
「タイガ……」
ふわっと柔らかな甘い匂いが広がって俺の鼻孔をくすぐった。キョウカは涙目で俺を見上げていた。
「……ごめん」
俺が謝ると、キョウカは無言で抱きついた腕をさらにきつく締めた。
俺はそのままキョウカを部屋に連れて行って、今日までに何が起こったのかを説明した。
「……そっか」
「……」
キョウカは無表情で頷いた。
「私がいたら、タイガは幸せになれないのかな……」
表情に少し影を落としてキョウカが言った。
「そんなことないっ!」
俺は咄嗟に叫んだ。キョウカは急に大きな声を出されたからか驚いていた。
キョウカと一緒にいて幸せになれないわけがない。少なくともこの一か月、幸せじゃない瞬間なんてなかった。
それなのに。
「ごめん……」
それなのに、すぐにノーと言えなかった自分が悔しくてならなかった。悲しそうな表情をするキョウカを見ていると、自然と涙が出てきてしまった。
「ごめん゛……っ」
ぼたぼたと落ちた涙を見て、キョウカがハッと表情を変えた。そして、その白く小さな手をそっと俺の頬に当てた。
「タイガ……」
キョウカは小さく語りだした。
「私、タイガが好き。多分タイガが思ってる何倍も。すぐに選んでくれなくてもいいの。急にあんなこと言われたら誰だって戸惑うよ。すぐに返信できなくて当然だと思う。あんな別れ方ならなおさらだとよね。相手の子も寂しかったんじゃないかな。タイガは優しから、甘えたくなっちゃったんだと思うの」
キョウカの語りは滔々と、淀みなく続く。
「だから、気にしなくていいんだよ? こうやって今は私を受け入れてくれてる。それが何よりの答えでしょう?」
俺は涙を拭って頷いた。
「さっき、そんなことないって言ってくれてうれしかった。私、タイガが好き。タイガが思ってるよりも何倍も。私が思ってるよりも何倍も好きだった」
「……キョウカ」
俺の喉から出た声はかすれていた。
「タイガ、愛してるよ」
まっすぐに俺を見つめて言うキョウカ。俺もその眼をまっすぐに見つめ返し、掠れた声で言った。
「愛してる」
完
スケッチ 雨田キヨマサ @fpeta
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