Nana

弐月一録

Nana


「15時20分。お孫さんの蛻を確認しました」


お天道様が西へと傾き、病室の窓の外に広がる空は綺麗な橙色に染まっている。


ふっくらした頬に光が当たり、産毛が輝き血色が良く見えた。ちょっと昼寝をしているだけのように見えるけど、この子が二度と目覚めることはない。


私の可愛い孫である七奈ちゃんがついに蛻となってしまった。


蛻の殻症候群。体は機能して生きているけど、心が先に寿命を迎えてしまって天国に行ってしまう原因不明の病気。七奈ちゃんがそう診断されたのはまだ5歳の時で、最初の症状はぼんやりしたり眠る時間が多くなったりすることだった。そのうち食事も摂らなくなり歩くこともできなくなった。だんだんだんだん眠る時間が増えて、とうとう3日前から目が覚めなくなってしまった。まだ7歳だった。


体は至って健康。でも心はもうない。だから蛻の殻症候群という名前がついたって、お医者さんは言っていた。


点滴をやめてしまって栄養がいかなくなれば今度は体が死ぬ。そうなると七奈ちゃんは完全に死ぬことになる。


なぜ幼い七奈ちゃんがこんな目にあうのか。老い先短い私が代わりにこうなれば良かったのに。


息子夫婦も旅立ち、ずっと七奈ちゃんと2人で生きてきた。私の宝物、全てだった。生きる糧をなくした私は、どうしたら良いのだろう。


「小笹原さん、前にお話したことについて考え直してはどうですか?」


「・・・・・・心の移植の話ですか?」


医療技術が発達して救われる命が増える一方で、神様の意思に背くようなことも平気でできるようになった現代。


「あなたにとっては残酷な提案なのかもしれない、しかし空っぽになった体を待っている患者さんは大勢いるんですよ。七奈ちゃんだって自分の体を焼かれて失ってしまうより、存在して誰かの力になった方が嬉しいはずです」


この医者が言っているのは、病で体が動かなくなってしまったどこの誰だかもわからない他人の心を、空っぽの七奈ちゃんの体に移植するということだ。つまり姿は七奈ちゃんでも丸っきり別人のできあがりってわけになる。手の震えがとまらない。


「先生、先生だったら姿は偽物で中身は本物、姿は本物で中身は偽物だったら、どっちがいいですか? 私はどちらもあの子だとは到底思えませんよ。姿も中身もあの子でなけりゃ、駄目なんです。全部を愛していたんですから」


私は初めて人前でポロポロと涙を流した。七奈ちゃんの前では絶対に泣かず、大丈夫だよ、すぐ良くなるよとずっと声をかけていた。我慢して我慢して、たまっていた涙がついに外へ出た。恥だの何だの言ってられなかった。


「それでは残された選択は2つに絞られてしまいますよ。体の延命をやめてしまうか、老化して朽ち果てるまで続けるか。どちらにしろ、あなたの心が満たされることはないでしょう」


「先生、少しだけ時間をください。とても、気持ちが追いつけなくて。今日はもう、孫がいなくなった事実を受け止めるだけで、精一杯ですから、今日だけは勘弁してください。寝ずに考えて、明日には答えを出しますから」



私はうちに帰って一晩中、七奈ちゃんのことを考えた。


あの子は、姿はお母さんに似ているけれど性格はお父さんに似ていた。友達がアイスを地面に落として泣いてしまえば、すかさず自分のアイスをあげたし、順番待ちをしていたのに小さな子へ先にブランコを譲ってあげた。本当に優しくて可愛くて天使みたいな女の子だった。


あの子だったら、私のように悩まず答えは決まっているだろうね。馬鹿なおばあちゃんでごめんね。


そして翌日、私は七奈ちゃんの体を他人に提供するという、苦渋の決断を下した。


更にそれには残酷な条件があって、もしもどこかで七奈ちゃんの姿を見かけたとしても、気づかないふりをしなくてはいけないこと。移植したら中身は別人、孫でなければ全くの他人だ。だから名前や住所や家族構成等の個人情報を一切詮索し、関与してはいけないのだ。


私はその同意書に迷わずサインをする。


「本当によろしいんですね?」


「何を今更。先生が勧めてくださった話じゃないですか」


「ん、いや、昨日とは打って変わってすっきりしたような顔をしていらっしゃるから」


「昨日のうちに答えを出しておくべきでした。私は、孫の性格をよくわかっているのに、自分のことばかりで頭が真っ白になって。・・・・・・愚か者です。孫にとっても私にとっても、何が1番良い選択かは決まっていたのにね」


七奈ちゃんは完全に死んだわけじゃない、心か体、どちらか生きていればいいじゃない。私の知らない場所で、七奈ちゃんが幸せでいるならそれに越したことはないんだわ。


眠る七奈ちゃんの体が手術室へ入っていくのを見送る、これが最後。誰かの心が空っぽになってしまったこの子の体の中に入って、生きていく。


先生達が許す時間の限り、私は七奈ちゃんを抱きしめた。もちろん抱きしめ返してはもらえないけど、願うなら永遠にこのまま離れたくはなかった。


やがて七奈ちゃんは重い扉の向こうへ連れて行かれた。息子夫婦と合わせて、大事な人を見送るのは3人目。こんな場面でほっとしてしまうのは、もう周りに大事な人はおらず、胸を抉られるこの思いを体験することはない安心さからだった。


この日を境に私は天涯孤独になった。誰かと話すことのない日々が続いても、大事な人を失う悲しみに比べたら平気だった。


それから何十年も独りで生きて、七奈ちゃんの体が今どこで何をしているだろうか、怪我をしていないだろうか、病気になっていないだろうか、大切にされているだろうかと考える時間は減っていった。歳をとりすぎたせいで、自分のことを考えるのも億劫で色々忘れがちになっている。



鏡に映るのは蜘蛛の巣のように白く細長い髪に、黒く窪んだ目、青白い肌に痩けた頬、紫色の唇、枯れ木に雑巾を纏ったような格好をしているみすぼらしい老婆だった。


いよいよ自分のこともわからなくなってきて、うちに帰る道も忘れて、外をぶらぶら歩いていると皆蔑んだ目で見てきた。時には石やゴミを投げつけられた。


腹が減るという感覚も寒さも暑さも痛さもなくしたので苦痛ではなかった。もはや歩いているここがどこなのかもわからず、がくがくと足が震えて倒れそうになる。


ただ、人のプライドが微かに残っていたらしく、地べたで死ぬのが嫌だと思って、公園のベンチへ倒れるように座った。


とにかく、眠くて仕方がなかった。このベンチは木漏れ日が落ちてきて暖かく心地よい。最期の場所としては贅沢だった。


静かに終わりの時を待つ。項垂れて何度か無意識に瞬きをしていると、視界に小さな赤い靴が入る。ゆっくり目線を上げると、そこには5歳くらいの女の子が立っている。栗毛に瞳の色は青く、外国人のようだったが、七奈ちゃんの生き写しだった。


「Nana!」


その子は誰かをそう呼んでいた。なな、久しぶりに聞いた名前。愛して愛して仕方ない孫の名前。


足音が近づいてきて、私は残りの力を振り絞って目を動かした。


「すいません、孫が起こしてしまって」


エプロン姿の中年の女性。ひと目で、すぐ気づいた。遠い昔に置いてきた思い出が蘇る。


「あなたの、お孫さん?」


「はい」


「可愛いわ。なな、って、あなたのこと、そう呼んだわね」


「ええ、お父さんがイギリス人で、向こうではおばあちゃんのことをNanaって呼ぶそうなんです。不思議だけど、何だかNanaって呼ばれるの、懐かしくて」


「そう、・・・・・・気に入っているみたいで、良かった」


「あの、体調が悪いんですか? 病院に行きましょうか?」


「ううん、いいの、もう、いいのよ・・・・・・。汚い体で、悪いんだけど、どうか・・・・・・抱きしめて、もらえないかしら」


彼女は躊躇しながらも、成長したその体で私をそっと抱きしめた。あの別れた日とは逆で、私には抱きしめ返す力がなかった。


ここまでたどり着くのに随分苦労をした。でも辛いばかりの人生でも、最期が幸せなら全ての過程が無駄ではなかったと思える。



気づかないふりをしなくちゃいけない、でもこの言葉だけはどうしてもこぼさずにはいられなかった。きっと声を出すのもこれがおしまいだから、最期のわがままくらい神様もきっと許してくださるだろう。




「また、あなたに会えて良かった」







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