第10話 同じ夜の下で
初仕事が上手く行ったとわかった日の夜、早霧は中々寝付く事が出来なかった。
雨水がゆっくりと衣服に浸透するように、奇妙な高揚と成功の実感が湧き上がってくる。
思い返すまでもなく、これまでの早霧の人生は上手く行く事など一つもなかった。
努力は報われず、笑われる事の方が多かった。
頑張れば頑張る程バカを見て、その内頑張る事自体がバカらしく思えてしまった。
なにをしても上手く行かず、何かする度に嘲笑われるなら、いっそ何もしない方がマシだ。
そんな風に全てを諦めていた。
けれど内心では、早霧だって頑張りたかった。
人並みに頑張って、人並みに成果を出して、人並みに褒められたかった。
期待する事すら辞めていたささやかな願い。
それが今日、不意に適ってしまった。
良い気分だ。
二十数年生きてきて、久しく感じ得なかった感覚。
空っぽの心が満たされ、常に彼を苛んでいた疎外感が嘘のように晴れていた。
一方で、彼の心に住み着いたいじけた虫が囁いた。
こんなのはまぐれで、ただの偶然だ。
運が良かっただけだ。
考えなしの行動がたまたま上手くいっただけだ。
その通りだと早霧は思った。
色んな事を思っていた。
これはチャンスだ。
産まれた時から終わっていたと思っていた人生を取り戻すチャンス。
二度とはないに違いない、一生に一度の幸運。
これを物にしなければ、自分は一生冴えないニートのお荷物だ。
頑張らないと。
次はもっと上手くやって、もっとあの子を喜ばせよう。
そしてちゃんとお金を稼いで、これまで迷惑をかけた分姉に恩返しをしよう。
出来る事なら倍にして、欲を言うならその倍の、倍の倍の倍にして。
返しきれない程の恩を返したい。
「……その為に、僕はなにをしたらいい?」
暗い天井に向けて呟くと、早霧はむくりと起き出した。
明かりをつけてパソコンを起動する。
ゲームをする為ではない。
そんな気にはまるでならない。
そんな時間は一秒もない。
そんな事をしていたら勿体ない。
まだ記憶が鮮明なうちに、今日のデートを振り返らなければ。
そして分析するのだ。
彼女はなにを求めている?
彼女を喜ばせるには何をしたらいい?
答えは分からない。
それを見つけるのが僕の仕事だ。
†
同じ夜。
花子こと、
遥は四人組の実力派アイドル、四季のメンバーだった。
デビューして三年目だが、かなりの人気を博している。
TVやラジオに引っ張りだこ、コンビニでもコラボキャンペーンをやっていて、来年の紅白は確実なんて言われている。
そんな彼女には悩みがあった。
ストレスによる不眠やヒステリー、パニック発作といった症状だ。
理由は自分でも分かっている。
ハードなスケジュール、周囲の過度な期待、オーディションで集められたメンバーとの関係はお世辞にも良いとは言えない。愚痴を言える相手もおらず、人気過ぎて気軽に表に出る事も出来ない。
他にも色々。
ストレスの原因なんか幾らでも挙げられる。
それなのに遥は、それを解消する術を一つも持ち合わせていなかった。
アイドルになりたい。
ただそれだけの為に走り続けた二十数年。
ようやく夢が叶ったと思ったのは大間違いで、人気アイドルを続ける事は人気アイドルになる事よりも難しいと思い知らされた三年だった。
限界が近づいている事は自分でも分かっている。
けれど止まれない。
そんな事は許されない……というわけでもないが。
とまった所でどうしたらいいのかわらかない。
アイドルになる為に全てを捧げた遥には、余暇の過ごし方が分からなかった。
そんな彼女を案じたマネージャーがある日馬鹿げた提案をしてきた。
「レンタル彼氏なんてどうかしら?」
笑えない冗談だった。
言うまでもなくアイドルに彼氏はご法度だ。
実力派の四季の中でも遥は歌唱力を売りにしている。
ガチ恋営業なんかしてないし、むしろ塩対応で有名だ。
それでも人気アイドルともなればその手のファンは大勢いる。
応援してくれるのは嬉しいけれど、恋愛対象として見られるのは正直つらい。
遥はただ、孤独だった自分を勇気づけてくれたとあるアイドルグループのように、自分も歌とダンスで人々を元気付けたかっただけなのだ。
なんにしろ、どのような形であれ応援してくれるファンを裏切るような事はしたくないし、不仲とは言えグループのみんなに迷惑をかけるようなリスクを犯したくはない。
それに遥は色恋なんかに興味はない。
その手の歌をいくつも歌っているが、正直全然ピンと来ていないくらいだ。
「大丈夫よ。レンタル彼氏って言うと大袈裟に聞こえるけど、お金で都合の良い友達を派遣してもらう感じだから。あたしも使ってるし。遥ちゃんは変装して、相手も女装して女の子の振りして貰えばバレないでしょ」
バカだと思った。
前から思っていた事だが、今回のは特にバカだ。
遥は反論した。
どう考えてもリスクとリターンが釣り合わない。
「そうかしら? このまま無理して遥ちゃんが潰れるよりはよっぽどマシだと思うけど」
気軽に言うが、目の奥はマジだった。
そこからマジトーンで真面目に説教された。
スマホやSNSが普及して、芸能人のプライベートは息苦しくなる一方だ。
今までも多くのアイドルがストレスを理由に壊れたり間違いを犯している。
遥自身、そういった話は嫌と言う程耳にしてきた。
人気の絶頂にあったアイドルがつまらない不祥事で消えていく。
だからこそ、遥は危ない橋を渡りたくはなかったのだが。
精神面が限界に近い事も事実ではあった。
実際、この話をしている最中、遥はヒステリーを起こして泣きわめいてしまった。
マネージャーも慣れているので驚きもしなかったが。
「ほらね。あたしが相手だからいいけど、生放送の最中なら悲惨よ?」
それで結局説得された。
一度だけ。
ほんのお試しで。
イヤイヤだ。
マネージャーの顔を立てる為。
これっきりだと思っていた。
それなのに。
「………………楽しかったなぁ」
呟きは高級マンションの無駄に広い部屋の中に吸い込まれた。
聞く相手など誰もいないのに、恥ずかしくなって口元まで布団を被る。
現れたのはその辺のアイドルよりも綺麗な男だった。
というか、言われなければ男だなんて分からないだろう。
少なくとも、ゴテゴテとしたゴスロリ衣装の上からでは男らしい特徴は見分けられない。
精々声がちょっとハスキーかなと思う程度だ。
変な奴だった。
ぶっきら棒なのに丁寧で、失礼なのに気遣い屋で、こちらの事なんかまるで興味がないような様子なのに、ちゃんと遥の事を見ている。
なによりも、遥の事なんか一ミリも知らないと言った雰囲気が気に入った。
一緒に入ったコンビニで自分の収録した宣伝ボイスが流れた時は終わったかと思ったが。
マジで全然気づかない。
それ以前に、彼は四季というグループすら知らない様子だった。
だからだろう。
彼と過ごす時間は驚く程に気楽だった。
アイドルになる前の、まだ何者でもないただの遥だった頃に戻ったような気分だ。
それでいて、あの頃には得られなかった友達のような感覚で接してくれた。
なに、泉さんってアイドル目指してるの(笑)?
周りはみんなそんな態度で、だから遥には友達なんか一人もいなかった。
自分の夢を笑うような人間とどうして友達になんかなれるだろうか。
なにもせずに人の努力を笑うような人間と慣れ合うくらいなら、自分は一生孤独でいい。
そう思って遥は生きてきた。
だからアイドルになれたのだろうし、だからそのツケが回ってきたのだともいえる。
他のメンバーも別に仲良しこよしというわけではないが、それどころか裏で陰口を言い合っているが、それでも表面上は上手くやっている。
遥はそこまで器用ではない。
なんにしたって器用に出来た事なんか一つもない。
歌も踊りもなにもかも、全て泥臭く努力して手に入れた成果だ。
そんな自分があんなニートの、それもレンタル彼氏なんかやってる怪しい男と馬が合うのは皮肉な気もするが。
確かにあの男と遊んだ時間は楽しかった。
人気アイドルの自分が女装したレンタル彼氏と過ごしているという事実も良かった。
悪い事してるなぁという気がして、その背徳感がストレスの発散になった気がする。
自分を苦しめる様々な物に対して、ささやかな仕返しをしている感覚。
っていうかいい年した大人が二人でブランコだなんて!
本当、思い出すだけで笑えてくる。
なによりも、彼が別れ際にかけてくれた何気ない一言が心に響いた。
『行ってらっしゃい。お仕事頑張って~!』
まるで慣れ親しんだ家族に向けるような、温かな真心のこもった一言だ。
あの時、何故だか遥は泣きそうになった。
嬉しくて、救われたような気になった。
自分の事なんか何一つ知らない癖に。
何者で、どれだけ苦労しているかも分からない癖に。
無責任に言ってくれたあの一言。
人気アイドルグループ四季の泉遥にではなく。
文字通り何者でもない花子と名乗った自分に向けられた一言。
なんだっていい。
今日は久々に良い日だった。
途中で雑誌の取材が割り込んだのは頂けないが。
それに腹が立つくらいには楽しかったという事なのだろう。
だから……。
「……また……遊びたい……なぁ……」
いつの間にか、遥は眠りの中に落ちていた。
不眠症にしては早く、安らかな眠りだった。
ニートな僕がレンタル彼氏を始めたらS級美女達がご贔屓さんになりました 斜偲泳(ななしの えい) @74NOA
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