第9話 優しい嘘

「ただいま~……。って早霧、どうしたのよ?」


 仕事帰りの美雨が心配そうに告げる。


 早霧はリビングのソファーで死んだ魚みたいにうつ伏せになっていた。


 クッションに顔を埋めたまま。


「……ごめん美雨ちゃん。お仕事、失敗しちゃった……」

「……なにがあったの?」


 肘置きに腰を落ち着けると、美雨は早霧の頭を優しく撫でた。


 暫くして、早霧はデートの様子を話して聞かせた。


「……バカだよね。大の大人が公園でブランコ遊びなんて……」


 あの時はなんとも思わなかったが、後になって考えたら後悔した。


 あんなのは、デートとは呼べない。


「……そんな事ないと思うけど。話を聞いた感じ、向こうも楽しんでたんでしょ?」


 慎重に言葉を選んで美羽が言う。


「僕に気を使って合わせてただけだよ」

「考え過ぎよ……」

「途中で帰っちゃったんだよ? 仕事の電話とか言ってたけど、抜け出す為の嘘に決まってるよ。それなのに僕、全然気づかなかった……。ごめん美雨ちゃん。折角お仕事くれたのに……。やっぱり僕は出来損ないのダメニートだよ……」

「そんな事ないってば! あのお客さん、本当に忙しい人だし! まだ分からないでしょ? ……仮にダメでも、こういうのって相性もあるし。また別のお客さん紹介するから!」

「……ありがとう美雨ちゃん。慰めてくれて。でも、もういいんだ……。やっぱり僕、この仕事向いてないよ……」

「早霧? まさか、辞めるなんて言わないわよね?」

「……ごめん。でも、これ以上美雨ちゃんに迷惑かけたくないから……」

「今更でしょ!? っていうか、あたしは一度だって迷惑だなんて思った事ないし!」

「……僕はずっと思ってるよ」

「ねぇ早霧、考え直してよ! まだ始めたばっかりじゃない? 誰だってミスする事はあるし……」

「僕もそんな風に思えたらいいんだけど。……これは美雨ちゃんの会社のお仕事だから……」

「早霧……」


 言葉を探すように美羽が黙り込む。


 気まずい沈黙の中、美雨の携帯が場違いに明るい着信音を鳴らす。


 反射的にポケットに向かった美羽の手が途中で止まる。


 早打ちのガンマンみたいな格好で停止し、視線だけが困ったように上下する。


「出なよ」

「でも……」

「僕の事はいいから……」


 喘ぐように早霧は言った。


 実際息苦しかった。


 この件に関して、美雨はなに一つ悪くないのだ。


 そんな彼女を苦しめている事実が心苦しい。


「……すぐ戻るから」


 そう言って美雨は席を外した。


 その隙に早霧は自分の部屋に移動した。


 ブクブクと泡のように湧き出す黒い感情から逃れる為、パソコンの電源を入れて適当なゲームを起動する。


 群がる敵をひたすら撃ち殺すシンプルなゲームだ。


 最大難易度は余計な事を考えるような余裕はない。


 そのはずなのに、ふとした瞬間に考えてしまう。


 どこで間違えたのか。


 どうすればよかったのか。


 なんでこうなってしまったのか。


 そして思う。


 最初からだと。


 僕なんか産まれてこなければよかったのにと……。


「早霧……」


 ノックの音にギクリとしてゲームオーバーになる。


 いつの間にかゲームに没頭していたらしい。


「……ごめん美雨ちゃん。今はちょっと、一人になりたい気分なんだ」


 振り返らずに言った。


 振り返れないと言った方が正しいだろうか。


 姉に合わす顔がない。


 そんな顔は最初から持ち合わせていなかったのかもしれないが。


 笑みもなく自嘲する。


「ちょっとでいいから」


 珍しく、姉は強引に部屋に入ってきた。


 観念して早霧が振り返る。


「……なに?」

「さっきの話の続き」

「……もういいよ」

「よくない」

「美雨ちゃん……」


 懇願するような早霧に向けて、美雨が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「また指名したいって」

「え?」


 意味が分からず聞き返す。


「さっきの電話。早霧のお客さんのマネ――じゃなくて、代理人から。良い所だったのに邪魔するなって怒られたそうよ? 良い息抜きになったみたいで、仕事にもいい影響があったみたい。是非次も依頼したいって。気難しい子なのにどんな手を使ったのって驚かれちゃった」


 美雨の言葉を理解するには時間が必要だった。


 バカみたいに暫く呆けると。


「……マジで?」

「嘘じゃないのは分かるでしょう?」


 悪戯っぽく美雨が片目を瞑る。


 不意に早霧は全身の力が抜け。


「よかったぁ……」


 ぐにゃりと椅子にもたれかかった。


「ね? だから言ったでしょう? 考えすぎだって」


 ニコニコと、自分の事のように嬉しそうに姉が言う。


「そうだけど……ブランコだよ? 普通は呆れられる所でしょ」

「そんな事ないわよ。この仕事に正解なんてないの。むしろ、普通に考えたらダメそうなデートの方が好評だったりするのよね」

「わかんないなぁ。どういう事?」

「型にはまったデートなんて面白くないって感じかしら? っていうか、別にレンタル彼氏はデートするのが仕事じゃないし」

「そうなの?」

「そうよ。レンタル彼氏のお仕事はお客さんを満足させる事。その為なら何をやってもいいし、なにもしなくたっていいの。むしろ、相手のしたくない事を見極めて避けるスキルも大事よね」

「う~ん……」

「難しく考える事ないわよ。さっきの例で言うなら、折角お金を払ったのに型にはまったデートをするのはつまらないでしょ?」

「そうかなぁ?」

「そうよ。だってそれじゃあデートの為のデートみたいじゃない」

「……でも、美雨ちゃんと出かける時は普通のデートみたいな事多くない?」


 外食して映画を見て買い物をして……。


 そんな事が多い気がする。


「それはあたしが早霧と一緒の時間を楽しみたいからよ。でも、レンタル彼氏のお客さんはそうじゃないでしょ? よく知らない相手と無難なデートしても盛り上がらないし」

「じゃあどうしたらいいのさ」

「簡単よ。相手の好きな事とかしたい事をすればいいの」

「あの子の場合はそれがブランコだったって事?」


 なんだか釈然としない答えである。


「ん~。ちょっと違うかしら。ねぇ早霧。こんな話聞いた事ない? ホームセンターにドリルを買いに来るお客さんはドリルじゃなくて穴を開けたいんだって奴」

「あ~。ネットで見た事あるかも」

「アレと同じよ。そのお客さんはブランコに乗りたかったんじゃなくて、ブランコに乗って得られるものが欲しかったのよ」

「例えば?」

「だ~め。ここから先は早霧が考えて」


 教師のような口調で美羽は言う。


 実際、学生時代の美雨は早霧の家庭教師みたいなものだった。


 懐かしい気持ちになりながら、早霧はちょっと考えてみる。


 ブランコに乗って彼女が得た物とはなんだろう?


「………………ワクワクとか?」


 自信なさげに早霧が呟く。


「かもね?」


 答えをはぐらかすように美雨は肩をすくめた。


 半眼になる早霧に向けて。


「あたしだって答えなんか分からなわいよ! それに多分、あの子だって分かってないんじゃないかしら」

「そんな事ってある?」

「あるわよ。っていうかむしろ、レンタル彼氏を利用するようなお客さんはそういう人が多いわね」

「そうなの?」

「やりたい事が分かってたら自分でやるでしょ?」

「確かにそうかも……」


 美雨の説明が腑に落ちる。


 やはり姉は頭がいいと感心した。


「まぁ、分かってても一人じゃ出来ないとか楽しくないからって理由でレンタル彼氏を利用する人もいるけど」

「色んな人がいるんだね」

「そうよ。色んな人がいるの。だからブランコデートも悪くない。むしろ数少ない正解を引き当てたと思うわ。やっぱり早霧、この仕事向いてるのよ」

「大袈裟だよ……」


 言葉とは裏腹に早霧の口角は上がっていた。


 人から褒められる経験があまりない早霧である。


 勿論姉は過剰な程に褒めてくれるが、それはそれだ。


 普段ならブラコンの身内贔屓だと思う所だが、今回は他者の評価も伴っている。


 嬉しくないと言ったら嘘になった。


 そこで不意に早霧の携帯が震えた。


 シンデレラバーズのアプリに花子からのメッセージが届いている。


「ちょっとごめん」


 確認するとこんな内容だ。


『今日はごめんなさい。こっちから依頼したのに、失礼な態度でした。言い訳になっちゃうけど、あたしちょっと人見知りな所があって。あと、本当は人に勧められて仕方なく利用したんです。こんな事しても意味ないと思ってたけど、結構楽しかったです。イヤじゃなかったらまた遊んでください。……色々あって、また途中で抜けちゃう事あるかもしれないけど……それでもよければ……』


 しおらしい文章に早霧の目がキョトンとした。


 可愛い所もあるんだなと微笑ましくすら感じる。


「今日のお客さんから?」

「うん」

「なんだって?」

「悪くなかったって」

「そう」


 その答えに満足すると、ニヤつきながら美雨は尋ねた。


「で、どうする? 早霧が嫌なら、無理にとは言わないけど?」

「分かってるくせに」


 唇を尖らせると、早霧は降参するように軽く両手をあげた。


「続けるよ。っていうか、やらせてください」

「そうこなくっちゃ!」


 嬉しそうに美羽は言って。


「じゃあ、今日はパーティーね! 上手く行くと思って実はケーキ買ってきたの!」

「もう、美雨ちゃんてば……」


 ブラコンぶりに呆れつつ。


「それ、ダメだったらどうするつもりだったの?」

「あたしの弟なのよ? 絶対上手く行くに決まってるの!」


 有無を言わせず美羽が告げる。


 実際は、もしダメならこっそり捨てるか、残念会に切り替えたのだろう。


 優しい姉の優しい嘘に、早霧もそれ以上は追求しなかった。

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