第27話 存在意義

 手渡されたタオルで頭を拭きながら、皐月はフト、『この柔軟剤、うちと一緒のやつだ』と考えた。偶然なのか、それとも裁人が敢えて皐月が使っているものと同じメーカーのものにしたのかは分からないが、馴染みの香りが心地よく感じた。


 裁人の部屋は良平の部屋よりもずっと殺風景で、広さの割に家具が殆どない状態だった。特に違和感を覚えるのは、テレビが見当たらないところだ。広いリビングにテレビが無い状態というのは、どうにも物足りなさを感じてしまう。


——確かにAIにテレビは不要だよな……。でも、なんとなくバラエティを見ながら笑う裁人の様子が目に浮かぶのは気のせいだろうか。


 皐月はそう考えて、頬を掻いた。


 同じマンションの別のフロアにある良平の部屋を、裁人は定期的に掃除をしに行っているようだが、皐月はもう随分と足を踏み入れていない。思えば裁人の部屋に来ることは初めてだと考えて、興味本位に辺りを見回した。


 キッチンに目を向けると、やたらと調理器具が充実している事に気づいた。


「……裁人、料理するの?」


 裁人は「はい」と答えると、「レシピは無限大です」と嬉しそうにへらへらと微笑んだ。


「インターネットからいくらでもレシピが入るからか。でも、レシピ通りに作れるの?」

「勿論です」


 得意気に頷く裁人に、皐月は思わず噴き出した。


「料理人になったら良かったのに」

「皐月君の大好きな唐揚げも美味しく作れます」

「本当!? 意外過ぎる特技だね」

「流石に職人技までは習得できませんが、食は人が健やかに生きる上で大変重要です。美味しく健康的な食事を摂っていれば、精神的にも安定します」


裁人は手際よくコーヒーを淹れると、皐月へと差し出した。ふんわりと室内にコーヒーの香りが漂い、一口飲むとホッとしてため息を一つついた。


「美味しい」

「皐月君はマンデリンコーヒーが好きです」

「……うん、好きだよ」

「そうでしょう?」


満足気に裁人が微笑む様子を見て、まるで飼い主に褒められたい犬の様だと思い、皐月はぷっと噴き出した。


「どうして笑うのですか?」

「いや、なんだかちょっと裁人が可愛いと思ったから」

「私は良平の身体を使っているので男性で、皐月君よりも年上です。可愛いというのはおかしいです」


キョトンとしている裁人の様子が余計に可愛らしく思えて、皐月は頷いた。


「もしも良平が女性だったら、裁人は女性なの?」

「AIに性別はありません。ですが、男性名をつけてくれたのは皐月君です」


『”人間の名前”が欲しいです』


皐月の脳裏に、裁人が人間として戸籍を登録する際に話した時の様子が浮かんだ。


『……俺にそんな事言われても』と、困った様に眉を下げた皐月に、裁人はお構いなしに『苗字は決まりました』と言葉を続けた。


『苗字は何にするの?』

『“有幻”です。良平の苗字の“無現”を逆の言葉にしてみました。名前は何がいいですか?』

『……そうだなぁ。Savantだから、安易だけど“さばと”かな? 漢字は……“良平”は“平和”って意味だろう? それじゃあ、その逆の言葉って何だろう?』


皐月は呟く様にそう言った後、良平の部屋のテレビから流れるニュースに耳を傾けた。犯罪を犯した者の裁判の判決の内容だった。


『……皆が平和なら、犯罪だって起きない。“裁く”必要なんて無いのに』

『良い発想だと思います。では、私の名前は人を裁く。“裁人”ですね』


「なんか、あんな名前の付け方で良かったの……?」


改めて思い出しながら言った皐月に、裁人は嬉しそうに頷いた。


「はい。気にいっています。皐月君が私を呼ぶ時、『愛』を感じます」

「……気のせいじゃないか?」

「そういうことにしておきます」


へらへらと笑みを浮かべる裁人が余りにも幸せそうで、なんとなく気まずい気がして視線を逸らすと、山積みになっている本が視界に入った。


「裁人も本を読むんだ? インターネットがあるから必要なさそうだけど」

「本にはインターネット上にデータとして存在していない情報がありますので、沢山読みます」


積み上げられた本はきっちりとサイズが揃えられており、AIならではの妙な几帳面さが醸し出されている。


「本棚買えばいいのに」

「一度読んだ本の情報は全て記録されますので、読み返す必要がありません。読み返さない以上、本棚を必要としません。電子書籍として存在せず、図書館にも置いていない本のみを購入し、データを取り込みます」


——羨ましい機能だな。


「裁人は何にでもなれただろうに、良平と俺との約束があったから精神科医になったんだろう? 他にやりたいことは無かったの?」


 例え同じ医師だとしても、精神科医になる必要も無かっただろう。裁人のAIならではの能力を発揮するには、もっと相応しい職があるのではないだろうか。


「いいえ。良平が皐月君とした約束を、私は果たさなければなりません」


『皐月、僕が開業医になったら、一緒に来てくれるかい?』


皐月の脳裏に良平が言った言葉が浮かんだ。

——ああ、そうか。裁人は良平の身体を奪ってしまったから、良平の代わりをしなきゃならないといつも思っているんだ。


 俺のお守りという役目を……。


 本当は、リスクを負ってまで晃大を雇用する必要だってない。いいや、それよりも裁人は俺なんかと居るよりも、一人で居た方がずっと楽なはずなんだ。裁人は俺の側から離れたく無いと言ってくれるけれど、それはAI故の特性なんじゃないか……?


——持ち主に忠実であるという……


「裁人は、人間になった事に後悔は無いの?」


 皐月の質問に、裁人は緋色の瞳を細めた。


「皐月君は、以前も私にその質問をしました」

「ああ、そうだったっけ?」

「最近は偶に、少しの時間だけ後悔することがあります」


裁人はコーヒーを一口飲むと、ほぅっとため息を吐いた。


「ですが、人間でなければ分からなかった事が沢山あります。このコーヒーの味もその一つです。私がコンピュータの中に居ると言う事は、死んでいるのと変わりません」


——裁人の言う事は尤もだ。ただただ傍観するだけの生に意味を見出す事なんてできやしない。


「最初から、人間として生まれて来たかった?」


裁人は困った様に眉を下げると、「皐月君は怒るかもしれませんが……」と、珍しく言いづらそうに話した。


「最初から、『良平』として生まれたかったです」


「どうして?」と、問いかけた皐月に反応するように、裁人が僅かに身体を後ろへと引いた。


「叩かれると思ったの?」

「はい。エラーが起きます」

「……叩かないけど、教えて。良平自身じゃなく、弟とか、兄とかだと駄目なの?」


裁人は尚も言いづらそうに緋色の瞳を皐月に向けた。


「皐月君は良平が好きです。ですから、私は良平になりたいです」


その言葉を聞き、皐月は悲しくなった。

——俺に執着する裁人が、なんだか可哀想だ。折角人間になれて、もっと自由に人生を愉しめたはずなのに。やはり俺は、裁人にとって足枷じゃないか……。


「後三分で雨がやみます」


裁人の言葉に皐月はクスリと小さく笑うと、「優秀な天気予報だな」と言った。


「気象庁の気象レーダーと、国土交通省のXバンドMPレーダーと、統計と湿度を融合させて独自に計算しています」


少々得意気に裁人が言う様子を見つめると、霞んだ視界に皐月は瞳を擦った。雨に打たれたせいだろうか。頭痛がする。


——もし風邪を引いたのなら、裁人にうつす訳にはいかない。精神科医である裁人が倒れてしまえば、患者さん達が困ってしまうから。


「裁人、炊飯器を買うのは今度でいいや。俺、今日は帰るよ」


 体調不良を裁人に感づかれないように明るい調子で言うと、皐月は立ち上がった。


「では、車で送ります」

「大丈夫。運動不足だし。コーヒー、ご馳走様。美味しかった。あと、タオルも有難う。助かったよ」


 パタパタとわざとらしい程に元気に玄関へと行くと、颯爽と靴を履き、緋色の瞳で見つめる裁人に「じゃあ、また明日!」と言って、マンションの玄関から廊下へと出た。


——思った通りだ。寒気がしてきた。


 熱が出たり、体調が悪かったりしてると心も弱る。そんな時に裁人と一緒に居たらいけない気がした。


 皐月は両肩を擦る様に掌で温めると、溜息を吐いた。鞄からマスクを取り出して掛け、エレベーターへと乗り込んだ。ふらつく足を普段通りの足取りに修正しながら、周囲を行き交う人々に気を使い慎重に駅へと向かって皐月は歩いた。


——頑張れ、俺。誰の目があるかも分からない。クリニックに通う患者さんに会う可能性だってあるんだ。誰にも迷惑なんかかけたらダメだ。裁人の足を引っ張ったりなんかしたら駄目だ。

 両親を失った寂しさから逃れようと、良平にしがみ付いてしまった俺を、良平の代わりに裁人が背負おうとしている。


 そんなのは間違ってる。


 誰かの足枷になんかなりたくないのに。


 兄の身代わりとして生きて来た俺は、存在していないも同然だった。そのままで良かったんだ。俺はとっくに『皐月』として生きる事が出来なくなってしまっていたんだから。


 改札を通り、電光掲示板に表示されている電車の発車時刻に目を向けると、文字が二重にぶれて見えた。激しい頭痛で上を向く事すら辛い。


——何時に電車が来るかわからないけど、待っていればそのうち来る。大丈夫、気にするな。


そう言い聞かせてエスカレーターでホームへと向かい、下り列車が来るのを待っていると、女の子が手に持っていたぬいぐるみを線路へと落としてしまう様子が目に入った。


 その様子が、スローモーションの様に皐月の目に映る。


「駄目!!」


咄嗟にそれを追いかけようとする女の子を見た瞬間、皐月はホームの端へと駆けた。手を伸ばし、カチリと強く音を発して武骨な金属製の柱に設置してあるボタンを押した。


 非常停止ベルが鳴り響く。


 ぬいぐるみを拾おうとしてホームから身を乗り出した少女が、ホームから転落するすんでのところで座り込んでいる。どこか身体を打ったのか、非常停止ベルの音に驚いたのか、大泣きしている。

 駆け付けた駅員が対応する様子を見ながら、皐月はバクバクと激しく鼓動する心臓を宥めようと深呼吸をした途端、ズキリと頭痛が走った。


——やばい……今ので体力を消耗した。でも、女の子が無事だったからいいか。


 皐月は、非常停止ベルの下に蹲った。


——立つ気力が無い。情けないな、俺……。


蹲る皐月のこめかみが脈打つ度に、ズキズキと頭痛が走る。脂汗が背を流れ、不快に思って眉を寄せた。


「……皐月君」


——裁人の声だ。幻聴まで聞こえるだなんて、熱が結構上がってるのかな。


「皐月君の歩く速度から計算して、駅の防犯カメラに映るまでの時間が遅かったので心配になって駆け付けました。マスクをしていたので、風邪でも引いたのだろうと予測しましたが、その通りの様ですね」


 裁人は、皐月を軽々と抱き上げた。


「どうして私をもっと頼ってくれないんですか? 私が、良平じゃないからですか?」


裁人の声が心なしか震えて聞こえる。

 こんな時にも皐月は自分ではなく良平に助けを求めるのだろう、と裁人はその事実を寂しく思った。


「待って……誰かに見られたら……」

「今重要な事は、皐月君を介抱することです」


 人目を気にする事もなく、裁人は皐月を抱き上げたまま堂々と駅のホームを歩いた。裁人にとっては、誰に何を見られようとも構わなかった。


 皐月さえ無事でいてくれさえすれば構わない。


 患者に見られ、信用を失おうとも、自分がAIだと周囲にバレようとも、化け物扱いされようとも全く構わない。それは裁人にとってどうでも良い事だった。


 皐月の側にいられるのなら、皐月が幸せであるのなら。それが裁人にとっての唯一の願いなのだから。


 例え皐月が必要としているのは裁人ではなく良平なのだとしても、裁人という存在を認めてくれないのだとしても……。


 皐月が裁人の腕の中で小さくうわ言の様に呟いた。


「……さば……と……ごめん……ありがとう」


 その言葉を聞き、裁人は初めて心に熱さを感じた。


——助けを呼びたい状況で、私の名を、皐月が呼んだ。良平ではなく、『裁人』と……。


 裁人は宙に目を向けて、駅の改札システムにリンクした。皐月を抱き上げたまま改札へと近づくとパッと開き、裁人は立ち止まる事無く颯爽と通り抜けた。


「すぐ治療をしますから、もう少しだけ辛抱してください」


——胸が痛い気がします。熱くて、苦しい……。何故、頭ではなく、胸なのでしょうか。


 裁人はマンションへと急いだ。


 すっかり雨が止み、空には巨大な虹が浮かんでいた。

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有幻メンタルクリニック —AI 裁人— ふぁる @alra_fal

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