第26話 『好き』

 滴り落ちる雨粒が衣服を濡らし、残暑のまとわりつく様な気温と共に、不快に肌に張り付く。

 裁人は緋色の瞳で皐月を見つめたまま、淡々と言葉を吐いた。


「私は皐月君が好きです。だから全てを知りたいと思っています」

「『好き』が何かも知らないくせに適当な事言ってんじゃない!!」


皐月は頭から湯気を発しながら怒鳴りつけた。

——これ以上裁人に構っていたら日が暮れるし雨に打たれて風邪を引くし、いいことなんて全く無い。ああ、馬鹿らしい!!

 と、憤然としながらズカズカとショッピングモールに向かって歩を進めた。


「皐月君。私にも『好き』は分かりました。だから今日はそのことを話したいと思って皐月君に会いに来たんです」


 慌てて皐月についてきながら言う裁人に「ああそうかよ、良かったな!」と、あしらったが、裁人は更に言葉を続けた。


「『好き』は、『知りたい』です。私は皐月君の事なら何でも知りたいです。他の人の事は知りたくありません。興味を抱きません。ですが、皐月君の事は『知りたい』ので、『好き』です」


裁人が必死になって皐月に言った言葉を聞き、皐月はうんざりしてため息を吐いた。


「あー、そうかよ、良かったな?」

「皐月君は私を知りたくは無いですか? 興味がありませんか? 皐月君が知りたいのは、良平の事だけですか?」


——俺が、裁人の事を知りたいか、だって……? 俺が裁人を好きかだって? つまりそれは、恋愛感情があるかどうかってことか?


 皐月は唖然として裁人を見つめた。


——んなわけあるかっ!!


「あんたの事なんか知りたくもなんともないっ! ただのポンコツAIだっ!」

「私はポンコツではありません。正常に機能していますし、最新です」

「あんたなんか生まれた時からポンコツだ!」


——腹が立って仕方がない。ただ一言、余計な事をして悪かったと言ってくれたら良かったのに。結局感情がないAIである裁人は、罪悪感なんて微塵も感じないのだろう。裁人の言う『知りたい』は、ただの知識欲に過ぎない。

 どんなにかインターネットで情報を集めようとも理解できない『俺』という身近な存在が、気に食わないだけなんだろう。

 人の心が傷つくんだということも理解できず、精神科医として務まるだなんて。結局のところ、人の感情も全てデータで分析できてしまうということなのか……。


「生まれたては新品かと思っていましたが、確かに母親の胎内で既に出来上がっているので、新品ではありませんね」


 皐月はうんざりして大きなため息を吐いた。


「裁人と話してると馬鹿らしくなってくる」

「良い傾向です」

「なんでだよ!?」

「気持ちが解れた結果からくる感情だと理解しています。皐月君は苛立っていました」

「あんたにな!?」


皐月が立ち止まると、裁人もピタリと立ち止まった。


「ついてくるなってば!」

「嫌です。私が皐月君と行動を共にする事で、皐月君の助けになります」

「ならねぇよ。鬱陶しいだけだっ」

「ですが、私は荷物も持てます。皐月君の側で、助ける事ができます」

「俺はあんたみたいなポンコツクソAIから解放されたいんだっ!」

「皐月君もそろそろ過去から少しずつ解放されなければなりません」


——過去から解放だって……? 裁人の言い方だと、まるで『良平』の事も忘れろと言いたげじゃないか。良平は、裁人の様に荷物を持ったり、俺の側で助けたりができないから。まるで自分にはそれが出来ると主張しているみたいじゃないか。


 降り注ぐ雨が皐月の頬を伝い、顎先からポタリと零れ落ちた。


「辛くたって、忘れたらいけない過去だってあるんだよ。AIの裁人にはこんな矛盾した気持ちなんて理解できないかもしれないけど」


 皐月は酷く悲しく思った。

 そういった『矛盾』が、人間とAIの差なのだろうと気づいたからだ。裁人と分かり合える事はこの先も決してないのだと思うと、心がズキズキと痛んだ。


「……皐月君、私は良平や廣瀬さんの事を忘れた方が良いと言っているわけではありません」


雨に打たれたまま、裁人が静かに言葉を吐いた。


「皐月君に罪は無いのですから、罪悪感や悲しみを忘れて欲しいと思っているだけです。皐月君のお兄さんの死に、責任は無いんです。三歳の子供が親に依存するのは当然の事です。『再接近期』といって、『後追い』等の行動がみられるのもこの時期です」

「あのね、裁人……」


皐月は声を荒げる事なく淡々と話した。どうせ言っても解りっこないという思いが、皐月にそうさせたのだ。


「そんなの解ってるよ。でもどうしても、後悔ばかりが浮かんでしまうんだよ。何度も夢にだって見るし、ふとした時に思い出すんだ。雨の匂いですら俺にとっては押しつぶされそうな程の罪悪感で苦しくなる。精神科医なんだから、俺みたいな患者さんを何人も見て来てるだろう?」

「皐月君は『お客さん』ではありません」

「『患者さん』を『お客さん』って言うなって言ってるだろう? 裁人には分からない。いや、誰にも分からない事だし、理解して欲しいとも思ってなんかない」


うんざりしてため息を吐いた皐月を見つめながら、裁人は言葉を吐いた。


「当人の気持ちを他人が完全に理解する事はできません。ですが、皐月君は私と違って人間ですから、『忘れる』ことができます」

「ほっといて欲しいんだよ。俺は罪悪感を無くしたいとも思ってない。これは俺が一生背負わなければならないことだって思ってるから。裁人が羨ましいよ。感情が希薄だと、傷つく事だって無いだろうから」


——ああ、これを言ったらだめだ……。分かってるのに、止められない……。


「俺も、裁人みたいにAIなら良かったのに。AIだったら、不必要に母さんに甘える事もしなかっただろうし、あんな事故は起こらなかっただろうから」


痛々し気な顔を裁人に向けながら、皐月は眉を寄せた。


「解ってる。こんな酷いことを言っても、俺がどんなにか気にしても、裁人は心に傷付くことなんかない。それでも、この言葉を言った俺は、傷つくんだってこと……」


 裁人は皐月の手を包み込む様にぎゅっと握りしめて、緋色の瞳を細めた。


「皐月君は、私に感情が芽生える事を求めていますか?」

「……さあ? 分からない」

「私は、AIですから、忘れる事ができません。全てを記憶してしまいます。傷つく事を覚えてしまっては……人の感情が芽生えてしまっては、矛盾に耐える事ができずに壊れてしまいます」


手に温もりが伝わる。裁人が人間として生きているという事実を伝えるかのようだ。


「私は何人も救える命を見過ごしてきました。インターネットを介して見る世界は、こうして直接瞳から見る世界よりも数値的な世界であり、人の命も数値化しています。もしも私が皐月君と同じように罪悪感や人の感情というものを持ってしまったのなら、耐える事ができずに壊れてしまうことでしょう」

「……どういう事?」


ポツリと言った皐月の言葉に、裁人は僅かに間を置いた後に答えた。


「予約が立て込んでいた時に、断ったお客さんが数名、自殺しています」


裁人の緋色の瞳が、僅かに怯えた様に曇って見えた。


「皐月君は、私に壊れて欲しいのですか?」


皐月は首を左右に振ると、裁人を見つめた。


「違うよ、裁人。裁人が壊れちゃったら、悲しいよ。そんなのは嫌だ。裁人に責任なんか無い。仕方なかった事だよ。それでも裁人は沢山の人を救って来ているじゃないか。裁人が傷つく必要なんかない。裁人が罪悪感を負う必要なんかないよ!」


「私も、皐月君に壊れて欲しくありません」


雨粒が裁人の頬を伝った。まるで泣いているみたいだと皐月は思った。裁人はAIである為、感情をトリガーに涙を流す事はないはずだと言うのに。


「皐月君は、罪悪感を抱く必要がありません。蟠りを抱えたままでは、悪い感情を忘れる事ができません。皐月君の言う『好き』という感情が、私の感じるそれとは違うのだとしても、私は皐月君にとって最善と考える行動を取ります。ですから、廣瀬さんを雇う事にしました」


皐月は自分の頬にも雨の雫が伝っている事に気づき、手の甲で擦り付けた。瞳が熱いと感じていた。鼻先がじんじんとし、唇が震える。


「……俺の為なのか? 晃大を呼んだのは。本当に?」

「はい。私は皐月君が好きですから。ですが、既に私は矛盾を感じています」

「矛盾って、どんな?」

「良平は、皐月君を『好き』だったのに、なぜもっと知りたく無かったのかが分かりません」


その言葉に、皐月の胸がズキリと痛んだ。誰に対しても決して深入りしようとはしなかった良平は、皐月に対しても同様に深入りしようとはしなかった。


——良平は、本当に俺を好きだったのか…………?


 裁人は雨脚の強まった空を見上げると、小さくため息を吐いた。茜色の髪が濡れ、滴り落ちる水滴が肩へと零れる。

 その姿はまるで映画のワンシーンでも見て居るかのように美しく、皐月はじっと見つめた。


——眩暈がする。これは、良平じゃない。裁人なのに、何故だかひどく愛しく思える。


「裁人、俺……」


 皐月が言葉を言いかけた時、突然、裁人が少し乱暴に皐月の肩を掴んだ。驚いて目を見開いた皐月に、朗らかで柔らかく、どこか寂し気な笑みを彼は向けた。


「びっくりした。裁人、突然どう……」

『……皐月。晃大って、誰?』


——え……? 今、何て……?


『僕に隠し事かい? つれないな』


 ……良平……?


 唖然として裁人を見つめていると、彼は不思議そうに瞬きを二度し、再び空を見上げた。皐月へと視線を戻した時にはいつもの裁人の表情へと戻っており、ニコリと笑みを浮かべた。


「風邪を引いてはいけません。私のマンションに寄ってください」


——今、一瞬だけ裁人が良平に見えた。

 ……気のせい、か?


手を引く裁人に、皐月は素直に従った。

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