第25話 裁人

 濃いグレーのTシャツの上に薄手の白いシャツを羽織り、ライトブラウンの細身のパンツを穿いた出で立ちで、裁人は汚れ一つ無い手入れのされたスニーカーを履いた。

 午前九時。日課である早朝のランニングを終え、シャワーで汗を流した後だ。今日はクリニックの休診日である為、ゆっくりと家を出た。


 どんよりと空は曇っているものの、夏の終わりだというのに纏わりつく様な湿気と暑さで、裁人の背を早速汗が伝った。肌に張り付く衣服の不快感に、鞄からポケットタオルを取り出して首回りを拭いた。

 これから向かう先への道筋をふと思い浮かべた時、数値化されているデータ群がピックアップされ、降り注ぐように流れ込んで来る。


 十時半発新幹線、メンテナンス不備、雨雲、ブレーキオイル流出毎分。年配の女性。警告ランプ切れ。ひったくり事件多発。ドアロック解除、八時二十分。行先。最新炊飯器、検索。ナビ設定、到着予想時刻九時十五分。ブレーキオイル、残量。原付バイク、防犯カメラ映像、赤信号……。


 裁人の脳内で、点同士だったデータが接続されていく。


——汗、かきたくない……。今日は南西の風。


 ふと、裁人は大通りから小道の方へと脚を向けた。風が良く通る小道は心地よく感じた。脳内でルートがするすると組みあがっていく。

 小道から大通りへと出ると、信号待ちの車がいくつも並んでいる様子が見受けられた。裁人はその中の白いワンボックスカーの運転席側の窓を叩いた。運転手の男性が警戒しながら僅かにパワーウィンドウを下ろす。


「ブレーキオイルが漏れています。残量が少ないので、ブレーキが利きづらいはずです」


——計算では後十分でブレーキが利かなくなります。


 運転手の男性は不審そうに裁人を見つめた後、車の警告ランプに視線を向けた。


「ランプが切れています」


胡散臭そうな目で裁人を見つめると、ふわりと風に乗ってゴムが焼けるようなにおいが車内へと入り込んだ。


「この煙、貴方の車から出ています」

「え!!」

「では、私は用事がありますので」


裁人は満足気にニコリと微笑むと、男性に会釈をして踵を返した。

 ショッピングモールへと歩を進め屋内へと入ると、そのタイミングでザァっと雨が降り出した。


 カフェの前に立っている男性を見つけ、ゆっくりと瞳を閉じた。突然、男性の持つスマートフォンがアラーム音を発し、男性は慌ててスマートフォンを取り出した。

 そして驚愕の表情を浮かべて腕時計の時間と見比べ、急ぎ足で駅の方向へと向かって行き、裁人はその様子を、ため息を吐いて見送った。


——彼の腕時計は自動巻き式で、暫く使っていなかった為止まっていた。スマートフォンの正確な時間に気づいたので、これで新幹線の時間に間に合うはずです。


 ショッピングモールはまだ開店していない店舗が多く、食品売り場やカフェのみが開いている。

 ふと、小さな女の子が半べそをかき、落ち着かない素振りで周囲を見回しながら歩いている姿が目に留まり、裁人は『しまった』と思った。


——これは予定外。防犯カメラ映像確認、時刻再計算……。


 裁人は女の子の前でしゃがみこむと、「こんにちは」と笑顔で声を掛けた。女の子はハッとしたように身を退いて警戒した。


「知らない人としゃべったらダメってママに言われたの……」


裁人は頷くと、スッと遠くを指さした。オロオロとしながら周囲を見回す女性の姿があり、女の子は「ママ!!」と叫んで駆けて行った。

 その様子を見送ることもせず、裁人は急ぎ足で歩を進めた。人混みをスルスルと避けながら速度を落とすことなく進んで行き、ショッピングモールから伸びる遊歩道へと出た。

 雨はにわか雨だった為、すっかりと止んでいる。


——六秒遅れなので、数メートル程の差ですね。時短します。


 裁人は路上を歩く年配の女性へと駆け寄り、彼女の両肩をパッと掴んで声を掛けた。


「お久しぶりです。こんなところでお会いできるとは思いませんでした」


裁人が声を掛けたタイミングで、原付バイクがすぐ脇を走り、女性の鞄をひったくろうとした手が空振りした。

 遊歩道から道路へと逃げる様に合流し、走り去っていく。


女性は裁人を見上げて戸惑ったように小首を傾げた。


「あら、どこかでお会いしたかしら?」

「すみません、人違いをしてしまった様です。失礼しました」


裁人が愛想のいい笑顔を振りまくと、女性もつられたように笑顔になり、「いえ、大丈夫よ」と会釈をして去って行った。


——間に合って良かった。本当はあの女性に道案内をしつつひったくり犯を回避する予定でした。さて、後数メートル……。


「……裁人?」


 声を掛けられて、裁人は嬉しそうにへらへらと笑い、緋色の瞳を細めた。それに対し、声をかけた皐月は不快そうに顔を顰めた。


「皐月君、偶然ですね」

「偶然なワケあるか!! どうせ俺がここを通る事を予測して出かけたんだろうがっ!」

「はい。皐月君、デートしましょう」

「俺は用事があって出かけてるんだっ」

「知っています。炊飯器が壊れたのでしょう? 荷物持ちならします」


皐月は笑顔を向ける裁人に唖然とし、口をパクつかせた。


「あんたさぁ! 俺のプライバシーを守る為にフィルターかけられないのか!?」

「無理です」


サクリと言い切ると、裁人は手を差し伸べた。皐月はその手を無視して歩き出し、裁人は不服そうに唇を尖らせた。


「手を繋いでください」

「嫌だ」

「お勧めの機種はK社の『ほんわか炊き』です。A社の『もふもふ炊き』も良いですが、コストパフォーマンスを考えると『ほんわか炊き』ですね」

「……あっそ、参考にしとく」

「皐月君、そっけないです」

「俺はいつだってあんたにそっけない!」

「炊飯器が壊れて機嫌が悪いのですか? それとも私に怒っていますか?」


ピタリと脚を止めると、皐月はぎゅっと拳を握り締めて、裁人を見ずに言葉を放った。


「ああ、怒ってる。あんたにな」

「何故私に怒っているのですか?」

「どうして晃大を巻き込んだんだ?」


 裁人が不思議そうに小首を傾げると、さらりと茜色の髪が揺れた。


「皐月君、雨がもうすぐ降ってきます。雨宿りができる場所で話す事を推奨します」

「いいから答えろよ」


怒りが込められた声色で静かに言った皐月に、裁人はすらすらと答えた。


「廣瀬晃大さんは皐月君と気が合うので丁度いいと思って雇用しました」

「何が『丁度いい』の?」

「廣瀬晃大さんのノートパソコンの中に、皐月君の幼少期が映った写真が83枚保存されていました。家族ぐるみで仲が良かったようですね。職場でも良い関係が築けると思います」

「俺の過去を覗き見て楽しいか?」

「見ない様にはできません。皐月君と廣瀬さんは幼馴染という関係性です。ですが皐月君は良平に廣瀬さんの話をしたことがありませんでした。何故ですか?」


裁人の言葉に、皐月は心臓が締め付けられる様な思いを味わった。


「俺の生活に、記憶に、俺自身に浸食してくるなっ! 晃大は俺の兄、瑞樹と親友同士だったんだ!!」


皐月が怒鳴りつけると、裁人は緋色の瞳で皐月を見つめた。

 止んでいた雨がポツリポツリと降り始め、雨の匂いが皐月の鼻を擽った。


 雨の匂いと共に嫌な思い出が皐月の脳裏にまざまざと蘇る。


————ザアザア降りの雨の中、親子で傘を差して歩いていた。

 皐月はしがみ付く様に母の手を引っ張って、二人で一つの傘を差しており、その少し離れたところで兄が一人で黄色い傘を差していた。


こうちゃん!』


兄が嬉しそうに声を放ち、その瞬間車の急ブレーキの音が周囲を覆い尽くすかのように鳴り響いた。


 幼かった皐月の兄、瑞樹は、道路を挟んで向かいの歩道を両親と歩いていた晃大を見つけて駆け、道路へと飛び出したのだ。


 弾かれた兄の黄色い傘がポンと飛び、皐月の手を振り払って母親が悲鳴を上げた。


——皐月の人生が狂った瞬間だった……。


 兄の死により晃大達家族とは疎遠になり、皐月が大学に進学する頃に引っ越してしまった。


————ぎゅっと拳を握り締め、皐月は裁人を睨みつけた。


「良平に言ってない事の一つや二つあるよ。それは秘密にしていたんじゃない。言いたく無かったからだ!! あんたはそれを踏みにじったんだ。俺の心に、土足でずかずかと入ってきたんだよっ!!」

「皐月君。心には入れません」

「煩い!! あんたが知りたがってる事、話してやるから黙って聞けよっ!!」


降り始めた雨が次第に強まってきた。舗装された遊歩道が薄い灰色から鉛色へと変わり、裁人の茜色の髪の上に雨粒がばらまかれたガラス片の様に散らばった。

 緋色の瞳をじっと皐月に向け、裁人は何も言わずにその場に立っていた。AIである彼が、予測できる『雨に濡れてしまった結果起こり得る災難』よりも皐月の言動を優先し、従ったのだ。しかし、感情的になっている皐月は、そんな裁人の変化に気づかない程に苛立っていた。


「俺は小さい頃、母親に随分と甘える子供だった。二つ年上の兄貴はまだ五歳という母親が恋しい時なのに、俺が占有するかのように手を離さずに居たから、寂しくて堪らなかったんだと思う。それで、晃大の姿を見て、嬉しくなって道路に飛び出したんだ」


——もし、俺が母さんを占有しようだなんてしなかったら……? いいや、傷ついたのは俺以上に母さんだった。ちゃんと兄とも手を繋いでおけばよかったって、その激しい後悔が、母さんの精神を壊したんだ。


「俺は誰かに甘えたり、『依存』したりなんかできない。したくないんだよ!! 俺の大切な人は皆居なくなっちゃうから!! 俺のせいで誰かを傷つけてしまうから!! もうこれ以上、心に傷を負うのは耐えられないんだよ!!」


——良平だけが俺の全てを理解してくれていると思っていた。何も言わずに受け入れてくれる唯一の存在だった。


どうしていなくなっちゃったんだよ、良平!! 恋しくて、苦しくて、心が痛くて一人じゃ耐えられない!!


 裁人は緋色の瞳を細め、悲し気に皐月を見つめた。


「皐月君は今、良平を恋しく思っています」

「ああそうだよ!! 良平はあんたなんかよりずっと俺の気持ちを理解して、寄り添ってくれていたからなっ!」

「私は精神科医です。人の気持ちが分からないのは困ります」

「良平の方が裁人よりもずっと精神科医に向いてたって事だろうな!」

「……それは、自信を失う発言です」

「だったら、少しは胸が痛むって事が理解できたかよ!!」


 吐き捨てる様に言った皐月に、裁人は首を左右に振った。雨粒がぱらぱらと髪から零れ落ちる。


「いいえ。人は心臓ではなく脳で考えますので、心は脳にあります。つまり、『胸を痛める』とは正しい言葉ではありません。正しくは『頭を痛めるです』」


裁人が放った言葉を唖然として聞いた後、皐月は瞳を三角にした。


「それじゃあただの頭痛じゃねぇかこのクソAI!! やっぱりあんたなんか大っ嫌いだっ!!」

「私は皐月君が好きです」


皐月は顔を真っ赤にして怒りを露わにすると、裁人を睨みつけた。

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