エイの葬式
脱水カルボナーラ
エイの葬式
「いつまで、どこまで、運べばいいんだろうね」
音を立てて崩れそうなほど痛くなった自分の肩を揉みながら、前を歩く赤いコートを着た彼に尋ねた。別に必ずしも返答して欲しかったわけではないし、彼に尋ねても何か解決することは一つもないし、彼が納得してくれる答えをくれないとさえ思っていたのに。
「俺に聞かれても、わかんないよ。でも運ばなきゃ。みんなそうするんだから」
赤いコートの彼はちっとも疲れていないようだった。ベニヤ板のリアカーの取手を握る彼の手は岩みたいで、コートの袖から太い手首が覗いている。
少し前に知り合った彼は、いつも僕の前を歩いていた。同じ大きさのリアカーを引いて、同じものを運んでいるとは思えない。無限に続く砂の地面に足をとられることなく彼は進む。僕は彼の足跡とリアカーの轍を、教祖に縋る信者みたいになぞって追いかけるのだ。それは今日も同じで、彼は今僕の二メートルほど前を歩いている。車輪が廻る。
「そっか」
彼に問いかけたくせに、僕は雑な反応をして取手から手を離して立ち止まった。躙り寄る眩しい日差しが、何度も皮が剥けてまめの潰れたみすぼらしい僕の掌を照らしている。車輪はまだ廻る。
「何してんだよ」
車輪を停めた。その頃彼はもう登り坂が終わって、砂が少し盛り上がって小さな丘のようになっているところの上まで登っていた。彼は僕が遅いのに大分苛々しているようだ。
「もう、疲れたよ」
僕は振り返って、気の遠くなるほど前から引きずってきたブルーシートが敷いてあり、中に水を張っているリアカーの荷台の底で、じっとしている洗面器くらいの大きさのエイを見た。エイは言葉を話さない。あるいは、僕にはエイの声が聞こえない。もしかしたらエイは絶えずこちらに話しかけているのかもしれないが、人間の耳にそれが届くことはない。言葉を交わせなくても、日に日にエイの元気がなくなっていることだけは分かる。
もう登る気なんてないのに、惰性で脚を動かして丘の上に着いた。彼は何故か待っていてくれたが、僕が息を切らしながらリアカーを引いている間も、だるそうに肩を揉んでいた。
「お前のエイ、小さいし元気ないな」
彼の引いているリアカーの中にいるエイは本当に元気で、僕のエイよりもかなり大きく時折飛び出そうとして飛沫をあげるくらいだった。彼はそんなエイを常に誇らしく思っているようで、また大変可愛がってもいた。
「君のに比べたらね」
僕はそっぽを向いたまま答えた。
だいぶ昔に旅立った、あの深くやさしい緑色の樹海が砂の向こうに見える。全ての人はあそこから独り旅だって、リアカーを引きながら終わらない砂漠を歩いて行くのだ。端が見えない故郷は砂の大地の上に緑色の線を引いて、二重の地平線を描いている。
「お前、餌をやらないからだよ」
彼はそう言いながら、しゃがみこんで足元の砂をかき分けて何かを探している。
「あげても食べてくれないんだ。やんなっちゃうよ。いい餌は見つからないし」
「お前に食べさせる気がないからだよ」
彼は砂を掘り返して、その中に埋まっていた緑色がかった黒の表紙の本を引っ張り出した。
「ほら、簡単だろ。いい餌なんてその辺に埋まってるよ」
彼は少しだけ砂を払ってから、掘り出した本をリアカーの中に投げ込んだ。彼はいとも簡単にいい餌を掘り当てたが、本当に僕はいくら砂を掘っても、目を皿のようにして探してもあんないい餌を見つけられた試しがないのだ。彼は心からの善意で僕に餌の見つけ方を実践して見せているのだと分かるが、僕にはそれが非常に不愉快だった。
本が投げ込まれたリアカーの中でしぶきがあがって、彼のエイは本に齧り付くと瞬く間に本を食べきってしまった。
「僕のはそんな大きい餌、噛み切るのも無理だと思うな」
妬ましいのを隠しきれていない声で、投げやりに言った。
「いいから、お前も試しに掘ってみろよ」
彼はコートの裾を払うついでに僕の足元を指差した。渋々膝をついて砂に指を入れる。爪の間に粒が入り込んで痒い。何かないかと僕は懸命に、惨めに砂の中を模索する。
「何か、ある」
肘の手前まで砂にうずめて探していたら、滑らかな砂の中に固いものを見つけた。見失わないように左手で場所を確認しながら、右手を寄せて掴む。三秒ほど引っかかった後、堰を切ったように砂が弾けて、手が抜けた。
「ほら、砂のせいで重たかっただけだよ。僕にはいい餌なんて、掘り出せないんだ」
僕が手に掴んだのは、小さなひび割れたマグカップだった。砂に埋もれていたせいで重たかっただけで、今はこの手に持っているのかも曖昧なほど軽い。
「何回もやらないからだよ」
彼は当然のように言った。
「何回やってもダメなんだよ」
手に持っているのが嫌で、ごみを扱うみたいにマグカップをリアカーに投げ入れたが、僕の痩せ細ったエイは少し目をやることがあってもそれを食べることはなかった。
「じゃあ回数が足りないんだ。こんなの、こつを掴んだらいくらでも見つかるよ」
赤いコートを脱ぎ捨ててシャツの袖を捲ると、彼はその僕の腕を二つ束ねたくらいの太さの腕を、砂にまた突っ込んだ。
「お」
彼はすぐにまた何かを掘り当てた。
「見ろよ。大物」
僕には到底持ち上げることも出来ないであろう、直径一メートルくらいの、いかにも重たそうな鉄の車輪を、彼は砂から引き揚げた。
「ほら、食え」
さっきも大きな餌を与えたばかりなのに、彼は躊躇うこともなく車輪をリアカーに投げ込む。彼のエイは少し躊躇うように左に一回転してから、車輪をばりばりと齧り始めた。
「ちょっと分けてやろうか」
彼は自分のリアカーに手を突っ込んで、少し欠けてしまった車輪をこちらに見せた。
「ううん。いいよ、どうせ食べないよ。こいつ」
僕は自分のリアカーの濁った水面に反射する、ぼやけた自分の顔を眺めながらそう答えた。
「簡単に諦めてやるなよ。そのエイはお前が生かしてやらなきゃいけないんだから」
彼は僕に根っからの善意で、正しいことを諭してやっているつもりだし、実際彼が言う通りである。
「エイに生きる気がないんだから、無理だよ」
「違う。お前に生きる気がないんだろ。だから、そうやってすぐ諦める。俺たちはみんなこうしてきたし、お前もこうするしかないんだよ。エイが死ぬ時、お前も死ぬんだ」
彼は見透かしたように言いながら、僕の汚いリアカーを見た。首から上に巡った血管の形が全部はっきりとわかるように、僕の血が沸き立つのを感じる。
どうしても僕は、真っ当に生きている彼を、受け入れられなかった。
「なんでエイの世話なんかしなくちゃいけないんだ。こいつを運ばなくちゃいけないんだ。いつまで、どこまでリアカーを引っ張ればいいんだ。この砂漠はどこで終わるんだ」
意味を求めても無駄なのは分かっている。彼にはいっそ侮蔑して欲しかったが、彼はむしろ怪我をして今にも死にかけている兎を哀れんでいるかのような目で僕を見つめた。
「お前が人に生まれた以上、人として生きる以上は、人として砂漠を進んで、エイを育てて、リアカーの車輪を転がさなきゃならないんだ。俺もお前も、他のみんなもぼろぼろになりながら、砂に足を取られながら、進んでいくんだ」
彼のエイはいつの間にか車輪を平らげていて、前よりも大きくなったように見えた。
「進みたくない」
彼の言っていることは、全て正しく、この世の理をこれ以上にないほど分かりやすく語っている。だから、僕は弱々しい駄々をこねる事しか出来ない。
「もういいから、行くぞ。休憩しすぎた」
彼は諦めたように赤いコートをはおりなおすと、僕の顔も見ることなくリアカーを引き出した。
彼に置いていかれたら、本当に独りになってしまう。彼は僕なんかいなくなったところで、一切心が動くことはないのに、着いていこうと急ぐ自分が惨めで、癪だ。リアカーの取手を握る時、自分の擦り切れた靴が見えて涙が溢れそうになった。
彼の赤い背中を追いかけてしばらく歩いていると、リアカーの車輪が突然、軋み始めた。軸のところが錆びついたのか、少し動くたびに嫌な音がして車輪の動きがつっかえる。僕のエイはずっと餌を食べていないままで、更に元気が無く見える。
「リアカー、もう、駄目かもしれない。エイもこのままじゃ死んでしまう」
彼に許しを乞うように、僕は足を止めて前方へ大声で言った。
「直せばいいだろ」
彼は僕にため息をつくのも飽き飽きしていて、丸い鼻を小さく動かすのみだった。
「出来ないよ。やり方がわからない」
「森にいた時、教わったじゃないか」
彼は遥か後ろに見える緑の地平線を指差した。
「教わった時も、一回も上手く出来なかったんだ」
「なんで出来るようにしておかないんだ。俺は、手伝わないからな」
彼は僕を突き放した。自分はいつも正しく生きている、というような顔をしているくせに、こんな酷いことをする彼が憎くて仕方ない。
「なんだってそうだよ。何しようったってみんなの何倍も時間がかかるんだ。やっぱり僕が生きてることの方が間違ってるんだよ」
彼の言っていることが正しいなら、僕の言っていることは間違いではなかった。
「そうさ間違いだよ」
彼は一息もつかずそう言って、もう進み始めていた。
「なんだよ。正しく生きてるくせに、僕のこと、助けないのか」
恥ずかしい。僕は今この砂漠にいる何よりも恥ずかしい。
「いっぱい助けただろ」
彼の言葉に、僕は絶句した。
「もういい、俺は行く。リアカーが壊れてエイが死んだら、その辺に埋めてやればいいさ」
「リアカーが壊れてエイが死んだら、僕はどうすればいい。どうすればいいんだよ」
彼が今日の天気を晴れだと言った時に「いや、今日は曇っている」とわざわざ主張するのと変わらないくらい、空虚な反抗だった。
「知らないよ。エイが死んだ人なんて、見たことないし聞いたこともない」
彼は諦めたように足を早めて砂の上を進んでいく。彼の声はどんどん遠くなっていく。
「僕、森に帰るよ。帰る」
震える唇を動かしながら俯いて、僕はまた擦り切れた靴を見つめた。
「最後に言っといてやるよ。俺もお前も、もう戻れないんだよ」
彼は僕を置いて行った。彼が去り際に、立ち尽くしている僕を見たのか、目もくれずに行ってしまったのか、全く思い出せない。
彼はもう見えなくなった。きっともうだいぶ先まで行ってしまったのだろう。正しく生きている彼のエイは、きっとこれからも全てを喰らって、丸々と太っていくに違いない。僕は結局リアカーを直すこともできず、エイの具合を治すことも出来ないまま、砂の上に座り込んでいた。
しばらくそうやっていると、後ろから獣の唸るような音が聞こえてきた。音が徐々に近づいてきているのが分かる。やがて森の方角から、砂煙をあげながら、黒い岩みたいな四輪駆動の車が近づいて来るのが見えた。
車を運転していた人は、僕に目もくれずに横を走り去ったので、中にどんな人が乗っていたのか僕は見ることは出来なかった。
「いいな」
思わず声を漏らした。ごく稀に、車でエイを運んでいる人を見かけることがある。彼らはリアカーを引いてどこまでも歩き続けることの辛さを知らない。車に乗ることを許される人々は、森の中でも特別で、僕が森にいた頃に車に乗って出て行ったあの人も、確かにみんなに愛されていた。あの人も僕が森を発つその日まで、帰って来ることはなかった。
座ったまま、車が僕を尻目に進んでいくのを眺めていた。車は僕たちがそうするのと同じように、森から反対の、砂漠の彼方の方角を向いている。
「あ」
突然車が横転した。速度を出しすぎてしまったのだろうか。塵が風に遊ばれるみたいに何回か転がって、その後は仰向けになって死んだ虫のように、砂の地面の上で動かなくなった。
何時間か歩いて、ようやく僕は横転した車がある場所にまでやってきた。砂とゴムの焦げた臭いがする。箱型の車は頼りなくひしゃげていて、左の前輪は取れてしまって向こうの方に転がっていたし、車体とか部品の黒い欠片と漏れ出した燃料が、血飛沫みたいにそこらに飛び散っていた。振り返って車の残した轍を見ると、ここで止まる前に随分乱れた形跡がある。轍が突然大きく乱れた所に、まるで最初からこの車を壊すために存在しているかのように、白く尖った大きな岩の頭が顔を出していた。
リアカーを置いて恐る恐るしゃがみ込んで、割れた窓から逆さの車の中を見たが、中は潰れていてよく見えず、ハンドルの近くに血に塗れている腕らしきものがだらりと覗いていた。
「大丈夫、ですか」
僕はこの時、もう結果が分かっていても車の主に話しかけなければいけないような気がした。返事はない。彼が荷台に載せていたであろう彼のエイも、この様子ではきっと助かっていない。あんなくだらない岩なんかのせいで、車に乗れるほどに特別だった彼は、彼のエイと死んでしまったのだ。
ふと自分のエイが心配になってリアカーの方へ戻った。エイは相変わらず辛うじて生きていることを知らせるようにひれを小刻みに動かすのみだ。気が付けば僕は、拾った車の骸をリアカーに放り込んでいた。白く濁った水の中に黒い塊が落ちていく。エイはしばらく底に落ちたそれを見ていたが、しばらく放っておくとおもむろにそれを齧りはじめた。僕のエイは、まだ弱々しく生きているのだ。
じきに、冷たい夜が砂漠を覆った。リアカーの陰に隠れて、砂の上に寝転んで目を閉じる。星を数えるのは飽きたし、考え事もしたくない。こうして目を閉じている間だけでも、心が無くなればいいのにといつも思うのだ。
眩しくて、目が醒める。僕はベッドから足だけを下ろして、しばらく脈が落ち着くのを待った。奇妙な夢を見た後はいつも、疲れと安堵で重たい頭痛がする。夢の中のエイは、今どうしているのだろう。僕は、エイを然るべき場所まで連れて行ってやれたのだろうか。それともあの砂漠には、然るべき場所なんてないのかもしれない。手に掬った水のように、頭の中から夢の記憶とあの世界の実感が頭から抜け落ちていく。起きてから一分と待たないうちに、僕は砂漠の夢を断片的にしか思い出せなくなっていた。
ベッドから出ると、まだ整理しきっていない写真が机の上に散らばっていた。祖父の葬式から一週間経つ。僕が生まれて十八年と四ヶ月と三日の間、そばにいない時も僕の生きている世界に確かに存在していた祖父。あまり多く会えなかったけど、僕は祖父が好きだった。
祖母は気丈に、祖父の葬儀をした。葬式のために久々に訪れた僕にはこっそりお小遣いをくれたし、家ではいつものようにカレーを作ってくれた。このくらいの歳になると、元気な祖父母が一人いるだけでも十分に幸福なことだと思う。
「おじいちゃんしからっきょう食べないのに、買ってきちゃったのよ」
あの日も祖母は笑いながらそう言って、祖父の分のカレーは盛り付けなかったのに、らっきょうの瓶だけは食卓の上に置いたのだ。
祖父と僕が写っている写真を見た。祖父は僕たちを写真に撮りたがったが、自分はあまり写ることをしない人だったので、祖父が写っている写真は珍しい。五年前に水族館に行った時の写真を見た。大きな水槽の前で僕と、祖父が並んで立っている。
「あ」
祖父と僕の頭上に、種類も大きさも違う二匹のエイが泳いでいるのが写っていたので、僕は思わず声を漏らした。
さっき見た夢のことを思い出す。この頃にはもう、あの夢で見たものの姿をはっきりと思い出すことは出来なかったが、この写真に写っている、僕の頭の上で泳いでいる方のエイは僕がリアカーで運んでいたやつにそっくりであるような気がした。
いてもたってもいられなくなって、空っぽの黄色いお菓子の缶を押し入れから引っ張り出すと、机に散らばっていた写真を全部流し入れた。
それから僕は祖父からの年賀状を、会うことのない友人たちとの写真を、もう鏡の前に現れることのない幼い頃の自分を、二度とあの頃の気持ちで手に取ることのない玩具を、そうやって全てを埋葬するみたいに、缶が一杯になるまで詰めて、最後にエイと祖父の移ったあの写真を入れた。
この棺をどこにしまったのかを忘れる日が、あるいはこの棺の存在自体を忘れ去ってしまう日がいつか来るのかもしれないが、僕は今日、この尊いものたちを弔ったのだ。
電車がやって来る振動で、窓が揺れる。外に車輪が見える。たくさんの人が乗っている。車輪は廻る。どこかの海で、エイが跳ねた。
エイの葬式 脱水カルボナーラ @drycalbo
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