エピローグ
第26話 春に花咲く彼等の季節
かしゃん、と最後の食器を洗い終えてかごに立てると、すぐそばで待ち受けていた手がそれをかっさらっていった。
こじんまりした会議室でも、集まって食事をすれば洗い物は相当の量になる。ランチミーティングの後片付けは、本来ならば下っ端の仕事だ。
「手伝っていただいて、ありがとうございました。なんか、もも先輩にはいつも一緒に片付けやってもらっちゃって申し訳ないです……」
そう言って本当に申し訳なさそうな表情をしているのは、白いコックコートに黄色いカレーの汚れが眩しいポニーテールの少女である。彼女は今年入社の新人だ。
研修期間で桃花が直属の上司としてついた時、素直に一生懸命学ぼうとしている姿は好感が持てた。趣味が共通していた事もあり、以来彼女とは公私問わず仲良くしている。
フレッシュで緊張している彼女達を見ていると、桃花も初めてアルバイトをしたあの場所のことを思い出す。懐かしさに思いを馳せながら、桃花は大きく伸びをした。
「こういう仕事で時々は思い出したいの、高卒時代の自分を、ね」
「もも先輩の原点だっていう、バイト時代のことですか?」
「そうそう」
六年経った今でも、鮮明に思い出せる。
緩やかな坂を下ったところにある、焦げ茶の木枠にはめ込まれたガラスの扉。薄茶の壁、可憐に咲いた小さな鉢植え。
中に入れば紅茶とコーヒーの香りが立ち込める。穏やかな春の日を思わせる落ち着いた空間。そこで静かに時を刻む、物静かなマスターと明るい彼、頼れる彼女。
「でも、なんにも出来ないもも先輩って想像つきません」
後輩は指折り数えながら言った。
「栄養士と調理師の資格があって、紅茶の民間資格も野菜の専門資格も取ってて、おまけに料理は上手だし手は早いし段取りいいし、後輩の面倒見も良ければミスも一緒にかぶってくれるウルトラ優しい先輩で、しかも可愛いし、なんで彼氏がいないのかぜんっぜんわかんないし」
最後のは明らかに関係ない。
「全部ハルコにいる三年間で身につけたんだってば。言っとくけど、今の悠里ちゃんと同い年の私はあなたの何十倍も不器用で気が利かなくて性悪だったからね?」
「またまたそんなご謙遜を。信じませんよ」
本当なんだけどな。
「そんなに疑うなら、いいよ。ハルコで一緒に働いてた人に聞いてみる? 私がどんなだったか」
「え、聞けるんですか?」
悠里の目がぱっと輝いた。
「聞きたい聞きたい。何なら今すぐいきたいです」
「反面教師にしかならないけど、それでも良ければ。今日の仕事が終わったらチーフに休みが取れるか聞いてみるね」
やったあ、と飛び跳ねる彼女の方が、数十倍可愛い。
そんなことを思いながら、桃花は小さな会議室をあとにして次の職場へと向かったのだった。
# # #
二年制の専門学校を卒業した桃花は、期せずして父の経営するホテルグループの系列に位置するカフェへ就職した。
わざとでもコネでもない。偶然とは時々恐ろしい。
本当はハルコにずっと居たかったが、バイトは学校を卒業するまでと決めていた。
将弥と瑠衣が結婚し、マスターが引退し、新たにバイトの人が二人増えて、桃花の居場所はハルコではなくなった。大好きな気持ちに変わりはない。ただ、巣立つ時が来たのだと直感的に悟っただけだ。
二人とも家族同然に過ごしてきた桃花を引き止めてはくれたが、最後は背中を押して送り出してくれた。いつでも帰っておいで、と微笑んで。
敦たちは相変わらず仲良く雑貨屋を営んでいるらしい。そろそろ二人とも結婚してくれないかと実家の方からは悲鳴が上がっているようだが、お構い無しの兄妹である。正反対のようで、彼らは意外と良く似ている。
暇さえあればどちらへも顔を出していた桃花だったが、ここ最近は新規店舗のオープン準備で忙しく休みがなかなか取れなかった。ようやく落ち着いてきたので、このへんで一日、いや半休でもいい、取っても怒られはしないだろう。
チーフに半休の件を告げるとあっさり「全休でいいじゃない」とオーケーが出た。悠里を連れていくと話すと「いい勉強になると思うわ。楽しんできてね」とむしろ推奨された。
更衣室に戻る。悠里に許可の旨を告げるとケータイからぱっと顔をあげて嬉しそうに笑った。
「じゃあ、次の土曜に桃華公園前駅に集合ね」
懐かしい人に会いに行く。桃花の胸は高鳴った。
当日はよく晴れたいい天気だった。
「へえ、ここが……雰囲気のいいお店ですね」
「でしょ。ケーキも美味しいよ。何にする?」
メニューはほとんど変わっていなかった。紅茶とケーキを頼んで待つ。まだ緊張した面持ちのバイトの子がオーダーを通しにいった。
「あの方が、マスターですか?」
「あの人は二代目。彼のおじいさんがいたんだけど、その方は今は引退されたの。もう一人、私のことをよく知ってるお姉さんがいるんだけど……その人は今は、休憩中みたいだね」
一応来店する旨は伝えてあり、先程挨拶だけはしたが中はとても忙しそうで到底将弥とは話せそうにない。また日を改めることにして、今日は食べ物を堪能した方が良さそうだ。
「ところでもも先輩」
キリッ、とした表情で悠里が口調を改めた。
「仕事とは全く関係ないお話をしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう?」
悠里がこの喋り方になった時の話題はひとつしかない。
彼女は隠すことのない重度なオタクで、好きなマンガのイベント事には必ずと言っていい確率で足を運ぶような人なのだ。
ちなみに彼女と意気投合したきっかけは、数年前完結した「キミうた」だった。ちょっとどこかの誰かさんを彷彿とさせる。
彼とはもう何年も連絡を取っていない。最初こそメールをいくつかやり取りしたけれど、やはり忙しくてお互いにしなくなってしまった。
今ならあれは淡い初恋だったと思える。
だが、当時の自分にそれを楽しんでいる余裕やわくわくはなかった。
どきどきは――少ししたけど。
ぼうっと思い返していると、悠里に勢いよくケータイの画面を見せられて思わずのけぞった。小声でまくし立てられる。
「私の今イチオシの漫画家、ハル先生が今度、初のサイン会やるみたいなんです!」
その言葉で、桃花の動きはフリーズした。
「しかも先生の普段の活動拠点の方じゃなくて、こっちに来るみたいなんですよ!」
これは行くしか、とめらめら燃えている悠里とは全く別のところに、桃花の意識はあった。
「ハル先生って、ウェブ漫画から人気に火がついた今話題の新人漫画家なんですよ知ってますか? この人の描くマンガって絵が綺麗ですごく描写が細かいから好きなんですよね、手抜きがないっていうかそれで今月刊誌で連載中のグルメマンガ『天気予報は今日も雨』の中のヒロインちゃんがツンデレでめちゃめちゃ可愛くて本当に超可愛くて彼女にしたいランキング堂々のナンバーワンで……もも先輩?」
怒涛の勢いでまくし立てる悠里の話など、桃花の耳には既に聞いてはいなかった。
作者 秋名 ハル
その顔写真は、紛れもなく。
ちりん、と涼やかな音がして、ハルコへと来客を告げた。
「こんにち……は」
ハルコのスタッフの誰かに、客人は声をかけようとして。
桃花と目が合って、固まった。
嘘だ。
こんなところで、そんな偶然があるわけない。
「もも、さん」
だがその口は、確かに桃花の名を読んだ。『ももさん』と呼ぶのは後にも先にも彼一人だけ。
止まった心臓も動き出せない。視線が絡まって、静かに時間だけが過ぎていく。
「アキくん……?」
ふわっと花が広がったように、六年前と全く変わらない笑顔で、彼が微笑んだ。
「凄い。奇跡。偶然。ヤバイ」
顔を真っ赤にして。口元を少し隠して。
時計が巻き戻ったみたいだ。なんだってこんなに、どきどきするのだろう。
「ももさん」
あの時と同じ声がもう一度自分の名を呼んだ。
「約束、果たしに来ましたよ」
Fin.
春を待つ人 〜カフェ・ハルコと夢さがしのティータイム〜 楠木千歳 @ahonoko237
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