九十八話『今更』
ウォルコット・ファミリーが健在だったころは、
そんな最下層を人目を避けるようにして細い道とも言えない場所を進むアリスとナガレ。
「どうしてオレを護衛に選んだんだ? ネージュにでも頼む気はなかったのか?」
「ネージュさんは確かに頼りになりますが、あまりに目立ちますし、
「そこまで考えてたか。なら良い」
今回の一番の目的は旧ウォルコット邸を訪ねることだが、アリスが
これまで屋敷の中に居た彼女が、自分の眼で初めて見る、自身を取り囲んでいた世界は想像よりも暴力と喧騒に満ちていた。ここに来るまでいくつもの怒号と銃声を耳にして、血の匂いを嗅いで、胸が張り裂けそうになった。
「姐さんからどこまで話を聞いたか知らないが、あの人、お前に結構期待してるんだ。だから、わざわざオレをつけてまで
と、ナガレは言うが、アリスには実感が湧かない。たとえ、名のある親の子であっても、自分は何も知らない箱入り娘でしかない、と認識している。
「私の名前に今やそこまで価値があるものでしょうか? お父様も、アーノルドも、皆いなくなって、私に応える者はもういないというのに」
「どうだかな。ウォルコットの名を知らないヤツは
初めて聞く父の功績。いつも穏やかに笑っていて、わがままを言えば泣き笑いで困った顔をする人だとしか思っていなかった。なんだか、線の細くて頼りなくて、でもそんな父の温かい胸に抱かれていると安心したのを覚えている。
けれど、アリスの知る父の姿は、父親として娘に見せる一面でしかない。多くの人が知る、ウォルコット・ファミリーのボスとしての姿はむしろ知らないのだ。
「アリス。それに家ってのは捨てようと思って捨てられるものでもない、良くも悪くも。どこに言っても付いてくる」
ナガレは肩をすくめる。随分と実感のこもった言葉だ。
「あなたが名字を名乗らないのも、そういう理由なんですか?」
遊郭でナガレの名字は聞いたことが無い、というよりむしろ、彼の名字は知られていないようだった。何故隠すのか、疑問に思っていたことにナガレ本人の口ぶりからヒントが得られた、そんな気がしてアリスは疑問を口にする。
「やはり姐さんが見込んだだけはある、鋭いな。ああ、そうだ。オレもお前と同じ、面倒な家の生まれで、聞いたことは無いだろうが……『京獄』って極道の生き残りだ」
かつて東京の裏社会を牛耳っていた京獄家。その末路は、東京にあった多くの名家と同じで白い焔に飲まれての消滅。
「その時、オレはガキだったけどな、ウチの連中が理想家の馬鹿だったってのは分かる。堅気や傘下を助けるとか、それで死んだら世話ねぇだろうが」
親であることよりも極道であることを選んだ父、そんな父と最期を共にする決断を下した母。かつては思う所があったが、今は割り切ってしまった。
「昔の話で鮮明に思い出せるなんてことは無い。ここに流れ着いてから、生きるために恐喝、強盗、殺人、手段を選ばず何でもやった。今思えば、それもオレが強かったから上手くいっただけで、運が良かったって話かもしれないが……そんな地獄行きのクズでも、親父やお袋の血がオレには確かに流れてるし、二人を見て育ったオレも理想家の馬鹿の一人だった……だから、姐さんに付いて行くことを決めたんだが」
京獄ナガレ、彼もまた自身が生まれついた家が人生について回る一人なのだろう。それは故郷と家族を失っても変わらない。
「色々言ったが、家ってのは簡単に降ろせる荷物じゃない。もし、降ろそうとすれば、故郷も家族も記憶も、何もかもを無くさなくてはダメ。だが、同時に家ってものに付いてきたモノも簡単になくなりはしない。その家が代々継いできたものすべて、な。だから、お前が背負うウォルコットという名の価値もそう簡単に消えやしない。それはお前が本当にやりたいことが出来た時に力を与えてくれるはずだ。せっかく配られたカードなんだ、持っといた方が良い」
分かったような、分からないようなあいまいな表情を浮かべるアリス。ナガレの言葉の意味は理解できるが、実感は難しい。聡明であっても、彼女はまだ子供なのだから。
「難しいですね」
「だろうな。オレだってすぐに理解しろとは言わねぇ。が、お前には時間がないのも事実だからな」
緊張感を増すマフィアと
遊郭を出てから四時間ほど。もう地上は朝になっているだろうか。歩き疲れたアリスのゆく手をナガレが遮った。
「どうしたんですか?」
「あまり見ない方が良い、仏さんだ」
「——っ!」
死体を見た経験などアリスにはない。ネージュに背負われていた時のことも、意識が
「運んでやるから目をつむれ」
「待ってください」
抱きかかえようとしたナガレを制して、アリスは前へと進む。その目でしっかりと赤黒い染みの中心に横たわる死体を目に焼き付けるように。
小汚い服を着た中年の女性。見開かれた目は虚無が広がっていて不気味だった。
この女が殺された理由なんてアリスには分からない。たぶん、考えても納得のいく答えは出ない。
一つ確かなことがあるとすれば、ここは一本道で、屋敷にたどり着くためにはこの死体を乗り越えていかなければならないこと。
「ごめんなさい」
短く、出来る限りの誠実さを込めた謝罪と共に、死体を乗り越える。そして、暴れまわる心臓と共に歩いて、歩いて、歩いて。
「ただいま、みんな」
高い塀も、立派だった建物も、全てが壊れ、真っ黒く焼け落ちた我が家の門を少女は潜る。
失った思い出が頭の中を鮮明に駆け巡る。誰が自分にどんなことをしてくれたか、どんな言葉を掛けてくれたか。何気なかった日々がこんなにも価値あるものだなんてアリスは知らなかった。
「お嬢様、旦那様には内緒ですよ」
年若いスーツの青年がそう言ってくれたのを覚えている。彼はいつも優し気でスーツに着られている印象が強かった。
アリスを見ていると妹を思い出す、なんて言っていつも大雑把な甘みのお菓子をくれたのを覚えている。今思えば、彼の妹はもう亡くなっていて、アリスに面影を重ねていたのだろう。
「遊ぶのはお勉強の後です、お嬢様」
アリスの面倒を見てくれたメイドの声が聞こえた。いつも口うるさくて、少し苦手だったけれど、彼女はアリスのことを思って言ってくれていたのだ。厳しくて優しい人だった。だから、アリスをかばって死んだ。
勉強が出来たことも、塀を隔てた向こう側では学校にすらいけない子供の溢れる
「ご安心ください、私が傍におります」
アーノルドが怖くて眠れない日にはいつも隣にいてくれた。アリスが笑えば彼も笑い、アリスが落ち込んでいる時は慌てながら慰めてくれた。一度だけ、わがままを言って彼の剣技を見せてもらった時は、そのあまりの美しさに物語の英雄じゃないかと思ったり。語りつくせないほどの思い出があって。
「すまないね、アリス。お父さんは大事な仕事があるんだ。お父さんだってアリスと一緒に居たい。けど、これはアリスの未来のために必要なことだから、ごめん、分かってほしいんだ」
今更になって父の言葉の重みを理解する。暴力と欲望が生み出す不幸の連鎖に立ち向かおうとしていた立派な人だった。
今更の連続、もう手が届かなくなってから、優しい世界からはじき出されてから、自分がどれだけ幸せだったのかを実感する。
「お別れは済ませたか?」
「ごめんなさい、ナガレさん。もう少しだけ、もう少しだけでいいんです。ここに居させてください」
屋敷の奥へと歩き出すアリス。ナガレは何も言わずに付いてきてくれた。
「あれは……っ!」
瓦礫の山に突き刺さっていた一本の剣に目を奪われる。燃え尽きた屋敷と同じで、煤を被って真っ黒に染まった剣。しかし、アリスが間違えるわけがない。
「——『ディストート・ローズ』」
アーノルドの愛剣は、まるで彼の墓標のように見えた。
「持って帰らないと」
手が汚れるのも気にせず、柄に手を掛け、渾身の力で剣を引き抜く。せめて、形見だけでも持って帰りたかった。
「危ない!」
剣が抜けた瞬間、ナガレがアリスを抱えて地面を転がると同時に、紫の爆炎が起こり辺りが吹き飛ぶ。
「ブービートラップとはな……」
燃え残っていた瓦礫に紫炎が燃え移り、薄暗がりが怪しく輝く。そこにいたのは焼け付いた血の匂いを漂わせる女と十人のマフィアたち。
「あら? 原型が残るように威力押さえてたとはいえ、無傷なんてね。次はもっといいモノあげる」
立ち上がったナガレは、アリスを後ろに庇いながら抜刀と召喚。二体の巨犬が敵へと唸り声をあげる。
「その犬、可愛いけど初対面の相手に吠えるなんて
「生憎だが阿吽は邪なモノに敵対的でな」
ナガレの返答に
「なら、良い鼻してるわ」
弓剣から放たれた矢が空を斬り、爆ぜる爆弾が空を割る。
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