九十七話『同じ傷痕』
(落ち着け、俺。平常心だッ!)
意識が戻って三日が経つ。このところ仁は
(別のことを考えろ。これからどうする。俺やネージュを
仁としては恩を仇で返すつもりはないし、
(武器のメンテナンスもしないと……あとはあの二人組の対策と……考えることが多いけど、何か考えてる方が楽だしな)
孤児院時代から今に至るまで、異端審問官になるためだったり、ネージュを助けるためだったり、常に行動し続けてきたせいで、何かしていないと不安になるのだ。体を覆う鈍い痛みで無理が出来る状態ではないと分かっているのだが。
「悩みが尽きない、そんな顔をしていらっしゃいますね」
「——ッ。まぁ、そんなところです」
気が付けば、仁の隣に座っていた
ここ三日間の仁から見た
「ここからどうするかを考えると、難しいことが多いので」
「生真面目ですね、仁さんは。私もあまり長く生きた訳ではありませんが、考えても人生には想定外が容易に起こりえるモノです。もちろん、考えなしというのも困りますが、悩みすぎもまた良い結果をもたらしませんよ」
「想定外、ですか」
「私も当然、望んでこんな場所に流れ着いたわけではない。運命のいたずらで、です。それでも精一杯自分に出来ることをして私は今、この遊郭を取り仕切る立場に立っています。重要なのはいかなる時でも、自らに出来ることを続けること。つまり、足掻くことではないでしょうか?」
「良いですね、足掻く。俺もその言葉は嫌いじゃない」
仁も
(年齢は二十代半ば。遊郭の経営を回せるだけの知識と学がある。所作も品があるし。やっぱり
恐らく
「
「あら、ありがとう」
運ばれてきたのは高級料亭出てきそうな料理……ではない。仁も見慣れた家庭料理である。遊郭という非日常のような空間で、ありきたりな料理を見ると不思議な感覚に襲われてしまう。
「それではいただきましょうか。仁さん、口を開けてください」
「何度も言いますけど自分で食べられますから」
初めは恥ずかしくて顔を赤くしながら断っていた仁だが、何度か同じやり取りを繰り返せば流石に慣れる。
「あの、聞きたいんですけど。何でそこまで俺の面倒を見ようとするんです?」
「それを私の口から言わせるおつもりですか?」
「聞かない方が良いことでしたか?」
「いえ、むしろ聞いてもらえて嬉しいくらいです。でも、答えてはあげません」
「は、はぁ。なるほど?」
はぐらかすような
「そういえば、料理は
「私がここの主になるまでは噂の通りですよ。変わったのは五年前のことです」
「理由を聞いても?」
「単純に外に仕事を頼めば出費が
裏を返せば、支出を押さえれば、仕事の数を減らすことが出来る。それは身売りも例外ではない。
「仁さんはこの遊郭をどう思いますか?」
穏やかな春の河原に座って、桜を眺めているような何気ない口調で呟く
仁がここに居たのは三日、それも知るのは部屋の中にかすかに聞こえる音だけ。
「……分かりません。でも、良い場所とはお世辞にも言えないはずです」
「……私も分からないのですよ。ここで受けたことは紛れもない暴力で、何度も自分を否定されてきたのも事実。苦楽を共にした友人もここから出ることは出来ず、私も結局ここに骨を埋めることになるのでしょう。ここはずっとずっと私を縛り付けて離さない忌まわしい場所……けれど、家族も故郷も失って、野たれ死ぬしかなかった私がこうして今も生きているのもこの場所のおかげ。溢れんばかりの憎悪の中に、ほんの一滴だけ恩義を感じる……滑稽ですか?」
仁の眼には穏やかに見えた
仁には彼女が何を求めているのか分からない。何故、出会って間もない少年にこんなことを話すのか。
「答えては下さらないのですね。優しいけれど卑怯……でも、構いません」
仁の背中に手を回し、抱き着く
「貴方も私と同じ思いを抱えているのでしょう? 一目見た時から分かりました」
脳裏によぎるのは、白い焔に包まれた瓦礫の山と
確かに、仁があの日の東京に抱える思いは、
「貴方は私にこの思いの答えを与えはしない。それは私も同じです」
声を聞くたびに、脳の奥が痺れる感覚がして、理性がとろけていく。まるで深い眠りに落ちていくような心地よさで全身の力が抜けた。
「そう、私に身を委ねてください。私たちは答えを与えることは出来ずとも、その葛藤を理解できるはずです。そして、同じ苦しみを抱える者同士、慰め合うことは出来ましょう」
帯に手を掛ける
「仁、何か欲しいものは……はぁ?!」
二人分のソフトクリームを左手に持ったネージュが、インモラルな雰囲気漂う部屋にエントリー。まとわりつくような熱を帯びていた空気が、一気に氷点下まで急降下する。
「仁、説明して。私は今、冷静さを欠こうとしてるから」
右手に力がこもると同時に扉が軋む音がする。ネージュの手によって砕け散る日も近そうだ。
「えっと……申し開きのしようもございません」
「あっそ。まぁ、良いけど。仁だって男の子だし。そもそも、私があれこれ口を出すのもおかしいし」
「……ネージュさん、怒ってらっしゃいますか?」
「怒ってないけど? 言ったでしょ、私が口を出すのはおかしいって。仁のことは仁が好きにすれば? それより気に食わないのは、そこの猫女よ」
(やっぱり怒ってるじゃん……)
ネージュのことは気にも留めずに、帯を締め直す
「仁はケガしてるの。なのに、そんな仁に迫るとか、彼のことは考えない訳?!」
「これは……痛い所を突かれましたね」
ネージュの一言で今まで崩れたことの無かった、
寄る辺を求めるように彷徨う
「どうされましたか、アリスさん」
アリスの服装は遊郭の手伝いをしている時の動きやすいものでは無く、仁たちと初めて会った時の黒いドレス。神妙な面持ちからは、彼女が並々ならぬ覚悟を持ってここにきていることが分かる。
「お取込み中なら、私は後でも構いません」
「いえ、むしろ丁度良かった」
ネージュはそんな
「お願いがあります、
「そこに何もないとしてもですか?」
「はい。私は、私が失ったものが何だったのか知っておきたいんです。そうしないと、私は何をするべきか分からないから」
今のアリスに覚悟なんてない。まだ、家族ともいえる人々を失った悲しみから立ち直るには時間が足りない。それでも、ボロボロでも世界は待ってくれない、動くしかない。
だから、少女はここにいる。
「構いませんよ。それに貴方には
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