八十三話『だから少女は手を伸ばす』

「……ここは」


 一面に広がるのはどこまでも続く浅い湖と青い空。天地の境界のない世界で、真紅の彼岸花が咲き誇っている。晴れ渡った空から降ってくる鮮やかな火の粉が水面に落ち、燃え上がった後に一輪の華が残される。そして、華はいつしか火柱になって天へと還るのだ。


 ここは天と地を炎が廻る世界であった。


「俺の心象風景と言えば分かるか? 一定以上の練度に達した異能は、その力で世界の隙間を強制的に拡張し、自らの心象風景を世界の一部としてねじ込むことが出来る」


「ヴァンのアレと同じか」


 幻想的な景色であることはよく似ているが、漂う空気は全くの別物。清々しさと諦めのような感情を想起させるヴァンの心象風景とは異なり、ここから感じるのは今なお燻り続ける未練と静かな怒り。

 また、この空間の温度自体が灼けるのような異常な熱さであり、いるだけで汗が止まらない。動かずとも干からびてしまいそうだ。


「果てしない……」


「それは違うな。『侵想臨界』には果てが存在する。まぁ、どこまでの規模かは主の力量によるが、外に出れば空間の影響からは逃げ切ることが可能だ」


「参考までに聞きますが、ここは?」


「この空間は半径一万キロほどの真円だ。そんな距離を俺から逃げ続けるというのは光の速度で動けるのだとしても不可能と言っていい。脱出は諦めることだ」


 文字通り力のスケールが違う。極東帝国の領土を優に超える広さの空間を展開するなど、空間専門の魔術師が聞けば卒倒ものだ。仁が全力で走り続けたとしても脱出までに一日以上の時間を要する。世界のへりにたどり着く前に、脱水症状であの世行きだ。


「それで、この空間を展開することに何の意味があるんですか? まさか、馬鹿でかい空間を作り出すだけで終わりじゃないでしょう」


「その通り。『侵想臨界しんそうりんかい』にとって心象風景を形にすることは本質ではない。重要なのは景色ではなく、ここが心の中とほぼ同義であるということの方だ」


「本質……」


「仁も勘づいているだろう。異能という力の不安定さを。心の在りようはもちろん、世界から絶えず異物として攻撃されていると言っていい。本来が強力なモノであるほど、世界からの修正が強く働き、抵抗に力の多くを使っている。そこでだ、異能を邪魔する世界から脱出し、自らの世界の中に入ることで本来の出力で異能を振るえるようにする。それこそが『侵想臨界しんそうりんかい』の真の役割だ」


 自己と他者の存在の線引きを明確化し、それを二つの世界の境界線と言う形で顕現させる。この空間の中にあるのは剥き出しの自己、ありのままの自分。誰にも自らを邪魔されない自由な世界。


「が、異端者は数が少ない上に『侵想臨界しんそうりんかい』を扱えるのは一摘まみ。ほとんどは力と心を持て余し、現実と自己の境界線を忘れて『侵獣堕ちしんじゅうおちする」


 旧富士樹海の砂嵐の先にいた存在、異端者の成れの果て。分不相応に、人が神と同じステージに手をかけ自滅した、罪深さの証明。


「その力を俺に見せて……俺に制御して見せろって言うんですか」


「察しが良いな。そうだ仁、お前はこの力を完全に制御しなければならない。それが出来なければお前の言う、世界も一人も助ける理想論は到底叶いはしない」


 今、仁に語りかけているのは神などではない。焔は神を超越した力を持っているのだとしても、一人の人間として仁に向き合っている。


「どうだ? 化け物になるかもしれない、その可能性が恐ろしいか?」


 既に乾ききったコートを整えて、仁は真っ直ぐに焔の眼を見据える。鮮やかなオレンジの瞳はたった一つの答えを望んでいた。


「いいえ。怖気づいたりしません……ネージュが言ってくれたんです。私がいる限りあなたを『ただの怪物』になんてさせない、って。だから、彼女が隣に居てくれる限り、俺は大丈夫です。俺は彼女を信じて突き進むだけ。使いこなしてみせますよ、こんな俺を信じてくれるネージュが笑える世界のために」


 自分の力を過信し、全てに一人で立ち向かえるつもりでいたかつての自分。その結末は親友に最悪の選択をさせ、数えきれない人の命が奪われたあの惨状。どうすれば良かったかなど今でも分からない。ただ、もしも自分が……。


「そうか。お前は気がつけたようで良かったよ」


 焔の表情は変わらない。その声が爽やかさを感じさせるのは安心ではなく、自分が間違っていたことを確信したから。


「だけど悪いな。俺も答えに納得したからって手を抜いてやる訳にはいかない」


 うだるような空気が爆発する。刀が纏うのは真紅の炎。


点火イグナイト——『戦火いくさび』」


 借り物の神の力ではない、焔本来の炎。煮えたぎる血をたきぎに燃える戦争の炎。


「行くぞ」


 構え、踏み込む。同時に焔は音を置き去りにする。一瞬だけ刀と剣槍がぶつかり合い、仁も音を置き去りにしながら吹っ飛んでいく。


(速い……でも、音速くらいなら捉えられ……ッ!)


 舞うは炎の花弁。咲き誇っていた彼岸花が散ると同時に舞い上がり、触れた仁に激痛が走る。


(なんだコレ……炎に触れられる?!)


 もちろん、派手なだけの攻撃ではない。実体を持つ炎、それこそが『戦火いくさび』の特性。

 が、言ってしまえばそれだけ。特異な力と言うには足りない異能。ではなぜ、そんな炎が神の炎に匹敵するのか。


(クソッ、当たらない)


 剣槍もチェーンソーも鏢も、どれだけ仁が必死に攻撃しても、炎による高速機動と防御でしのぎ切り、的確にカウンターを入れる焔。

 コーヒー豆一粒一粒に均等に熱を加えることすら簡単に行う、他の異端者とは隔絶した操作精度。能力の特異性による強さは焔の本質とは言えない。彼の本質は積み上げ続けた努力による強さ。彼は『権異混成能力者ミキシングエンフォーサー』だから最強なのではない。


 天城あまぎほむらだからこそ最強なのだ。


 四十度を超える温度の湖に膝をつきながら、仁は剣槍を杖代わりにして何とか立っていた。一方的に攻撃され続け、体はボロボロ。あんなにも流れていた汗が止まり、体の内側に火が付いたように熱い。


「タフだな……立ち続ける、いや倒れられない理由があるからか。だが、もう限界だろう。次で終わりだ」


 焔の見立ては正しい。今の仁は揺らぐ視界と力の入らない体を気力だけで立たせている。すでに限界をギリギリ超えている。


「次? 次なんて来ませんよ、焔さん」


「何?」


 仁は震える手で指さす。先に広がるのは変わらない光景だ。はるか遠くまで湖と空しか見えない。

 だが、灰月仁だけは世界の果てに『星』を見ていた。


 少年が呼んでいる。


 だから少女は手を伸ばす。


 ネージュの手が外殻に触れると同時に、世界は崩壊する。最強の異端審問官が作った世界が酷くあっさりと。

 超常である限り、ネージュからは逃げられない。それが世界であろうとも。


「ごめんなさい、仁。遅くなってしまって」


「ナイスタイミング……助かった」


 仁の肩を支えるネージュに炎刀が迫る。が、それを騎士は許さない。


「仁、まだ戦えそうかい? 無理と言うなら僕が『勝利を齎す烈輝の夢想剣エクスカリバー』で……」


「バカ言うな。まだ戦えるつーの」


「薫、仁をお願い。作戦通りに。私と英士君で焔さんは食い止めるから」


「分かりました。二人ともお気をつけて」


 横薙ぎの剣を躱し、後ろへ跳ぶ焔。迫るのは英士とネージュ。刃と刃の打ち合う音が響く。


(面倒な。まずは英士だけでも)


 口上と共に刀の炎が黒へと変わり、再び明王が現れる。ネージュを巻き込まないように範囲を絞った一撃と『永久に輝く裁定の剣カリバーン』がぶつかり合い、黒炎が拡散する。


(作戦通り。あとは私が時間を稼げば)


 散った黒炎は濡れた花にもお構いなしに燃え広がり、視界を塗りつぶす白い煙が辺りに立ち込める。


「煙幕か。なら、警戒すべきは」


 広範囲攻撃を持つ英士を警戒しながら、煙を吹き飛ばそうとする焔だが、外側から押しとどめるように風が吹いているせいで視界は晴れない。しかも、発生した蒸気で余計に視界が悪くなるなど完全に逆効果。


「せいっ!」


 そんな中、焔は白い服装を迷彩代わりに現れては消えるネージュと打ち合わなくてはならない。神経を張り詰め、どんな小さな情報も逃さないようにしなくては対応できない。

 だからこそ、彼は霧の中を横切る黒い影を捉えた。


「仁!」


「残念、僕ですよ」


 焔の刀を受け止めたのは剣槍ではなく剣。そこにいたのは灰月仁、ではなく彼のコートを纏った御門英士。

 霧の向こうから殴りつけにくる盾を避けながら焔は後ろへと下がるが、英士はブーストチャージで逃がさない。

 その時、霧の向こう側から聞こえたのはチェーンソーの駆動音。


(見え透いた陽動だ。チェーンソーだけを投擲したな。別方向から仁本体が来ると見た)


 が、予想を裏切るように音は大きくその軌道を変え、焔へと迫る。


(——ッ?! 今の鋭い変化、風では不可能。 仁がいるのか? 何を考えている?)


 英士を蹴ると同時に爆発で吹き飛ばすと、焔は音のする方へと刀を振るう。が、手ごたえは軽い。


(チェーンソーだけだと?! なら、さっきの変化は……ワイヤー……鏢の!)


 取っ手に結び付けられてワイヤーが霧の先に伸びている。その事実に焔が気が付いた瞬間、すでに灰月仁は背後へと迫っていた。


(ならば、恐らくは後ろ!)


 白いコートで霧に紛れて迫る仁。一回きりのチャンス、これを逃せば回復魔術でギリギリ持たせているだけの仁の身体は動かなくなる。


「——『纏雷極刃ライトニングオーバーエッジ』、起動ターンオン!」


 剣槍がバチバチと破裂音を伴い、雷によって拡張された刃が焔へと迫る。が、振り向きざまに放たれる斬撃で剣槍は弾き飛ばされ、仁の右手から離れて……それでも仁は諦めない。


 仁の視線の先、目の前にいる焔の姿が蜃気楼のように歪んで、遥か先に一人の男が。黒いコートを纏った異端審問官が自分を見つめているような気がした。

 灰月仁は止まらない、諦めない。あの人に誇れるように、追いつけるように、彼の先へと進むために!


「俺は! 異端審問官だッ!」


 身を捻り、左手で剣槍を掴む。


「「——『紫電しでん』!」」


 灰月仁ともう一人、今は亡き友の声が聞こえた気がした。左手・・で雷を振るう姿に友を重ね、一瞬だけ振り遅れる焔。


(——ッ! いや、違う! 灰月仁はアイツであるはずが無いッ!)


 幻影を振り払いながら、ひどく不格好に仁の斬撃を逸らして殴り飛ばす。体勢を崩しながらも、焔は辺りへの警戒を怠らない。


(笑っ……何故……何で仁は笑って……)


 が、彼も仁の背後には意識を向けていなかった。

 仁たちが作り出した一瞬の隙。そこに飛び込むのは一人の少女。自分の生きるための道を自らの手でつかみ取るために。


「——破っ!」


 焔の死角、仁の背後から入れ替わるように現れたネージュの拳と焔の刀が擦れあい、拳が最強の異端審問官に突き刺さる。


「焔さん、仁を気にしているのは分かります。でも、これ私の試験ですから」


 鳩尾に一撃をもらい、大きく吹き飛ぶ。泥まみれになりながら転がる焔。たった一発だけのはずなのにやけに重たい拳だった。


「こういうのも、偶には悪くないな」


 雨に打たれながら焔は呟く。仁自身は見ていても、仁の背後など考えてすらいなかった。そこを突かれての負け。

 仁には背中を預けられる存在がいたらしい。もっとも一般的な『背中を預ける』とはニュアンスが異なるが。


(認めるしかないか……そうだな。今の仁はお前と同じだ。誰もを助ける理想を目指してる)


 焔の知る理想主義者の末路は酷いものだった。きっと仁も同じ末路をたどるはずだ。けれど、ネージュが隣にいるのなら焔の予想は変わるのかもしれない。その可能性に賭けてみたくなった。


「合格だ、ネージュ・エトワール。そいつ、頼んだぜ」


 晴れやかな表情で語りかける焔。自分に一撃を入れたこの少女になら、灰月仁を任せてやっても良いと、そう思ったから。


 

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