終章 『月の横顔』1999年1月31日
八十四話『サヨナラ、おはよう』
「いいのですかな。別れの挨拶は」
「いいさ。私はネージュの前に極力姿を見せない方が良い。今回が特別だっただけ。あくまで技術の初歩を教えた程度、彼女も私のことなどすぐに忘れる」
「はっはっは。モルテ、あなたが思う以上に仮面の男というのは記憶に残りやすいのですよ」
冷たい風が吹きつける街壁の上で語らうモルテと頼光。心残りでもあるのか、コートがはためく。
「なぁ、頼光。これから世界はどうなると思う。ネージュ・エトワールという『破滅の聖杯』、天城焔という『
「それを私にお聞きになりますかな。あなたの方が長く生きたでしょうに」
「だからだ。若者の意見を聞かなくては老害になるらしいのでな」
「違いありますまい……そうですな、私もこれからが読める訳ではありませんが、一つ確実に言えることがございます」
それは千年間、頼光が生きてきて学んだことの一つ。短い時の中を生きる者達では実感できないことだ。
「これからも激動の時代でありましょう。私が知る限りにおいて世界というものは随分とせっかちだ。どのような変化をするのであれ、変化そのものを避けて通ることはできない、避けるべきではない」
「やはりか。世界は変わり続ける。ならば、私はこの命果てるまで見せてもらうとするか」
「おや、それだけがあなたの目的ではありますまい」
「それはいいさ。どうせ、答えは向こうからやってくる。そういう運命なのだ」
珍しく運命と言う言葉を口にするモルテ。ずっとその言葉は嫌いだった。愛する人を自分から奪い取ったのは運命だったから。でも、こういう優しい運命ならば悪くはない。
「では、私はそろそろ発つとしよう。次はもう少し共に飲めるといいのだが」
「それまでに良い酒を用意して……」
「待てや、ゴラァ!」
突然、モルテの横っ面に炎を纏った拳が突き刺さり、勢いよく滑走。壁の上から落ちないように配慮したのはせめてもの配慮だ。
「見つからないように逃げてたんだがな……ご挨拶だな、天城君。店は開けなくていいのか?」
「ようやく見つけましたよ。今日はアンタをぶん殴るために特別休暇です。頼光さん、情報提供感謝します」
「いえいえ、礼には及びません」
「裏切ったな……」
どさくさに紛れて、そのまま逃げるつもりだったモルテだが、最後の最後で一番厄介な男に見つかってしまった。
「『
「あー、まぁアレだ。試験の難易度が高いのは私も分かっていた……だから、隙を作れそうな技を伝授してバランスを取ったというか。結果、私の見立ては正しかったという訳だ……」
「つまり、人のトラウマを利用した、と」
「き、君も仁と話す機会を得たのだし、良いことあったってことで……」
焔のつま先が鳩尾に入り、表情を歪めるモルテ。穏やかな笑顔で見つめる頼光は、言外に「殴られろ」と言っている。
「……今回はこれで勘弁しますよ」
「三発顔を殴られるのはいつ以来だったか……」
口の中に広がる血の味に顔をしかめながら、モルテは真っ黒い翼を展開する。黒翼を広げる彼はやはり死神と呼ぶに相応しい姿をしていた。
「じゃあな。今度こそ、さよならだ」
「また会いましょう。酒、楽しみにしておいてください」
「俺も付き合いますよ」
「冗談を言うな、天城君。前に一口で吐いて二日酔いに苦しんだのを忘れたか?」
なお、焔が飲んだのはビール(度数五パーセント)。最強の異端審問官、酒に関しては激弱である。
「あと、レイにも俺は元気だって言っておいてください」
「任された」
モルテは翼に力を起こし、大空を駆ける。黒い鎧を纏うと同時に音速を超え、更に加速する。
(空は今日も青いな)
モルテにとって青い空は、彼女の瞳を思わせるモノ。出来る限り見ないようにしてきた。だが、今日だけは。
(君に逢いたい……いや、ダメだ。それは許されない)
黒き死神は飛んでいく。仮面の奥、潤む瞳を揺らしながら。
▲▼▲
「ふん、ふん、ふーん。次はこっちの方を拭いて、っと」
鼻歌を歌いながらリビングの雑巾がけ中のネージュ。薫がデザインし、仁が仕立ててくれたメイド服を着て掃除に励む。実用的で動きやすく、派手過ぎない可愛さのある見た目。実にネージュ好みの服装だ。
「こんな時間……そろそろ仁を起こさないと」
今の時刻は午前十一時。久しぶりの休日とはいえ、寝過ぎは健康に悪い。毎日、疲れ切って夜遅くに帰る仁を起こすのも気が引けるが、これも仁のためだ。
「私も忙しくならないかしら。異端審問官になったんだし」
貰った時以降、まだ異端審問所のコートにネージュは袖を通したことがない。自分の立場を考えれば、簡単に動かすわけにはいかないのは分かっているが、家で一人だと掃除か読書くらいしかやることがない。ネージュは暇であった。
「それに仁と一緒に任務なら嬉しい」
夜遅くに帰ってくるせいで、仁と過ごせる時間はかなり減ってしまった。が、任務であれば仕事中も仁の隣に居られる訳だ。
「仁、起きて」
寝室の二人用のベッドの端で眠っている仁。ネージュの声を聞いても、起きるそぶりをみせない。
「……ネージュ……」
(寝言で私の名前を? どんな夢を見てるのかしら)
が、幸せな夢を見ているのではないようで、彼の額にはじっとりと汗が滲み、苦しそうに息を荒げている。
「……違う……誤解だ……浮気……俺は……食事しただけ……やめ……何でもするから……」
どうやら仁は夢の中で修羅場になっているらしい。が、ネージュにとっては心外も良いところである。
(私、あなたが他の女性と食事に行ったくらいで浮気を疑ったりしないけど? 私は仁がそんなことしないって信じてるのに、仁は私を信じてくれないんだ。あっそ)
熱を帯び、苦しそうに喘ぐ仁の頭をなでるネージュ。見ていると不思議な気持ちが胸の底から湧き上がってくる。
(でも、そうならないとも限らないのよね。仁が押されてそのまま……なんてこともあるかも。今なら寝ているし……)
ネージュは仁の唇に顔を近づける。彼から漏れる熱っぽい吐息が、彼女の理性を溶かして……。
「ネージュ、何してるんだ? 顔近い」
「じ、仁! あ、いや、これは、その……仁が苦しそうだったから、つい」
「そう、なのか? 確かに酷い悪夢を見ていた気がする……」
(なんで、このタイミングで起きるわけ! もう少しだったのに!)
出来る限り表情を変えないように努めるネージュだが、気恥ずかしさで赤くなる頬を抑えることが出来ない。
「顔赤いけど、熱があったり」
「大丈夫、心配しないで!」
「なら良いんだが。——おはよう、ネージュ」
世界は今も変わり続けているが、二人の関係はしばらく前に進めそうにない。
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