八十一話『変われない男』
時は遡り、まだ雨粒が地を濡らすより前。
二人の使徒は、遠くに見える巨大な黒い火柱を見つめていた。頼光の表情は、試験で地盤を貫く威力の技を持ち出した焔への呆れが大部分を占めている。アレを食らって、生きているのは上級異端審問官でもそうはいない。ネージュが触れれば消せるとはいえ、余波だけでもオーバーキルなのは明らかだ。
「全く。大人げないですね、焔は。張り切るとしても、やり方と言うものがあるでしょう。結果は……」
「いや、そうとも限らん。ネージュと仁は地下水脈に落ちたようだ」
モルテは世界に存在する波を読み、周囲の状況を把握する。精度が良いとは言えないが、大規模な地形変化なら数百キロ先からでも知ることが出来た。
「モルテ、あなたはこの展開を見越して戦場を定めたのですかな?」
「ノーコメントだ」
沈黙は事実上の肯定と同じ意味を持つ。やはり、この展開もモルテの思い描いた通りなのだろう。顔の上半分を覆い隠す仮面の下で、死神が何を考えているのかは頼光にすら分からない。
「見えぬ場所すら見通すあなたの力。便利なものですな」
「褒めても何も出ないぞ」
「皮肉ですよ。この目と刃に映るものを見るので精一杯な私からの」
「そうか……一体いつから気が付いた?」
それはモルテにとって知られてはならないこと。けれど、彼は穏やかな口ぶりのままに頼光に応じた。長い付き合いなのだ、いつか気付かれるのは分かっていた。それが偶然今だっただけ、と割り切って。
「そうですね、違和感があったのは初めから。なぜ片田舎の教会にこれ程の実力者がいるのか分からなかった。それに世界を変えるためと言いながら、あなたは何かを隠していた」
モルテを初めて見た時に感じた冷たさを頼光は覚えている。それは神の教えを絶対とする鋼のような意志の冷たさではなく、数えきれないほどの命を奪ってきた者しか纏えない生存本能を呼び起こす、死の冷たさ。
当時、数えきれないほど多くの戦いに介入した頼光でも届かない死臭がモルテからは漂っていた。
「そして、疑念が深まったの十字教の教典を調べた時。この
各地の伝承に現れる『黒い嵐を操る仮面の男』。ある時は乱世を鎮める英雄に手を貸し、ある時は民に愛された名君を殺し、そして最後は決まってどこかに姿を消す謎の存在。
確証はない。だが、これがもしモルテだとするならば。
「もうずっと永い間、私はこの世界を彷徨っている。気が狂うほどの時の流れの中で、変わっていく者達を見続けながら」
誰もが彼を置いて行った。物ですら、彼が愛した当時のままの姿からはかけ離れていく。変わらないものは頭の中にある思い出だけ。全てが彼を見放して、死神の時間はあの瞬間からずっと止まったまま。
……いや、初めに全てを置いて行ってしまったのはモルテの方かもしれないが。
「あなたはなぜそこまでして生き足掻く。あなたの目的は真の目的は……異端審問所も、信長の計画も、あなたにとっては踏み台でしかないのでしょう?」
「お前の中でもう答えは出ているのだろう。
「ネージュ・エトワール。彼女はあなたの何です、モルテ・エスターテ」
ネージュの訓練について語るモルテの声音が春の日差しの様に暖かかったのを頼光はハッキリと覚えている。彼女について話すときにだけ、纏っている死臭が消えていた。初めて目にしたモルテの一面。
「この試験……獅子は我が子を谷から突き落とす、と言います。その認識で構いませんかな?」
「…………」
「なるほど。あなたも私も
刀を構える頼光。仁を相手にする時の木刀ではなく、今回は正真正銘の名刀である。その刀に炎や水を操る、神の如き力は無い。ただ決して壊れず、刃に触れえるものなら何であろうと斬り伏せるだけ。
飾り気の無い拵え。その一振りに望まれたのは、鬼を
「——『
「ですから、モルテ。——あなたも本来の得物を喚ぶべきだ。私の刃、まさか手加減して受けられるとは思うまい」
モルテの手の中で形作られるのは真っ黒な大鎌。誰もが真っ先にイメージする死神の武器が握られていた。
「強情な」
「何とでも言え」
モルテは空が裂けるような音と、頼光は全くの無音で踏み込む。同じくかつて最強と謳われながら、正反対の二人。
刀と鎌が交差し、曲がった刃が真っ二つに両断される。が、交差の一瞬で刀の側面を叩き、軌道をずらすことで直撃を避けるモルテ。鎌を投げナイフに変形させ投げつける。
「相変わらずの多芸ぶりだな! モルテ!」
後ろに跳躍しながら、襲い来る二十本以上の投げナイフを懐から取り出した一本の苦無の投擲で弾ききる頼光。ついでに自分のすぐ傍を飛んでいた投げナイフ三本を掴み、モルテに投げ返す。
「そっちこそ、純人間のクセに人外染みた動きしやがって! 頼光!」
消失と出現を繰り返し、居合の構えでモルテへと詰め寄る。迎撃に放たれた死神の黒剣が剣鬼に傷をつけることは叶わない。
「——『
全身の捻りを利用しての抜刀。モルテは紙一重で後ろへと飛んだが、代償にコートには鮮やかな斬り口が咲く。
「この技もそうだ。仁が『
真っ黒いコートとマフラーをした異端審問官。これまで育ててきた弟子の一人の姿が頼光の脳裏をよぎる。もっとも、その時の黒は、今のように煤ぼけた色ではなく、艶のある上品なものだったが。
「そこまで大それたことではないさ」
黒翼を広げ、大空へと飛び立つモルテ。放つは棘の突き出た黒い大槍。触れた者をズタズタに引き裂く殺意の塊。それを足場にして頼光はモルテへ迫る。表面の棘、一本一本をへし折りながら。
「怪物め」
死神は迫る老兵を睨みながら呟く。モルテの強みはその圧倒的な手数。が、優れた百手は無窮の一手に敵わない。
「——『
頭上から振り下ろされる一太刀をモルテは翼から取り出した大剣で受ける。刀が触れ、大剣が切断されるまでの一瞬の
が、刀は止まっても頼光は止まらない。モルテの腕に絡みつき、技を極める。ゴキンッ、と鈍い音がして垂れ下がる腕。
「——ッ!」
モルテの伸ばした左腕を避け、大剣に食い込んだままの刀で黒翼を切断。そのまま、落ちるモルテを遥か下の地面へと蹴り飛ばす。
「クソッ、やってくれる」
外された肩をはめながら立ち上がるモルテの横で、頼光は刀を使った六点接地で無傷のまま地上に降り立った。
「——そろそろ答える気になりましたかな?」
闘気を
「獅子は子を崖から落とす、と言ったな。ある意味、それは正解だ」
「では、やはりネージュ・エトワールは」
モルテの記憶の中心にいるのはいつだって、白銀の長髪に人形を思わせるほどに白く透き通った肌、鮮やかな水色の瞳の女性。言ってしまえば、彼女とネージュは瓜二つの姿をしていた。
「それで、どうするのです。ネージュ・エトワールを器に死者蘇生でも行うつもりですか?」
「死者蘇生? 驚いた、小説でも読み始めたか?」
「生憎ですが、私は
「第一、そんなことをしても彼女は帰ってこない」
ずっとずっと昔なら、まだ手はあったのかもしれない。が、手が届くかもしれない時に、憂さ晴らしの殺戮にふけってチャンスを無駄にしたのは自分自身であることぐらいモルテもよくわかっている。自らの救えない愚かさにいくら自嘲しても足りないくらいだ。
「では、彼女を失った悲しみをネージュさんで埋めるなど馬鹿なことを言い出すのではありませんな?」
「お前の中で私はどういう人間に見えているんだ……そんなことはしないさ。確かに見た目は同じだ。だが、私が愛した彼女であるはずがない」
いくら見た目そっくりの人間を用意したところで亡くした最愛の人の代わりにはならない。例え、見た目だけでなく性格や趣向までもが同じ、完全な再現だとしても『最愛の人を失った』という事実は消えることは無いのだから。
「だが、私がネージュ・エトワールに彼女を重ねているのも事実。だからこそ、試したかったんだ。灰月仁が本当にネージュを託すに足る存在かどうか。私が犯した過ちを繰り返さない男かどうか」
「……つまり、この異様な試験の難易度はネージュさんではなく、仁を測るための物であるということですか」
「半端な男に預けられる訳ないだろ」
「……子煩悩ですな」
スパルタなのか甘いのかよく分からないモルテのやり方に苦笑する頼光。仁も面倒な男に目をつけられたものだ。
「ところでモルテ。勝てるのですか」
「勝つさ。私の知る灰月仁と言う男の諦めの悪さは筋金入りだ。それに勝てるように手掛かりは与えたつもりでもある」
「褒められたものでは無いやり方ですがね。焔に後で怒られても文句は言えぬでしょう」
真冬の空を覆う分厚い雲から、唸るような音が聞こえる。間髪入れずに降り始めるのは大粒の雨。季節外れの大雨が乾いた冬の空気に湿りを与え、大地を潤してゆく。
「見ろ。天も彼らの勝利をお望みだ」
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