七十二話『大人の話』
午後十時、と言っても極東支部が居を構える空間に夜という概念は存在しない。昼が無くては夜は無い、この二つは表裏一体と言える。
窓の外に満点の星空を見ながら、異端審問所極東支部支部長『織田信長』は座り慣れた執務室の黒い椅子に腰かけていた。握られているのは灰月仁のデータ。
「素晴らしいな。適合できれば幸運程度で考えていたが、もはや融合と言って差し支えない。やはり、彼は
そんな様子の信長に苦い顔をする
「楽しそうね~」
「これを楽しまずに一体何を楽しめるというのだ? 十年前、敗北で終わるはずだった勝負の
「思いを利用して事を進めるのはいつもの事だから良いけれど~……信長、あなた彼の、灰月仁の素性を知って利用したのかしら?」
楽し気に口元を歪ませる信長を睨む芹奈。もちろん、感情的なことで目の前の存在に言ってやりたいことは山ほどある。だが、それより、なによりも明らかなリスクについて問い詰めなければならない。
「なるほど、頼光が話したのか。で、どう感じた?」
「彼がただの拾ってきただけの孤児で偶然、適合したのならどれだけ良かったか……」
そんな唯の奇跡の産物なら、話は簡単。世界を脅かす存在にならないように、異端審問所で飼っておけばいい。が、灰月仁はそうはいかない。生まれながらにして飼える程度の存在では無いのだ。
「あなた、極東帝国と事を構えるつもりかしら?」
「面白い推論だな。だが、愚かだ。これだから人間は思考の次元が低い」
「二人とも、熱くなっているところ申し訳ない。信長、私はあなたの計画、その過程に対して意見するつもりはありません。ですが、それを成した暁にはより良い世界が訪れる。その約を違えることは無い、そうですかな?」
「当然だ。
「ならばいいのです」
穏やかながら冷たい口調で問う頼光。信長とは四百年の付き合いだが、出会った当時から評価は変わらない、ただ『人類に都合の良い化け物』である。頼光の実力と愛刀であれば、この化け物を殺すには十分。頼光は人類に有益でいつでも止められる存在だからこそ目の前の化け物を生かしているに過ぎない。
いつの間にか柄にかけていた手を膝に置きなおすと、頼光は机の上に広げられた甲府の報告書を手に取る。
「では、目下の課題であるこれについて話すと致しましょう」
「本格的に星慧教が動き出したみたいね~。引き連れた怪異の数からして新門を襲ったついで、ってところかしら~」
「であろうな。この街の上を堂々と飛んでいたことと言い、相変わらず舐めた真似をしてくれる。主の足を舐めるしか能のないゴミめ」
「元は~あなたが裏切ったから~ナイ神父が粛清に送り込まれたんでしょ~」
「是非もない。可能性に魅せられたのだ」
自身より圧倒的に劣るはずの存在が、組織の垣根を超え、結集できる全てで自らを打ち倒した。その姿に信長は、人間という思考の次元の低い愚かな存在の素晴らしさを、神を超えうる可能性を見たのだ。
「私としては甲府の別動隊を一人で壊滅させた『
そこまでの実力者を今まで異端審問所が特定できなかったのは、シンが目撃者を一人残らず皆殺しにしてきたからに他ならない。上級異端審問官二名と異端審問官五名、その他数名の歴戦の軍人を殺害した煤日ユウと比べても無関係な人間まで巻き込んで
「して、高圧の水流と溶解液を操る、か。芹奈主任、鳴海の死因は?」
「ご察しの通りだよ~。胴体を高圧水流で切断、断面は溶解してグチャグチャ~。恐らく、東京で鳴海くんを
「そうですか、鳴海を仕留めたのは。彼も運がありませんね。神と戦い、最後には自身の魔術の劣化コピーに止めを刺されるとは」
前使徒九位を始めとする沢山の異端審問官たち、中でもあの街で散った弟子の一人が頼光の頭をよぎる。長い人生の中で数々の別れを経験してきた、けれど痛みと喪失感になれることは無い。手塩にかけて育てた愛弟子なら
「加えて、
「……あのクソアマ」
「信長、それは星慧教がシンを
「現時点では何も言えないが、星慧教の最終目的から考えて、その可能性は低いだろう。大方、大駒の一枚としか認識していないであろうよ」
が、それでも事態は深刻だ。星慧教の戦略に関わらず、奴らが存在する限り、極東帝国が二分されるのは確定している。極東戦役の再演として、この国に生きる誰もが無傷では超えられない荒波が迫っているのだから。
「ネージュ・エトワールのような、人工的に生み出された破滅の聖杯がいる恐れは?」
「同じほどの完璧な器は無理かな~。でも~不良品なら沢山作れそう~」
「予測できないイレギュラーばかりと言うことですか」
「案ずるな、あちらがイレギュラーをぶつけてくるなら、こちらもイレギュラーをぶつけるまで」
イレギュラーの応酬は異端審問所の
「イレギュラーと言えば~ネージュさんの試験はどうするつもりかしら~」
「それならば問題ない。モルテに一任している」
「して、そのモルテは今どちらに?」
「天城のところでカレーでも食べているのだろう」
▲▼▲
喫茶『カサネ』。新門第二学園区画の駅前から外れた場所に位置する寂れた喫茶店。廃墟に見えるビルの一階を改装して作られたソレは、開業から十年たっていないはずが、何十年も前からそこにあったように思える。入り口の壁はツタが張り、とにかくボロい。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「少し見ない間に、また上達したらしいな」
ホカホカと湯気を立てるカレーとコーヒー。カレーはじっくりと煮られたことで旨味が溶けだしており、ライスも丁度良い炊き加減で絶品だ。コーヒーも豆一つ一つにこだわり、良さを引き出すよう焙煎した職人技である。
そんな品を口に運びながら、モルテはカウンターの先でカップを拭く天城に声を掛ける。
「前にも話したネージュ・エトワールの件だが」
「良いですよ、お引き受けします。俺以上の適任はいないでしょうから。ついでに、灰月仁と話す機会もあるという認識でいいですか?」
そう返す天城だったが、これは彼の本音とは言えない。彼にとっては、ネージュの試験こそがオマケだ。
「ほう、少しは怒っているかと思ったが」
「俺だって聞かされた時は、二発信長を殴りましたけど……でも、どこかで薄々こうなるんじゃないかって思ってはいたんです……ただ、これから俺はどんな顔してアイツのところに行けばいいんですかね」
「天城君、君もずいぶん大人になったな」
「できれば、もう少しだけ若くありたかったですよ」
「ハハッ。そして、過ぎ去ったモノを忘れられず、過去に囚われるまでが大人になるということだ」
ため息を吐く二人。モルテも天城も、なりたくて大人になった訳ではない。生きるためにそうなるしかなかったから、大人になっただけ。結局、二人は過去に囚われ続けている。もちろん、それが十年か二千年かの違いはあるが。
「そうだ、レイは元気ですか?」
「彼女なら良く働いてくれている。おかげで極東に出張しても仕事が溜まらない」
「さすが使徒六位【『
「どこかの喫茶店の店主とは違うな」
「俺が下手に動くと国際問題一直線ですよ」
「分かっているとも、冗談だ」
個人の強すぎる力は社会という巨大なシステムを回すうえで不都合だ。たった一人で世界の全戦力と渡り合えるほどの力は脅威以外の何物でもない。例え、今の天城が全力の三十パーセントほどしか出せないのだとしても。
「レイからの伝言だが、たまには欧州にも顔を出せ、一ノ瀬は元気か、だと」
「相変わらず無茶を言うな……一ノ瀬は、アイツのことだ、どこでも元気でしょう。星慧教の活性化で帝国全体がきな臭くなったし、軍との連携って意味でも連絡入れた方が良いかもしれませんね」
「彼は今、中将だったな。そろそろ大将に手が掛かる頃か?」
「いえ、何でも保守派が根強いみたいで、改革派は動きずらいとか」
かつての仲間たちは世界を変えるために、日々忙しくしている。それでも、天城は動けない。何もかもが手遅れになってから手に入れた大きすぎる力は、今や彼を縛る足枷の一つだった。
ただ正直に言えば、天城個人として世界のことなど
美しい手際でカレーを完食し、食器をマナー通りに皿に置くモルテ。
「美味かったぞ」
「そりゃ、どうも」
カップの中に少し残ったコーヒーを流し込んで、死神は喫茶店を後にした。
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