五十六話『一日の始まり』

「……朝ね。寒い」


 目を覚ましたネージュは大きく息を吸い込む。肺に流れ込む冷たい空気が、ぼんやりとした意識を覚醒させる。

いつもなら暖房の効いた暖かな部屋で二度寝に入るが、ここは新門では無い。街の中心から大きく外れたこの家には魔素エーテルの供給網は伸びておらず、暖房なんて便利なものは無いのだ。


「散歩でもしようかしら」


 ゆっくりと布団から出る。隣に寝ている仁を起こさないように慎重に歩く。畳んであった上着に袖を通して、紙とペンを執って、置手紙を机の上に置いておく。

 まだ薄暗い夜明け前。月と星の白い光が手元を照らす。こんなにも早く目覚めてしまったのは、自宅ではないから落ち着かないためだろうか。


「怖い寝顔。まるで……」


 死人のようにピクリとも動かない仁。耳を澄ませても、呼吸の音さえ聞こえない。その手に触れて彼の微かな熱を感じなければ、本当に死人としか思えないだろう。

 だが、それは良いことなのかもしれない。ネージュと出会った頃の仁は、よくうなされていた。少なくとも今の仁は悪夢に苦しめられてはいないということなのだから。


「冷たい光。太陽とは違う、青白くて儚くて」


 ネージュは空に浮かぶ月を眺めていた。月、仁の名にもそれは在る。ネージュに言わせれば二つはよく似ている。

 夜空に浮かぶ月も、ネージュを照らしてくれた仁も、どちらの光も決して強くはない。多くの人を照らす太陽の光に比べればか細いものだ。だが、暗い道で迷う誰かに希望を見せる、そんな光。


「あんまり無理しないでね。いつも、あなたは頑張りすぎてるから」


 いつもは言えない言葉。間違いなく仁は否定するから。「まだ、頑張らなくちゃならない」、と彼ならそう言う。

 努力を重ねる訳を彼は「自分のため」だと答えた。たぶん、それは正解だと思う。でも、全てではないはず。

 ネージュと仁が出会った日からそうだ。彼は時折、『死』を纏う。十年前、仁が燃え盛る街の中で背負った業。彼は生まれながらにして『死』というものに祝福されている。数々の業に灼かれている。

 それが灰月仁の源泉なのだ、とネージュは思う。彼は律儀で、自分が重ねた業を償うために、その身を捧げ続ける。


「誰かに言わせれば、それは仕方のないことだったのかもしれない。でも、あなたはそう言って逃れようとはしないのでしょう?」


 どうしようもないことだった。自分を守るために仕方なかった。それだけで、人々はきっと彼を赦す。けれど、どれだけ正しい理屈で誰もが彼を赦そうとしても、彼は自分を赦せない。それをネージュは良く知っている。だって、彼女もその一人だから。

 確かにネージュは前に進むことを選んだ。だが、それは罪を忘れ去ることとイコールではない。仁も同じなのだろう。


「朝ごはんの前には戻らないと」


 障子に手をかけ、部屋を後にしようとするネージュ。


「ネージュ、おはよう。……って、どこにいくんだ?」


 寝ぼけまなこで目をこする仁。いつもは直ぐに目が冴えるが、昨日の疲れがまだ抜けきっていないらしく、あくびまでしている。


「散歩。少しこのあたりを見てみようと思って」


「いいな。俺も付いて行っていい?」


「ええ、もちろん」


「少し待ってくれ。すぐ準備するから」


▲▼▲


 征一の邸宅の周りには田畑が広がっている。水の張られていない田やもやのかかった貯水池、霜の降りたあぜ道。田舎の風景の中を歩くのは、二人にとって初めてだ。


「新門みたいに自然工場で野菜や米が作られてる訳じゃないのね」


魔素炉エーテルジェネレータの出力が足りてないから、昔からのやり方で賄ってるんだ」


「『龍脈りゅうみゃく』から魔素エーテルを汲み上げて都市に供給する、だったかしら」


「そうそう。けど、新門みたいに本流の上に都市があれば良いけど、ほとんどは小さな支流の上だから、街壁や中心部で使うだけで精一杯。ここの人たちは外部供給式の魔導具なんて使ったこと無い人の方が多いんじゃないか?」


 そもそも、世界に魔術関連技術が溢れているとは言うが、実際に触れたことがある人間は多くは無い。確かに魔術は都市を維持する上で欠かせないが、それを動かすのは仁のように高等教育を受けたインテリ達。地方都市で普通の生活をする人々にとって魔術は「火をつける時に使う」くらいの認識だ。


「新門に来て、魔道具が普通に使われてることに驚く地方の学生も多いらしいし」


 地方から新門に来られるのは、ほとんどが幼いころから優れた教育を受けられた、才能ある金持ちの家の子だ。そんな彼ら彼女らでも驚くほど、進んだ街『新門』。地方では金と才能が無ければ受けられない教育が、新門では仁のような孤児でも才能さえあれば受けられる。この世界における都市間の格差を分かりやすく表していることの一つだ。


「——俺は新門も好きだけど、こういう景色も悪くないって思うよ」


「私も。なんだか心が軽くなるの」


 教科書で読んだことはあるが、実際には目にしたことの無かった景色の中を歩く二人。人工物に囲まれた新門の道とは違う、ひっそりと佇む自然に囲まれたあぜ道に吹く風が心地いい。


「ねぇ、仁。あれ何かしら?」


 ネージュの視線の先にあるのは、苔むした石造りの階段だ。どうやら、山の上まで続いているらしい。階段の途中にはいくつかの祠が見える。


「神社、だな。上から甲府の街が見渡せるかも。行ってみないか?」


 所々、崩れかかった階段を上る二人。道の脇には雑草が生い茂り、長い間、手入れをされていないのが見て取れる。積みあがった瓦礫は、かつて祠だったものだろう。だが、得体のしれない場所に迷い込んでしまった恐ろしさを感じさせる場所ではなかった。

 

「ボロボロ……もう何十年も誰も来てないのね」


 山の上に建つ社は辛うじてその形を保っている。しかし、木は腐り、屋根には穴が開き、あと数年もすれば崩壊は避けられない。


「これは……絵? 社よりももっと古い」


 中に足を踏み入れたネージュが見たのは、木の板に描かれた神々しい絵だ。そのほとんどは劣化によって何が描かれていたのかは分からない。ただ一つ、天から一人の女性が大地に降り立つ場面だけが奇跡的に無事だった。


「仁、これは?」


「極東神話の伝承絵だろうな。太陽神『天照アマテラス』がこの大地に降り立った場面だと思う」


 その後、天照アマテラスは戦乱の渦中にあった極東を平定するため、鴉と狼を従えて戦い、最後に鬼人との決戦を制して、極東に国家の礎を築いた。


「もう何千年も前の『神代じんだい』の話だ」


 かつてこの世界には神々が存在した。人間は神々の庇護の元、何不自由なく暮らしていたという。だが、ある時突然に神々は姿を隠した。その代わりに世界に怪異が現れた。


「有名な神といえば、極東の天照アマテラスに華炎の女媧ジョカ、欧州のゼウス、北欧のオーディン、南陽のケツァルコアトルあたりか」


「どうして神様たちは姿を隠したのかしら?」


「人間が罪を犯したからとか、怪異の襲来に気づいて人間を見捨てたとか、色んな説があるけど……どれも証拠に欠けるんだよな」


「でも破滅の聖杯のことを考えると、神様は何か理由があってこの世界に居られなくなっただけで、本当はこの世界に戻りたがってるんじゃないかしら」


「だったら……悲しい話だな」


 故郷に帰りたくとも帰れない。それはとてもつらいことだ。もっとも、ネージュに宿った神格のようになぜこの世界に帰りたいのか、理由は神それぞれだろうが。


「もうかなり明るくなったな。早く戻ろう、ネージュ」


 社を後にする二人。目覚めを迎えた甲府の街が太陽を受けて輝き、眼下の家々からは煙が上がり始めている。


「そうね。お世話になっているのだし、お手伝いくらいしないと。今日のご飯は何かしら?」


▲▼▲

 

「「「「いただきます」」」」


 美味しそうな湯気を立てる炊きたてのご飯、フワフワのだし巻き卵、山菜入りの味噌汁に川魚の姿焼き。どれも家庭的で安心する味付けだ。


「このだし巻き卵は美味いな。灰月君に料理の心得があったとは」


「俺のはたしなみ程度ですよ。妙さんのお味噌汁には及びません」


「あらあら、嬉しいことを言って。もう少しお汁をオマケしましょう」


「すみません……おかわり、よろしいですか」


 遠慮気味にお茶碗を差し出すネージュ。あまりの美味しさに茶碗があっという間に殻になってしまった。


「大丈夫ですよ。遠慮せずにどんどん食べてください。年頃の子はたくさん食べて元気をつけないと。灰月君もですよ」


「俺はそんなに食べられないですよ」


 食べ盛りの仁だが、さすがに山盛りのご飯三杯目は食べきれない。一方、ネージュの胃袋にはすでにご飯四杯と魚三匹が消えた。一体、どれだけ食べられるのか気になるところだ。その栄養はどこに消えているのだろうか?


「ところで灰月君、今日はどうするつもりだ? 仕事が無いなら、甲府の街に出てみるといい。あそこは食べ歩きにはもってこいだ」


「食べ歩きですか。何かおススメってありますか?」


「やはり、『ほうとう』や『もつ煮』だな。美味いぞ」


「なるほど。ネージュは……」


「行く」


 どうする、と聞こうとした仁を遮り返事をするネージュ。あまりに食い気味な返事に仁は苦笑する。クールな口調だが、表情は明るく、口元をほころばせているのが可愛らしい。


「お二人はどうですか? 俺たちみんなで行った方が楽しいでしょうから」


「すまないが俺は報告書の作成をしなければならないので遠慮しておく。妙は二人と行ってきたらどうだ?」


「私がいないと、あなたお昼食べないでしょう? 私も残りますから、お二人だけで楽しんできてくださいね」


 そして、コホン、と妙は咳ばらいをして、


「それと、灰月さん。こういう時は人を誘ったりせず、二人だけで行くものですよ。少しはネージュさんの気持ちを考えてあげてください」


「は、はぁ。そういうものなんですか?」


「そういうものですよ。乙女心というのは」


 なぜそこで乙女心なんて言葉が出てくるのか理解できない仁。やはりこの男、色恋沙汰に関して壊滅的な感性をしている。いつか背中を刺されても不思議ではない……むしろ今まで背中を刺されていないのが奇跡なのでは?


「ネージュさん」


 目くばせする妙とそこから何かを感じ取ったネージュ。仁と征一は完全に蚊帳の外である。


「あの、征一さん。二人は一体何を話してるんです?」


「俺にも分からん。だが、仁、一つ教えておこう。女性の気を損ねるとロクな目に合わない。気をつけろよ」


「りょ、了解しました」


 財布の中身が軽くなる予感を感じながら、仁は征一の忠告に頷いたのだった。

 

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