五十五話『小さく、弱く、温かく』

 壁内部の詰所は最低限の明かりと設備があるだけで、リラックスできる空間とは言い難い。コンクリートむき出しの壁と窓の無い殺風景な部屋である。


「ようやく着いた……長かった。風呂が恋しい……」


「私も水を浴びたいのは同意見ね……少し汗臭いし」


 ネージュは泥で少し汚れた服の袖を匂う。仁は汗の匂いをそこまで気にすることは無いが、年頃の乙女であるネージュには死活問題だ。特に仁が隣にいる時には嫌でも気になってしまう。


 現在は一月六日午後十一時。野営の後、一日かけて甲府までたどり着いた商隊だったが、道中は激戦続き。怪異に囲まれ、押し寄せるの群れの真ん中を強行突破し、商隊に被害を出さないよう二人で殿を務めながらの行軍だ。

 モルテは商隊の討ち漏らしを倒すばかりで二人にはほとんど手を貸してくれず、二人合わせて一日で五百体近い怪異を討伐する羽目になった。ただし、三級怪異がいなかったのが唯一の救いだ。もしものことを考えると背筋に冷や汗が流れる。


「モルテさんが俺たちに実戦経験を積ませたかったってのは分かるが、もう少し援護してくれても良かったと思うけどな」


「でも、そのおかげで色々分かったような気がするの。体の使い方とか、戦場の見方とか。確かに厳しい経験だったけど、これが生かされる時は必ず来るはず」


「だな。前向きに捉えて、もうひと踏ん張りしますか」


 これから二人が向かうのは異端審問所の甲府出張所である。新門の設備と比べるとかなり小規模ではあるが、シャワールームや仮眠室が完備された、異端審問官の活動拠点の一つだ。そこにさえたどり着けばゆっくり横になれるはず。


「モルテさん、遅いな。下での連絡が長引いてるのか?」


「何か事件でもあったのかしら。下が騒がしいけれど」


 かすかだが、いくつもの軍靴の音が聞こえてくる。その歩調は小刻みで、走っているのだと分かるまで時間は掛からなかった。


「何を話してるんだ? ——『獣装ビースト・シフト』」


 本来人の耳では聞き取れないほど小さな話し声を、獣の耳は正確に捉える。もちろん聞き耳を立てるために異能を使うのは、褒められたことではないと仁も分かってはいるのだが。


「お疲れのところ申し訳ございません、モルテ閣下」


「どうした、威士塚少将。甲府駐屯軍の責任者自らお出ましとは」


「単刀直入に申しますと、お恥ずかしい話なのですが、今日の午後六時に軍の倉庫が襲撃を受け、備品を盗まれたのでございます」


「何を盗まれた? 新兵器の設計図か? それとも爆薬の類か?」


「そのことなのですが……おかしなことに携行火器用の弾薬だけが盗まれ、その他は手付かずでして。手際から考えて、襲撃犯は綿密な計画を立てていたのだと思われるのですが、そこまでして盗んだものが弾薬だけとは……」


「確かに妙な話だ。目的が読めんな。テロの事前工作という線も薄そうだ」


 軍から盗んだ爆薬で破壊工作を行うのはテロリストの定石だが、今回の事件はそれとは明らかに違う毛色をしている。弾薬は銃が無くては使えない、その逆も然りだ。事件を起こすためだとして、わざわざ銃は持ち込んだのに、弾薬を現地調達する合理性は無い。何らかの事件を起こす準備ではなく、弾薬を奪うことそのものに意味があったはずだ。


「襲撃犯の特徴は?」


「人相は分かりませんが、報告によると二挺の銃で武装した召喚師サモナーだとか。追跡を試みたところ、無数の飛蝗バッタの使い魔に阻まれ姿を見失ったそうです」


 二挺の銃に飛蝗の使い魔、そんな普通とはかけ離れた召喚師など仁は一人しか知らない。


「ハハッ、そうか」


 仁は笑っていた。襲撃犯がよく似た別人の可能性だってあるはずなのに、なぜか仁は確信できた。それが『煤日 ユウ』であることを。あの少年が生きているのだと知って、嬉しさがこみあげてくる。


「どうしたの、仁?」


「アイツ、やっぱり生きてやがった。そうだ、俺は信じてたからな、ユウが怪異に喰われて死ぬような奴じゃないって」


「ユウって、あの煤日ユウ?」


 ネージュの言葉に首を縦に振る仁。

 ネージュからすれば、直接知るユウの姿は自分を狙う組織の工作員としての姿だけだ。もちろん、仁からユウが自分を助けるために力を貸してくれたことは聞いているが、実感は湧かない。

 なぜユウがネージュを助けようとしたのか、その理由を彼自身を除いて知らないのだから無理もないが。


 しばらくして聞こえてきた二人分の足音に、仁とネージュは何もなかったことを装い、元の位置に戻る。すぐにモルテと征一の二人が詰所へと入ってきた。


「さて、聞き耳を立てていたようなので把握しているな?」


「気づいてましたか」


「当たり前だ。使徒を舐めるな」


 分厚いコンクリート越しの盗聴だったが、モルテには筒抜けだったようだ。おそらくは彼の能力の応用であるが、どうすればそんなことが出来るのか、仁にもネージュにもまだ見当がつかない。


「知っての通り、現在甲府は軍倉庫襲撃犯の調査を行っているわけだが、調査拠点の一つに甲府出張所も使われている。よって、現在捜査関係者以外立ち入り禁止だ」


「では、私たちはどこに行けば……」


「人の話を最後まで聞け、ネージュ。そこでだ、二人を征一大尉が邸宅に招いてくれることになった」


「あ、ありがとうございます」


「ですが、俺たちを連れて行って本当に良いんですか?」


「灰月君、それにネージュさんも、そう固くならないでくれ。賑やかな方が妻も喜ぶ。では早速出発しようか。すまないが少し遠い、我慢してくれ」


▲▼▲


「帰ったぞ」


 征一の邸宅は伝統的な極東様式で暖かい。一般的な家と比べると、将校らしく大きな家だ。


「おかえりなさい、あなた。あら? 後ろの方々は?」


「俺の客人だ。甲府にいる間はウチで面倒を見ることになった」


「それなら、お布団を出さないと。お二人とも、遠慮せずに入ってくださいな」


 促されるまま、玄関の敷居をまたぐ二人。そのまま居間へと通される。


「夜分遅くにすみませんね。俺は灰月仁で彼女はネージュ・エトワールって言います。新門から甲府までの道中で旦那様と出会いまして、商隊にお供させてもらいました」


「そうなんですか……ああ、すみません。名乗っていませんでしたね、私は『嵯崎 妙ささき たえ』。この度は亭主がお世話になりました。こんなに早く無事に帰ってこられたのはお二人のお力があったからでしょうね」


 そう言って軽く頭を下げる妙の姿は正に、将校の妻の鏡だ。黒い髪に黒い瞳と、特徴的とは言えない顔立ちだが、飾り気のない控えめな美しさと、その奥にしっかりと自信を感じさせる立ち振る舞いの女性である。極東撫子と呼ぶに相応しく、ネージュを見慣れている仁が綺麗な人だと思う程だ。


「少し待っていてくださいね。何か作りますから」


 奥の台所に消える妙。居間に残った三人はコタツに足を入れて暖を取っていた。やはり真冬はコタツに限る。ネージュは早くも眠たげに、青い瞳を瞬かせていた。


「ヤバい、睡魔が……そうだ、嵯崎さん。たしかお子さんがいらしたんですよね」


「ああ、今月の暮れに一歳になる。少し見てみるか?」


 と、眠りかけていたネージュが飛び起きる。彼女いつもクールな彼女にしては珍しく天真爛漫な表情だ。


「良いんですか?! 私、赤ちゃん見るの初めてで!」


「そうなのか。なら一度抱いてみるか?」


「はい、ぜひ!」


 居間の奥、障子の先で、すやすやと寝息を立てる赤ん坊の様子を伺う三人。ぐっすりと眠っているようで簡単には目覚めそうにない。


「ではまず、俺が手本を見せよう。そのあと、仁、ネージュの順で抱っこしてやってくれ。ところでどうだ、うちの子の寝顔は? 可愛いだろう?」


((親バカだ))


 抜き足差し足、ゆっくりと近づく征一。素早く赤ん坊の脇の下に手を回し、抱きかかえる。

 と、同時に閉じられていた瞳が開き、鳴き声が響き渡る!


「く、やはりダメだったか。眠っていればいけると思ったのだがっ!」


「どうするんですか! どうにか泣き止ませないと……」


「俺ではダメだ。いつも抱くたびに大泣きされる。くっ、仁、頼む!」


「ちょ、何で抱こうとしたんですか! ああ、もうッ! 大丈夫~怖くないよ~」


 小学生を狙う不審者のようなセリフを言いながら、必死になだめる仁だが、どう見ても逆効果。赤ん坊は仁の腕から逃れようと、全力でもがく。


「危ないから……って、目がぁ、目がぁ!」


 暴れる腕が目玉にクリーンヒットし、叫ぶ仁。役に立たない男二人の希望は、ネージュに託された。


「大丈夫、よしよし」


 ネージュの腕に抱かれた途端に鳴き声がやむ。赤ん坊はそのまま眠りの世界に帰っていったようだ。ネージュの胸に顔をうずめ、安心したように穏やかな寝息を立てている。


「すごいな、ネージュ。俺はあんなに抵抗されたのに……」


「さっきの仁は私も怖いと思ったから、赤ちゃんなら泣いて当然」


「うぐッ!」


 ネージュからの容赦ない一撃で心に大きな傷を負う仁。出来る限り、怖がらせないように気を付けたのに、無駄だった事実に泣きたくなる。


「あら、もう泣き止んでましたのね。さ、ご飯が出来ましたから、食べてください」


 遅れてやってきた妙が、微笑ましい光景に口元をほころばせる。

 赤ん坊を抱えるネージュは、まるで宗教画に描かれる子を祝福する女神のようにも、子供を初めて抱きかかえた普通の少女のようにも見えた。


「ネージュさん、あとは私が変わりますから。あら」


 ギュッと握られる袖。小さな腕は離れまいと、力の限りしがみついていた。

 妙が赤ん坊に触れると、力が抜ける。そのまま妙の腕の中に収まる赤ん坊。母親が一番落ち着くらしい。


「どうでした、抱っこしてみて」


「すごく、すごく温かかった……です。柔らかくて、可愛くて」


 小さく弱い赤子。親に見守られ、沢山の人に慈しまれる存在。自分にそんな人たちは居なかった。試験管の中で生まれ、沢山の人々に虐げられてきた。だからだろうか、せめて自分ようになって欲しくは無いと祈ってしまうのは。


「どうした、ネージュ? 早くご飯食べよう」


「ええ。そうね」


 それでも、ネージュの隣には灰月仁がいる。だから、前を向いて、彼と共に進み続けると決めたのだ。

 




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