四十七話『下らない朝』

 薫は呼び鈴を鳴らす。ピンポーン、と軽快な音がして、家の住人に来客を知らせるが、誰かがやってくる気配はない。


「まだ二人とも起きていないのでしょうか?」


「大変なことが続いたからね。こんな時間まで眠ってても無理はないさ」


 英士が腕時計を確認すると、時刻は午前九時。ただし、この空間の空模様は信長の気分によって決定されるために、相変わらず空には無数の星々が瞬いている。慣れない内は、長く眠ってしまうのも仕方のないことだ。


「それにしても大きな屋敷だね。僕の家の三倍はある。こんなに広いと、いくら仁でも掃除するのは大変そうだ」


「そうですね。使用人を雇うように灰月君に言っておきましょう」


「いいね。使用人は僕も好きだよ。メイド服のかわいい系も良いし、執事服の麗人も捨てがたい。夢が広がるなぁ」


「御門君、分かります。当家で雇っている使用人の方々の和風メイド服も捨てがたいですよ」


 ロマンを語る英士に珍しく薫が同調する。ちなみに、薫の家で雇われている使用人たちの服のデザインは薫が行っている。彼女は使用人たちに雇い主の立場を利用して、好みの服を着せているという訳だ。


「ああ、いけません。ここに来た目的を忘れていました」


 使用人談義に花を咲かせていた二人だったが、そもそも、ここに来た目的は仁を異端審問所へ連れていくためである。

 真っ黒に焼け焦げ、ボロボロだった仁のコート、それの修繕が終わったので彼を呼びに来たのだ。


「まったく、支部長もとんだサプライズを用意してるよね。僕は仁には新しいコートが渡されると思ってたんだけど」


「ですね。こういう所は見習いたい人なのですが……」


 目を細めて、苦笑する薫。良い所もあるが、悪い所の目立つ義父への評価は未だに出来ていない。一つ言えるとするなら、人の感情を揺さぶるのが得意と言うことだろうか。


 と、その時、玄関の扉が開き、乱れた髪のネージュが現れる。服も急いで着替えたらしく、青色のジーンズにサイズの大きいシャツを着ただけだ。服の隙間から藍色のキャミソールの肩紐が覗いている。


「ごめんなさい、二人とも。どうぞ、上がって」


 自分がどういう服装なのか、ネージュはあまりこだわらないが、本人が気にしていないからと言って、それを見た者もそうであるとは限らない。


「ちょっと待って下さい、ネージュさん! その恰好はいくら何でも……」


「え、何か変だった? 服が反対とか?」


「そういうことではなく……際どすぎるのではなかと。御門君もいますし、もっと整った服装でお願いします」


「あ、ごめんなさい。この服装、お客さんに失礼だったのね。少し時間いいかしら、着替えてくるから」


 ええ、と返す薫。ネージュは二人を玄関に通すと、二階へ上がっていった。

 静かな玄関に残された二人だが、間には気まずい空気が流れる。原因はネージュの服装のせいだ。


「薫、その、ネージュさんの服装さ……」


「何ですか、御門君」


「あれは、サイズが大きかったし、ネージュさんのシャツじゃない可能性が高い……デザインも男物だった」


「御門君、言いたいことは分かります。ですが、それはあくまでごく僅かに存在する可能性に過ぎません。まさか、灰月君がそんなことを。それに、彼は昨日ようやく目が覚めたのですよ。そんな元気はないはずです」


「いや、でも、人間の欲望は死に瀕した時に高まるって言うじゃないか! 仁だって男だ……たぶん。だから! 若さゆえの過ちがあるかもしれないだろぉ!」


 事の真相は呼び鈴で目を覚ましたネージュが、仁のシャツと自分のシャツを取り違えてしまっただけだが、二人はそれを知る由もない。

 おかげで、乱れた服装に彼シャツ状態のネージュを見た二人の勘繰りは、あらぬ方向に飛び立とうとしていた。


「ともかく、それとなく探りを入れてみましょう。判断はそれからでも遅くはないはずです」


「そうだね。仁がまだ遠い所に行ったと決まった訳じゃない」


 再び扉が開いて、ネージュ着替え終わったネージュが姿を見せる。彼女は二人の疑いを知る由もない。


「ごめんなさい、二人とも。さぁ、上がって」


 今度のネージュの服装は、二十五日の戦いの後に彼女を保護した異端審問所が与えた白を基調とした服を身にまとっている。きめ細かく色白の肌を持つネージュに調和し、その姿は正しく天使と言うに相応しい神々しさだ。


 ネージュと共に二階に上がる二人。リビングに通されると、そこにはコーヒーのいい香りが漂っていた。長机の傍に座る二人。


「今、コーヒーを用意するから少し待って。二人は仁の様子を見に来たの?」


「それもあるけど、異端審問所から彼に呼び出しが掛かっていてね」


「呼び出し……そういえば英士君はもう大丈夫なの? あなたもすごく重傷だったはずだけど」


 英士が魔素過剰オーバーエーテルになってしまったのはネージュも知っている。自分を助けるために命を賭けてくれたのは、仁だけでは無いのだ。


「それなら心配しないで、ネージュさん。確かに魔術は二週間使用禁止だけど、体の方は何ともないから」


「御門君、痛み止めで無理してるのに格好つけるのはどうかと思いますよ」


「なんでバラすのさ! 心配かけたら悪いじゃないか!」


「遅かれ早かれ、ネージュさんは気が付きます。変に繕わない方がネージュさんにとって楽だと思ったので」


 虚勢を張っていたことを明かされて狼狽える英士。一方で、薫の指摘も正しい。

 ネージュとしては、これ以上の迷惑を二人に掛けたくない。例え、それが二人にとって大したことでなくとも、だ。


 ネージュは淹れたてのコーヒーを二人の前に持ってくると、自身は柔らかなソファに体を預けた。


「ところで、ネージュさん。灰月君はまだ眠っているのですか?」


「ええ。……呼び出しがあるのは分かってるけど。でも、もう少しだけ、仁を眠らせてあげてほしいのだけど」


「構いませんよ。父も急ぎではない、と言っていましたし」


「彼、夜はずっと眠れなかったみたいだから」


 そう語るネージュにはすでに十分な貫禄がある。間違いなく十六歳の少女の雰囲気ではない、あと十歳足しても足りないほどのオーラだ。


「また悪夢ですか? ネージュさんを助けられても、そう簡単に乗り越えられるトラウマではないようですね」


「……? いいえ、昨日は私が仁を抱いて……」


「ちょっと待て!」


 声を上げたのは英士だ。頭の中の疑念が確定したせいで彼は今、冷静ではない。もっとも、それは思い込みに過ぎないのだが。


「おのれ、灰月仁! そうか、そうか、つまり君はそういうヤツなんだな! 美少女に一晩中、搾り取られたせいで爆睡とはいいご身分だ。今すぐ叩き起こしてやる!」


「御門君、人のプライベートを詮索するのは褒められたことではありません! まして、そこから嫉妬するなどと!」


「良家のお嬢様は黙っていてくれなか? 漢には譲れないものがある、例えば今がそうさ!」


 騒ぐ二人に、状況が分からず首を傾げるネージュ。またしても自身が誤解を招く発言をしたことを悟るが、すでに後の祭り。


 そして、またしても何も知らない灰月仁が扉の向こうから、誤解渦巻く修羅場へとエントリーする。


「ネージュ、朝から一体何を。ゴキブリでも……って、二人とも! 来てたのか。悪い、今すぐ着替えて……」


「仁、着替えなんて後で出来るとは思わないかい? そんな事より、今重大な話があるんだ」


 英士から放たれる威圧感に押されて、仁は床の上に正座。薫から向けられる視線も心なしか冷たい。


「仁、君は昨日、ネージュさんに抱かれた。そうだね?」


 仁の頭に鋭い痛みが走る。二週間前にも似たようなやり取りがあったような……デジャブというのだろうか。


「待て! 誤解だ! 俺はネージュと添い寝しただけで、やましいことはしてない!」


 自身の無実を叫ぶ仁。いや、添い寝の時点で有罪ではあるのだが、それでも仁はやましいことはしていない。ネージュに胸元を触られたりと、やましいことはされたが。


「そうですよね、灰月君もネージュさんも新居に引っ越したその日に……あんなことやこんなことをするほど節操無しではないですよね!」


「ええ、私も少し仁の身体を触っただけで……」


(ネージュ=サン⁉)


 うっかり口を滑らせたネージュに抗議の視線を送る仁だが、もう遅い。注がれる視線に射殺されそうだ。


「やっぱり、淫行に及んでるじゃないか。仁、僕がこれから君を全力で殴る。風紀の乱れを許すわけには行かないからね」


「こういう時だけ風紀守る側になるなよ! お前はいつも風紀を乱す側だろ!」


 と、仁に襲い掛かる英士の四肢を風が拘束する。だが、風ではいくら療養中とはいえ、英士を完全に止められはしない。


「邪魔をするな、薫!」


「私が、この色ボケドラゴンを押さえておきます。今のうちに逃げてください!」


「悪い、ありがとう!」


 獣装ビースト・シフトを使い、部屋の窓から夜の世界へ駆け出す仁。こんな下らないことで異能が役に立ってしまったことに苦笑しつつ、立ち並ぶ家の屋根から屋根へ跳ぶ。

 大きな通りの上空を横断し、塀と塀の小さな隙間をすり抜けて、灰月仁は城下町を駆け抜ける。


「そろそろ英士も落ち着いた頃だろうし帰ろうか」


 自分の走ってきた方を見ると、自宅が見えなくなっていた。現在地は城下町のはずれ、ずいぶんと遠くまで来てしまったようだ。


「帰るまでに、英士をどうにかする方法を考えないと……」


 仁がこれからのことを考えながら引き返そうとした時、下の方から声がした。


「おや、寝間着のまま屋根を走る少年とは。これは珍しいものですな」

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