四十一話『伸ばした手の中』

「どこだ……ここ」


 見慣れない天井が仁の視界に飛び込んでくる。漂う消毒の匂いから、ここが医療施設なのだろうと理解するまでに時間はかからなかった。


「待て、また夢オチじゃないだろうな。もしくはここが夢とか」


 消毒の匂いとベッドによってネージュに出会わなかった夢を思い出す。ここが夢の中なんじゃないかという不安が心の中で暴れだすのは当然の事。

 が、それは自分の右手を通して伝わってくる温かさを感じた瞬間に霧散した。


「……ネージュ」


 目元を赤くして仁に寄り添いながら眠る彼女の頬を仁は撫でる。色白で美しい彫刻のような彼女の肌の確かな温かみが随分と久しぶりに感じられた。

 もう二度と触れられないかと思っていたこの温もりは絶対に夢ではないと確信できる。


「少しこのままにしておこうか」


 ベッドの涙の跡はもうほとんど乾いたようだが、まだ少しだけ湿り気が残っている。少し前まで泣きながらここにいてくれた彼女に仁は安らげる時間をあげたかった。

 仁は窓の外に広がる闇を眺めて、一か月間に起こったことに思いを巡らせる。


(ネージュに出会って、最初はお互い険悪だったな。起きてすぐに殺されそうになったし)


 ただこれに関しては仁も彼女が起きる前に殺そうとしていたのでお互い様だ。


(でも、それから助けられたり、助けたり、いろんなことがあって)


 思いもよらないことの連続で仁の人生は大きく変わった。それが良い方向かは分からないけれども。


(あ、壊した寮や教室の修理代……どうしよう。と、とりあえず後で考えるか!)


 急に思い出した現実的な問題に頭を抱える仁。落ち着いて考えると色々と問題は山積みで悩みは尽きないが、それは一旦置いておいて窓の外の景色に現実逃避する。


「……仁」


「誰かに寝言で名前を呼ばれるのって恥ずかしいな」


 吐く息は荒く、うなされているネージュの背中に手を当てようとする仁だったが……


「死なないで、私をおいて行かないで!」


「もがッ!」


 突然起きたネージュに頭突きを食らい、頭にダメージを受ける。怪我が治りきっていないからか、いつもの何倍も痛い。


「痛い……安心させようとしたのにこの仕打ち……マジで痛い」


「待って……仁⁉」


「待つも何も、ネージュが俺の手を握ってるからどこにも行けないんだけど」


「あ、これは現実? そうね」


 勢いよく自分の頬を叩くネージュ。あっけにとられて仁は見ていることしか出来ない。


「痛いということは現実のはず。良かった、仁は生きてるっ!」


「いやいや、どういう確認法だ! そんな古典的なやり方しなくても!」


 いつものテンションでツッコミを入れる仁にネージュは潤んだ瞳を向けて——彼を押し倒すようにして抱き着く。


「ちょ、ネージュ=サン⁉ あの、こういうのは、ここは病室で!」


 この部屋にいるのは仁達だけだが、だからといってネージュの行動は問題だった。仁の理性が試される的な意味で。

 全身がネージュのぬくもりで包み込まれ、豊かな胸が押し付けられる。荒く艶っぽい吐息が直に鼓膜を震わせるのが心臓に悪い。これで変な気を起こすなと言う方が無理な話だ。


(なんで俺はネージュに守られたり、お姫様抱っこされたり、押し倒されたりなんだッ! いや、そんな事より耐えろ、平常心!)


 なんて思っていたのも初めの二分くらい。十分も経てば仁はすっかり状況になれてしまった。彼は仙人の素質があるのかもしれない。


「ネージュ、あの、そろそろ放してくれないか。誰か入ってくるかもしれないし」


「……嫌。もう少しだけ、このままでいさせて」


 何も言わず、仁はネージュの背中に手を当てる。思えば灰月仁が誰かを抱きしめたのも、抱き合ったのもネージュが初めてだった。


「満足したか?」


「ええ」


 あれから更に十分間ほど抱き合っていた二人だが、ふと気恥ずかしくなって離れたのが現在だ。二人とも顔は平静を装っているが、耳は薄赤く染まっていた。


「あの、仁」


「……なんだ」


「私、言いたいことがあるの」


 仁が眠っていた三日間、ずっと言いたいと思っていたこと、言わなくてはと思っていたこと、それを口にするためにネージュは勇気を振り絞る。


「ごめんなさい。私があなたを置いて行ったこと、とても傷つけてしまったと思うから」


 それからは簡単だった。


「私があなたの前に現れたことで、こんな事件に巻き込まれて」


 ひどく矛盾していると思う。少し前まであんなにも仁のことを求めていたのに、離れてほしくなかったのに、今度は仁から離れようと必死になっている。そんな矛盾した心にコントロールが効かなくておかしくなりそうだった。


「私がいたことであなたに沢山の辛い……」


「君がいてくれたおかげで、俺はこの一か月間、人生で一番幸せだったよ」


 どれだけネージュが自分を否定しても、それを打ち消すくらい仁が彼女を肯定する。彼女が一人で消えようとしても仁が必ず助け出す。もう二度と仁はネージュを一人にさせるつもりは無いのだから。

 気恥ずかしさから顔を赤らめるネージュ。それは恋する乙女の表情だ。


「あのさ、俺からも言いたいことがあるんだ。さっきみたいな事したりさ、思わせぶりなこと言ったりするのはやめた方がいいと思う。ネージュはさ、その……かなり可愛いから」


 心臓に悪い、と小声で付け加える仁はネージュからの好意に全く気付いていない。いわゆる『朴念』というヤツだ。それと思わせぶりなセリフを言うのは、仁に完全にブーメランである。


(こんなこと、あなたにしかしないのだけど? でも可愛い、可愛い、ふふっ)


 口元をほころばせるネージュ。今まで冷静でクールな雰囲気のネージュだが、少しだけ年相応の少女らしい明るさも合わさった雰囲気に変わっていた。


「あと、こういう時は『ごめん』なんかよりも『ありがとう』だろ? 謝られるより感謝される方が人は嬉しいからさ」


 仁はそう言いながらポケットから白い長手袋を取り出してネージュに握らせる。ネージュは嬉しそうに恥ずかしそうに下を向いて体を揺らしていた。

 その時、窓から眩い朝日が差し込み二人を照らす。日の光の中で輝くネージュの美しさに仁は眼を奪われた。


「仁、ありがとう。私を助けてくれて」


 飾らない言葉と飾らない笑顔、仁は自分はこれを見るために生まれてきたのではないかと思える。

 そして、仁はこの世の何より美しいネージュを忘れられないように心へと焼き付けた。


(俺、救えたんだな)


 十年前、全てを見捨てて逃げることしか出来なかった自分が、目の前の少女を、ネージュを理不尽な運命から救い出せたと分かって涙が溢れる。

 仁は泣きながら心の底から、思いっきり笑った。


(もう俺は大丈夫。折れかけても最後には立ち上がって前に進めるはずだから)


 これはただの始まりに過ぎず、困難なことが多く待ち構えていると仁は分かっている。それでも、ネージュが共にいてくれたならどんな理不尽にも立ち向かっていける気がした。


 もう一度ここから灰は舞い上がる。

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