終章 『戻る道なし』1998年12月25~28日

四十一話『それぞれの旅路』

 カレンは、飛行船の狭苦しい部屋の中で硬いベッドの上に寝転がりながらため息を吐く。新門の自室とは似ても似つかぬ、重苦しい空気が戻ってきた。これからまた、この世の底辺を煮詰めたような消耗品同然の扱いを受ける生活が待っている、と嫌でも理解させられる。


「私も仁の味方になれれば……過ぎたことか」


 ありえない妄想だった。命をどう使うかの自由などカレンには無い。組織の命令に背けば体に刻まれた魔術が命を吹き飛ばす。たとえどれほど仁の力になりたくとも、彼女に出来るのは命令に背かない範囲のことでしかない。


「でもアイツは結局、仁の味方になれたのか」


 煤日ユウ、『御名殺し』の名で知られる少年の姿が脳裏をよぎった。自分の無力さを呪ってカレンはベッドのシーツを握る。


 この世界で生きていくには才能か、運か、あるいは努力、そのどれかが必要だ。

 だが、この理不尽な世界で自分を貫こうとするなら天から与えれた才能と類まれな豪運、命を賭けた努力の全てが必要、それをカレンはよく知っている。


「私には何が足りなかったのだろうか」


 ネージュと自分は何が違ったのか、そんなことを嫌でも考えてしまう。救いの手を差し伸べられるには何が足りなかったのかと。


「いいや、違う。多すぎるんだ、私は」


 生きるために人を殺した。新門でスパイをしていた分、同じ工作員で見れば少ないだろうが、殺しすぎてそんなことはすでに意味を成さない。

 悲劇の運命に翻弄される罪なき少女に差し伸べる手を持つ者は多い。だが、自分の意志で殺した人間の血で赤く染まった手の少女に手を差し伸べる者はいない、それだけのこと。


「初めは私もそうだったはずなのに、な」


 大人の都合でこんな姿にされた被害者の少女はいつしか自分の都合で人を殺す加害者に堕ちてしまった。その始まりは燃え盛る街で死にたくないと悪魔の手を取ったあの瞬間からだ。


「何の音だ。まるで竜が鳴いているような、力強い響き……」


 暗闇の中で狐の耳は音に敏感だ。遠くで聞こえる不思議な音に立ち上がり、窓の外を眺める。


「あれは……光の柱?」


 新門の方角で雲を切り裂き、天へと昇る竜を思わせる光の柱が見えた。


「今まさに、戦っているのか」


 思わずカレンは光の柱に向かって祈っていた。

 今更、善人を気取るなと言われれば言い返せないし、言い返すつもりもない。

 それでも、自分のこの祈りで何かが変わるのなら、悲劇を変えたいと叫ぶ少年に一かけらでも力が湧くのなら、とひたすらに。


(せめて、仁とネージュだけでも救われますように)


 あるいは、ここでカレンに窓を破って外に飛び出すことを選ぶ勇気があれば、選ばれなかったヒロイン狐火カレンの人生は変わっていたのかもしれない。


▲▼▲


 新門の外壁の上、ゴウゴウと吹き付ける冬の風がユウの頬を撫でる。


(灰月はやり遂げたようだな。オレもそろそろ逃げるべきか)


 視界の先、吹き荒れていた氷の刃が収まるのを見てユウはそう呟く。その表情は工作員になってから、誰にも見せたことのない澄んだ笑みを浮かべていた。

 自分には出来なかった。それでも、仁のようなヤツがいるんだと、この理不尽な世界も絶望するには早いのだと見せつけられた、そんな気がした。


「が、その前に一つやらなければならないことがある」


 ユウは余ったアンプルを使って、全ての使い魔を召喚する。数は三十以上、魔素消費が普段通りに戻ったとはいえ、長くは持たない。いつもならこんな大規模召喚は早く終わらせてしまいたいが、この瞬間だけは一瞬でも長く使い魔たちの顔を見ておきたかった。


「皆、今まで世話になった……ありがとう」


 一番短くても三年は付き合いのある使い魔たち。思い出と呼ぶほど綺麗な記憶ではないが色んなものを一緒に見てきた。


「オレはもう工作員じゃない、殺しをする必要は無くなった。これからは戦うことは無い。だから、お前たちは自由だ。ずっと付き合わせて悪かった」


 これまで使い魔たちと繋がっていた魂のリンクを切り離はなされていく。自分の中から一つずつあったものが無くなっていく感覚に柄にもなく寂しさを感じた。

 解放された使い魔たちが青い光の粒になって消えてゆく。もともと死にかけの存在に血を分け与えることで延命していた者達が殆どだ。契約を切ればそこで先延ばしにしていた死がやってくる。ただ、消えていく者たちの顔は穏やかで満ち足りた表情をしていた。


「で、残ったのはお前らか。あの日から、ずっとありがとう」


「何言ってるのか分からないけど~ウチらはずっとご主人様のそばにいるよ~」


「おい、せっかくオレから解放されたのに何言ってんだ」


「お言葉ですが、主殿。妾たち使い魔一同、主殿の血を自らの意志で受け入れ貴方様に付き従ってまいりました。ですから、これも妾の意志。あの日、助けて頂いたご恩をお返しするためではなく、妾が主殿に付き従いたいがためであります」


「あーもう。分かったよ、勝手にしろ」


 ぶっきらぼうに返事をしながら少しユウは呆れていた。彼女たちはユウについてくると確信めいた考えはあったがそれでも嬉しかったのだ。

 二匹の鬼を管の中にしまい、ユウはこれから向かう壁の外に目を向ける。どこまでも広がる世界に新たな一歩を踏み出す。


「向かうは西だな」


 何をするかは決めていない。むしろどこかにたどり着く前にこんなボロボロの状態では野垂れ死んで怪異のエサになる可能性の方が高い。それでも、


「じゃあな、灰月仁。生きていればまた会おう」


 また会えたのなら、今度は友人として出会いたいと、そう思った。


▲▼▲


 『破滅の聖杯』を巡る一件から三日、異端審問所は街の復旧と周囲で活発化した怪異の討伐に追われ、極東帝国政府や異端審問所本部への事件の報告は後回しになっていた。それ以前に極東支部も事件についての書類をまとめ終わったのはつい二十分前のことだが。


「以上が今回の正式な報告となります。……全てはお父様の筋書き通りの結末でしょうか? 一体、この新門の街にこんな被害を出してまで、そこまでして何を手に入れたかったのですか?」


 支部長は少し下を向いて考えている様子だった。言葉を慎重に選んでいる、薫もそんな父の姿は片手の指で数えられるほどしか目にしたことは無い。


「希望、と言うべきであろうな」


 独り言のように呟かれた一言が静まり返った執務室に響く。薫は呆れを見せつけるために大きくため息を吐いた。


「奇跡的に死者は出ていませんが、御門君は過剰な魔素に充てられたことで二週間は魔術を使えず、灰月君に至っては命の危機は乗り越えたものの、いつ目覚めるか分からない状態が続いている。——ふざけないで頂けますか、お父様!」


 冷静に話すように心がけていたつもりだが、抑えきれずに怒りが表に出てしまう。せめて組織の長としての責任を感じられる答えが返ってきたのなら抑えられたのかもしれない。


「我に声を荒げるとは珍しい。成長したな」


「——っ。真面目に取り合う気は無いようですね。ではこれだけ最後に聞かせてください。今回の事件、どこからが想定外ですか?」


「気付いていたのか、ますます喜ばしい。——全てがそうだった。だが今や全てが想定内。十年前に外れたレールはそれ以上の理想的な状況となって暗闇の中に向かっている」


 支部長の顔を見れば、この言葉が言葉通りの意味しか持たないと考える者はいないだろう。

 今回の事件の裏にあるのが陰謀であれ、野望であれ、より大きなものであったとしても巻き込まれるべきものでは無いのは確かだ。


「お答えいただきありがとうございましたっ!」


 薫は執務室から出ると、勢いよく扉を閉める。


「どうだい、支部長の答えは。その様子だと納得はしてないみたいだけど」


「ええ、あんな妄言を聞かされて納得できる人なんていません」


 静かに怒る薫に壁に寄りかかる英士は爽やかな笑みを浮かべる。魔素過剰オーバーエーテルで今も体中が痛みを発しているはずだが、彼の表情からは我慢をしていることさえ読み取れない。


「煤日君を捕えていれば、彼の口から情報を得られたのかもしれませんが」


 薫はユウを取り逃がしてしまったことに対する不甲斐なさを口にする。あの状況で正面戦闘が専門でない彼女には荷が重すぎることではあるのだが。


「あまり自分を責めない方が良いよ。僕たちは出来る限りのことをして、なんとか新門は危機を免れた。それを誇ってもいいんじゃないかな」


「……そうですね。それはそうと、なんで病室から抜け出してるんですか、御門君?」


「はは……大目に見てくれたりは」


「しませんよ。さっさとベッドに戻ってください。治す気がないんですか!」


 廊下からわずかに聞こえる声を楽しみながら、支部長は十年前からとっておいた秘蔵の酒の封を切る。職務中の飲酒は咎められそうな行為だが、酒に酔えない彼にとっては関係のないことだ。むしろ、こんな素晴らしい日に酒を飲まない方がどうかしているとさえ思う。


 窓の外に広がる宵の濃紺の空が白み始め、この空間に久々の夜明けがやってくる。


「さて、十年前、運命から解放された少年が、たった一人の少女を救うために自らの意志で運命に舞い戻った。なんと愚かで尊いことだろうか」


 支部長は空に浮かぶ月に向かって盃を掲げる。


 夜明けの月は日の光を受けて、灰色に輝いていた。


「では、灰月仁に乾杯を」


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