四十話『それでも少年は手を伸ばす』

「ここまで来たのに、こんなところで終わりだというのですか、ネージュさん! みんなあなたを助けるために戦っているんです! 少しくらい力を貸してくれたっていいじゃないですか!」


「そのネージュという人間はもういない。私と溶けて一つになったの」


「んな訳ない。ネージュは、君はまだ……そこにいるんだろ?」


 血を吐きながらそれでも仁はその言葉を否定する。彼の眼にはまだ煌々と意志の炎が燃えている。


「神出、オレにアンプルを三つくれ。時間を稼ぐ。オマエは残りのアンプルを全部使って灰月をできる限り回復させることに全力を注げ。あとは御門の切り札、アレ次第だ」


 受け取ったアンプルの内二つを一気に投与するユウ。魔素容量が常人の二倍以上ある鬼人でも受け止めきれない魔素が体の中で暴走し、心臓が張り詰め、目まいを引き起こす。がそんなことを気にする余裕はない。


「あまり使いたくないが……オレの奥義、しっかり目に焼き付けろ——『血鬼咆哮ブラッドレイジ』!」


 本来は魔素回路エーテルラインにしか流れない魔素を血液へと溶け込ませ、全身にめぐる魔素量を大きく引き上げ、召喚術師としては破格の身体能力を発揮する。だが代償として全身の神経過敏を引き起こし、一撃でも当たれば痛みで動けなくなる諸刃の剣。

 悲鳴と雄叫びが混じりあった咆哮と共にユウは戦う。立て直す時間を一秒でも稼ぐために。

 だが、完全となった天使の攻撃は威力も精度も速さも、全ての次元が違う。


(それでも、オレだけに目を向けさせろ。魔素エーテルも命も、賭けられるものは全部賭けろ!)


「どうしてあなたたちは抗うの? 全てはいつか無に帰すのに」


「知らねぇよ! オレはただ、運命に立ち向かうバカ一人に追う資格のなくなった夢を託すだけだ!」


「そう。消えて。————、—————、———————————」


 天使は高く空に駆け上がると、人には理解できない、冒涜的な言葉で詠う。

 空に立ち込めた分厚い雲を引き裂きながら現れるのは、逃れられない死の宣告。区画一帯を破壊しつくす巨大な氷柱。


「抗えばいい。けれど死は、平穏は、救済は、誰にでも、どこにでも、何をしていても、平等に降り注ぐ。たとえ一度退けようと、何度でも」


 落ちる氷柱は、さながら審判を下すガベルのよう。これに立ち向かえるものなどいるのかと思えるほどの圧倒的絶望、その顕現。

 それでも無辜の民が傷つけられるというのなら騎士は、御門英士はいつだって、その厄災に立ち向かう。


「今は遠く、されど確かにこの胸に。我が聖剣は苦難を薙ぎ、全ての民を照らすもの。名もなき者、力なき者、しかし確かに毅き心をかざし騎士たるために戦うあらゆる者を言祝ぐ我が聖剣よ。今ここに我らが征く道を開かん!」


 英士は謳う。自らの理想の在り方を。本来ならこの奥の手でも襲い来る氷柱を打ち砕くことは出来はしない。だが今なら、魔素は尽きることなく、騎士が立ち続ける限り、終わりは訪れない。


「——『勝利を齎す烈輝の夢想剣エクスカリバー』」


 凪いだ声と共に剣から百の灯りを束ねたと思わせるほど眩い光が放たれる。一度限りの、騎士魔術の原点となった騎士王の全力にも届き得る一撃が、夜明けを告げる鐘の代わりに氷の砕け散る音を響かせながら夜を切り裂く。

 放たれる超高密度の魔素によって空気がかき乱され、余波ですら途方もない威力の攻撃として襲い掛かる。氷柱とぶつかった光は小さく分かれて新門の空を覆っていた雲を全て薙ぎ払った。


「これは、まずい」


 天使は翼を盾にするが、為すすべなく吹き飛ばされる。翼はヒビが入り、それでも防ぎきれない威力が体を押しつぶそうとする。


「ここは」


 吹き飛ばされてたどり着いた先はどこかの工場。天使は翼を修復しようとするが力が言うことを聞かない。

 力が不安定になっていることへの疑念が来る前に、天使は広がる光景に意識を奪われる。


「この景色を見るのは……今のは何?」


 頭上で燦然と輝く星空を見た時、不意に自分のものでは無い言葉が湧いた。同時に光輪に小さなヒビが走っていることに気が付く。


「この体の意識か!」


 そして驚きをかき消すように、軽やかな動きで一人の少年が天使の前に降り立つ。


「まさかここに戻ってくるなんてな」


 剣槍を持った少年は目の前の存在、その中にいる少女を見つめる。彼はきっと自分の声が彼女に届くと信じているから。


「あなた、そんなにこの体が大切?」


「語弊を招く言い方はやめろ。俺はただ」


 冗談を交え、精一杯強がる少年はそこまで言って言葉を止めた。伝えたい想いは決まっている、けれどそれに名前をつけるのは恥ずかしくて、だからちょっとだけ卑怯な言い方をする。


「そうだな。俺の大切な人を返してもらいにきただけだ」


 瞳と瞳が重なり合って、その奥で何かが揺れた。少年は瞳の奥の彼女に届くよう、声を張る。


「ここで君は殺されることを願った。でも君自身が一番わかってたはずだ、俺はそんなことしないって。それでも俺が君を憎めるように、そう言ってくれたんだろ? だけど、その時の俺は君の思いなんて分からなくて何もできなくて、どうしようもなかった」


 力があっても振るい方を知らず、ただ叫ぶことしか出来なかった少年。世界なんて理不尽だと受け入れそうになった。


「——けど今は違う。みんなの力を借りて、諦めずに俺はもう一度君の前までたどりついたんだ! こんなどうしようもない悲劇バットエンドのまま終幕エンディングにさせないために、もう一度ここまで来たんだよ! だから運命なんて捻じ曲げる、そして」


 今まで積み上げてきたもの全てが、悲劇を覆すチャンスをくれた。彼一人では決して成し得ず、彼が居なければ生まれることもなかった道、その最後の分岐点に彼は今立っている。


だから、


「俺が、君の希望を取り戻す!」


 確かな誓いと共に灰月仁は剣槍を構える。天使はもう一度、空へと浮かび上がる。

 仁の足元で地面が、天使のそばで雪が、爆ぜた。

 氷の嵐が吹き荒れる。仁は嵐を避けない、正面から飛び込んでゆく。一瞬でも早くネージュを助けるために。


「希望? そんなものなど誰を助けることもできない綺麗事に過ぎないっ! 人は皆、希望の中で生き、絶望の中で死んでいく。最後に残るのは絶望だけなの!」


 天使は絶叫する。慈悲深いからこそ救えない人間の愚かさに絶望して。

 仁も天使の考えは分からなくはない。十年前のあの日、死んでいった人たちは間違いなく絶望していた。だから頭では天使の言うことも一理あると思う。

 でも、仁はそんな理不尽な理が、絶望だけが全てだなんて思いたくない。だから、全力を超えて走って、心をぶつけて抗おうとする。


(もっと、もっとだ。限界まで力を貸してくれ、ヴァン!)


 踏み込むたびに足に命の赤が滲む。負荷に耐えられない関節が外れては元に戻って、空気に押されて骨が軋む痛みを感じる。それでも仁は止まらない。

 限界まで強化され血走った眼に映る光景は時間が止まったようで、強い衝撃があった後、気が付けば音が世界から消えていた。


(行く手を阻むものは、俺が全て薙ぎ払う!)


 剣槍が舞い、刀身が氷を打ち砕き、余波で氷の軌道を逸らす。鋼が打ち合い、この世界でもっとも美しい、ガラスの壊れるような音が鳴りやむことはない。少女に届くまで少年の加速が止まることなどありはしない。

 飛んでくる氷の武器を足場にして希望の怪物灰月仁は空を駆ける。その姿はまるで、夜空を裂く雷のように。


「——『獣装・神焉ビーストシフト・ラグナロク』‼」


 踏み込みと同時に足が砕け、一瞬もなく、仁は天使の光輪に全力の一振りを叩き込む。

 手ごたえと共に右腕がおかしな方向にねじ曲がり、ガキィン、という音の後に剣槍が手から離れて飛んで行く。


 だが、光輪は無数のヒビが入り今にも崩れそうになりながら、かろうじてその形を保っていた。


 仁の首に伸びる天使の腕。掴まれると、獣に変化していた仁の四肢が人へと還る。


「言った通りでしょう? あなたも絶望の中で死になさい」


 首が締まり、意識が遠のく。それでも、仁はゆっくりと右の拳を振り上げる。仁の眼はまだ諦めてなどいない。


(意識が、こんなところで……まだ!)


 不意に首を絞める手から力が抜けた。


(なんだ⁉)


 目の前の瞳に輝くのは紛れもないネージュの意志。そのわずかな間だけ、仁の目の前にいるのは見知ったネージュだった。


「無駄……」


 ネージュから体を奪い返し、再び力を込めようとする天使。が、それは一瞬遅れる。

 地平線から昇る太陽、その光を背に受けて輝く灰月仁に怯んで。


 初めにあったのは悲劇の運命を背負った少女が自分を犠牲にして世界を救う物語だったのかもしれない。だが彼女は一人の少年と出会った。そして少年は救われたいと願っている少女が泣いたまま終わるのを許せなかった。


 だから、これは運命から外れた少年が、悲劇のヒロインにしかなれない運命に囚われた、たった一人の少女を救いたいと想って継ぎ足した物語。


(ここに来るまでに沢山支えられてきた。俺だけじゃ絶対にたどり着けなかった)


だからこそ少年はその右手を握る。最後は自分の手で、この悲劇を変えるために。


 痛みはある、


 それでも少年は手を伸ばす。


 取るに足らないものだったはずの一撃で光輪は完全に崩壊する。天使の背中の翼が少しずつ雪へと変わり、二人はゆっくりと落ちてゆく。

 仁はネージュを左腕で抱きしめる。彼はその手を倒れこんだ後も離さなかった。


「救え……」


 言い切らぬままに意識が遠のき、仁は雪と朝日に包まれながら深い眠りへと落ちた。

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