三十八話『審判の星』

(寄り道なんてしなければ良かった、いえ、結局は壁を超えるまでには動けなくなっていたでしょうし、何も変わらないわね)


 ネージュは体が少しずつ得体の知れない強大な何かの一部に浸食されてゆく感覚を味わいながら、半ばあきらめたように冷静だった。


(ああ、でも最後がこの場所で良かったのかもしれない)


 仁がネージュを見つけたというこの場所にたどり着いたのは、きっと彼女にとって一か月ほどの短い人生最後の、この上ない幸運だと思えた。この場所にいるだけで、ここにいるはずの無い彼が隣にいてくれる気がする。


 自分は意識の底で眠りについて、代わりに誰かが自分の身体を乗っ取る、そして自分は再び目覚めることなく殺される。最悪な最期なのだと思う、それでも仁との日々を思い出すだけで、そこで感じた幸福の対価なのだと思えば受け入れられた。


(あなたはどうして私の身体が欲しいの?)


 体の中を侵食する感覚の主にネージュはそう問いかける、が答えが返ってくることはない。相手に彼女の声が届いていないのか、それとも無視されているかは分からない。


 だが、ネージュは感じるのだ。冷たくなっていく感覚でも鮮明に焼け付く、言葉にならないほど激しく煮え立つ悲しみを、怒りを、慈愛を、そして底の見えない絶望を。

 整理できない剥き出しの感情の濁流が自分の中に入ってきて、どこに自分がいるのか、どれが自分の感情なのか分からなくなりそうになった。


(大丈夫、まだ思い出せる。仁と過ごした私は……)


 これが何度目の問いであったのかをネージュは覚えていない。気が付けば、仁以外の全てを思い出せなくなっていた。


(私は誰? どれが正解なの? 思い出せない)


 思い出そうとすると、沢山の名前が浮かんでどれが自分の名前なのか分からなくなる。飲まれて自分とそれ以外との境界が曖昧になって意識が溶けてゆく。さながら、海に一滴の真水を落とすように、自分以外のそれが自分を染め上げて、自分が誰かと一つになって消えてゆく。


(そうだ、私、仁に謝らないといけないんだった。私を殺して、なんて言って、あなたのためを思ってたけど、それは私の勝手で、そんなことをしてもあなたは笑えるわけないのに——そんなこと、私は良く知っていたはずなのに)


 そしてネージュの中で仁との思い出が壊れる。彼の声が、姿が、体温が、彼を思い出させてくれるものが消えてゆく。


(あの時私を怖がりながらも手を差し伸べたあなたは、力もないのに私を守ろうとしてくれたあなたは、灰月仁は、誰かが不幸になるなんて許すはずがないもの。きっと私に出会ったこと、助けられなかったことをあなたは一生引きずっていく。あなたに傷を遺して消えてしまう。こんな私を許さなくていい——ごめんなさい)


 最後に生まれた後悔だけはしっかりと握って離さないまま、少女は深い意識の海へと沈んでゆく。そして、消えゆく少女を埋めるように、別の何かがゆっくりと目覚める。


「この感覚、久しぶりね。でも、完全に私を受け入れることのできた体はこれが初めてかしら」


 そこにいるのはネージュではない。それを模したモノ、中身の入った神の受け皿、真の意味での『破滅の聖杯』そのもの。まだ天使の輪が完全に顕現していないにも関わらず神の力を振るう大厄災。


「神の器を作り破滅を望む愚かな人類……この時より、終わりを始めましょう」


 空へ高く浮かぶと『破滅の聖杯』いや、天使は街に向かって右手を向ける。殺気も戦闘に必要な感情は何一つない動きに合わせて冷気が集まり、とてつもなく巨大な氷の杭が形作られてゆく。


「何も知らず、苦しむこともない。せめて何も分からぬ穏やかな救済を」


 ネージュは正しい。『灰月仁』という少年は誰かが不幸になることが許せない。だから彼は来る、少女の涙を拭いに。


「させるかぁッ!」


 仁は跳躍する。そして剣槍の柄で空に浮かんだ天使の翼に一撃を叩き込み、勢いよく下の地面へと吹き飛ばす。

 が、天使は空中で魔術なしではありえない軌道で体勢を立て直し、一粒の雪も舞わせず地面へと降り立つ。


「あなたは誰? この私に抗おうというの?」


「少し早かったか。でもネージュじゃないな。彼女はそんな冷たくて絶望しきった眼つきじゃない。さっさとネージュを返してもらう」


「あなたはこの体の持ち主の知り合い?」


 そこに風を纏った矢が飛来するも、空中に突然現れた分厚い氷の塊によって防がれる。天使は矢が飛んできた方に目を向けることもなく、灰月仁だけを見ていた。


「そうだ。ネージュは……」


「そう」


 仁が後ろへ大きく下がると同時に、地面から氷の大棘が突きだす。巨大すぎるそれは捕まれば体に穴が空くでは済まされない、人体など大砲で撃ち砕かれるように粉々になる。明らかに人に使うものでは無い破壊力を持った一撃だ。


(避けられた。次は……あの時翼を攻撃したのは、この体を傷つけたくないから?)


 天使は身の丈を大きく超える二振りの大剣を生成、仁へ振り上げながら突撃する。が、それは無駄に大ぶりな攻撃。一撃目を最小限の動きで避けると、仁は二撃目を放とうとする大剣に一撃を入れようと剣槍を振るう。

 そこに割り込まれるネージュの身体。


「——ッ!」


 体勢を崩しながらも、仁は手を逸らし、剣槍は天使の身体を掠めるだけに留まる。しかし、仁に無慈悲にも振り下ろされる二撃目。


「ブーストチャージ!」


 仁の頭が氷の大剣で真っ二つに割れる瞬間、割って入った英士の盾で氷の大剣が根元から粉々に砕け散る。


「仁! 先行しすぎだ! 僕が間に合わなかったら死ぬところだったじゃないか!」


「悪い。ついあの攻撃を止めようと……それより今の攻撃、魔術防壁を貫通してる」


 天使から針よりも鋭く、鉄球よりも大きく、銃弾よりも速い氷の粒が殺到する。英士は盾を構えることもなく、飛来した凶器は英士の周囲に再展開された魔術防壁によってあっけなく崩れ去れる。


「硬い」


「さすが神、いや天使様。会話の途中に攻撃とは容赦がないね」


 大きく距離をとった天使は、先端を尖らせ家すら一撃で壊せそうなハンマーを両手で振りかぶる。


「こっちだ! 捕まれ、英士!」


 空中に舞う二人の眼下に真っ白な雪の霧が舞い、辺りを白く染め上げる。その時、仁の右手に書かれた血印が赤く輝き、それに合わせて仁は剣槍での魔素吸収を開始する。


(追撃しなくては)


 天使は両手を天に掲げて、はるか上空にいくつもの氷の短剣を生み出す。


「右担当はミェン、左担当はトウを先頭に突撃。遠距離攻撃担当は場所を移動しながら攻撃を仕掛けろ」


「妾たちの働きにこの作戦の是非がかかっています。総員、突撃!」


「も~ミェンは硬いなぁ~みんな! いつも通り暴れればいいからね~」


 鬼の二人の声と共に森を震わせる戦士たちの咆哮が響き、黒い嵐となった銃弾と矢の雨が降り注ぐ。


(これは少し苦しい)


 天使は空の上に展開していた短剣を自身の周囲だけに集めて降らせ、攻撃を叩き落とすと同時に突撃してきた使い魔たちに無数の傷を負わせる。


「皆さん、今回復します!」


 薫の詠唱と共に辺りに渦巻いていた冷たい冬の風が暖かな春の薫風に変わる。風に乗った癒しの力が傷を負った使い魔たちを優しく包み、その傷をそっと撫でると傷が塞がり、軍勢は勢いを失わずに吶喊し続ける。


「神出、わかるか?」


「ええ。あの剣槍から供給される魔素量が尋常ではない。私たち三人の魔術を同時に使ってもまだ余りあるなんて。このままでは増えすぎた魔素で私たちが死んでしまいます」


「出し惜しむなよ。始めから短期決戦しか考えてない、光輪が完全になった瞬間に隙を作れるように矢も弾も魔素も全部使いきる、出力上げろ!」


 ありったけの魔素を込めた魔術を使っても次の瞬間には完全に回復する。ならば消耗など気にする必要はなく、背中を押す高揚感がそんなことを考える暇すら与えない。


「——『科戸風ノ御箭しなとかぜのみや』!」


 使い魔たちの間を抜けて暴風を纏った矢が迫る。風の音を頼りに展開される分厚い氷の防壁が矢が刺さると同時に内部に注ぎ込まれた風で爆散、破片が天使の顔に血を滲ませるも、一瞬で修復された。


「今は遠きかの栄光、その聖剣は審判を下すもの。かの威光を纏いし我が剣よ、我が仇敵に審判を下さん——『永久に輝く裁定の剣カリバーン』!」


 英士たちの着地と共に使い魔たちが道を開け、そこを極光が迸る。天使は氷の柱を作って跳び上がるが、そこにユウが銃撃を浴びせる。生成された氷の壁も圧倒的弾幕の前には容赦なく削り取られる。

 そして割られた氷の向こうから強襲する仁が再び天使を地面へと叩き落とす。そこに待ち受ける使い魔たちが大技を打たせる隙を与えまいとひるむことなく攻撃し続ける。


「チッ」


 ネージュであれば絶対にしないだろう苛立ちたっぷりな舌打ちをしながら天使は次々と武器を作り、氷の雨を降らせ、雪で煙幕を張る。それでも戦況は仁達に大きく傾いていた。


(どうにかして流れを変える。狙うべきは……剣使いの騎士は戦場の中心、高い防御力と隙を見て高威力の魔術が飛んでくる。獣の槍使いは素早い動きで攻撃と妨害をしてくる上に攻撃は当たらない、ただしこの体への直接攻撃はしてこないから脅威度はもっとも低い。召喚術師は狙いやすそうに見えて立ち回りが上手い、わざと隙を見せて攻撃を誘う余裕すらある。やはり狙うべきは)


 天使の左手から細くしなやかな鞭のような氷が伸びる。視界が悪く、混戦状態でこの普通はとるに足らない攻撃を気が付けるものなどいない。


「痛っ! ——っ、魔術が使えない⁉」


 深く薫の肩を貫通したソレ。彼女の言葉に戦場の意識が集中したのを見逃すことなく、天使の氷の翼の羽一枚一枚鋭い刃となって辺りの全てを巻き込んで蹂躙する。

 たった一手。それだけで戦場は大きく姿を変える。


「マズい。血印がさっきの攻撃でやられた。オレの使い魔はもう使えない」


 魔素不足で形を維持できなくなった使い魔たちが青い光になってユウの管の中へと戻ってゆく。


「私もやられました。魔素ももう、でも何より」


 薫はすぐ近くに血を流しながら転がっている仁を見る。英士も辛うじて傷を負ってはいないが魔術防壁は完全に破壊されている。


「ここからが本番なのだけど」


 仁達を空から見下すようにそう語る天使の頭上にはノイズの無い真っ白な光輪が光り輝き、氷の翼が蘇っていた。



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