三十二話『失意と理不尽』
放課後、ほとんど仁は工房にいた。何か作業をするわけでもなくここに来ることも多い。
考え事をするにも、仮眠をとるにも工房ほどいい場所は学校には存在しないだろう。慣れ親しんだ鉄を打つ音や炭を燃やす炎の音が仁には安心を感じさせるのだ。
「これはダメだな。こっちは溶かせばまだ使えるか」
仁は自分の作業場に置かれた魔道具を整理していた。一年生の頃は失敗作が山のように積み重なっていたが、二年生しかも工房長となった今はこまめに整理するように心がけている。
「後は炉を掃除しないといけないな。燃えカスだらけで温度も上がりづらくなってたし」
持ってきておいた袋に燃えカスを集めて捨てる。灰や煤で制服が少し汚れたため気分が下がるが、仁は掃除を続ける。
ただ記憶とは異なり、炉は最近はほとんど使われていないかのようにあまり燃えカスはあまり溜まっておらず、掃除はすぐに終わった。
仁は炉の掃除を終えると、自室の入り口に立ち、工房の様子を見渡す。
今は掃除したばかりなのでホコリや灰で空気が汚れているが、掃除をする前よりは工房がすっきりとした印象を受ける。今の工房の様子は初めてこの部屋の中に足を踏み入れた時と変わらないほどだ。
増えたものと言えば、真っ白な革製の包みで隠された剣槍と自分で新たに持ち込んだ鍛冶道具くらいのはずだった。
「なんだ、この傷」
だが、よく見れば炉の内側に何かを突き刺した傷があるように見える。目の錯覚を疑った仁が、その傷をなぞればそこには確かに傷があった。
「こんな傷覚えがない。むしろ、どうやればこんな傷が」
仁が目線を上げると似たような傷がいくつも炉から続く煙突の先までついているらしい。
「嘘だろ、なんでこんな傷に今まで気が付かなかったんだ」
意識しなくともはっきりとわかるほどには目立つ傷。仁は自分が気が付かないのが不思議なくらいだった。彼が気が付かないフリをしていただけかもしれないが。
「やっぱりそうだ。今日はおかしいことが多すぎる。十一月からの記憶がないのも、なんでどうでもいいなんて思ったんだ?」
思考が再加速する。形容できない違和感がもう一度はっきりとした輪郭をもって頭の中に浮かび上がる。それと同時に一瞬だけ、ほんの一瞬だけある映像が克明に浮かぶ。
少女が一人、真っ暗で先も見えない道に消える光景。
光を受けて冷たく輝く新雪のような白銀の長髪。夜空に浮かぶどんな星よりも美しい透き通った水色の瞳。人間のものとは思えないほどに整った顔。そして白いローブから覗く色白の肌と完璧なバランスの肢体が人形を思わせるほどに美しい少女。
そして仁は彼女を知っている、そんな気がした。
「なんだ、今のは。俺は一体何を見たんだ……うッ」
心が奪われそうになるほど美しい光景を見たはずなのに、胸が締め付けられるような感覚とそれについてきた無力感に仁は膝をついていた。
それでも仁は這いずりながらでも前へと進む。彼の視線の先には壁に立てかけられた剣槍がある。
「思い出せ。あれは誰だ? 俺はどこで出会った?」
フラッシュバックする光景が頭を駆け巡るのにも構わず、息を荒げながら仁は剣槍の覆いを取り払った。
遮るものがなくなった剣槍は灰と埃でかすむ部屋の中でも曇りなく美しい刀身を露わにし、光を受けて青白い耀きを放ち影を照らす。
そして蒼白の耀きは仁の記憶のノイズをも徐々に晴らしてゆく。
「あの日だ、十一月二十四日! あの日、俺はあの少女に出会ったんだ!」
封印されていた記憶の蓋が開き、次第に記憶が蘇る。
仁は歩きはじめる。一歩を踏み出す度に耐え難い脱力感に襲われるも、それをねじ伏せて。手に強く握った剣槍を杖代わりにしながらひたすらに、ガムシャラに、一心不乱に前へと歩を進める。
「あの場所、裏山の奥。あそこに行かないと」
仁の足は湧き上がる衝動に突き動かされていた。辺りに響いていたはずの鉄を打つ音も、炎が燃える音も消えて、仁の足音だけが響く。
ドンッ、と体当たりするかのような格好で工房の外に仁が出た時にはすでに辺りは真っ暗で雪が降り始めていた。広がる光景を忘れられるはずもない。それは正しく少年と少女が出会った日の再現だ。
「やっぱりな。これは夢なんだ。俺に都合のいいように作られた世界で、出会いなんて無かった世界。俺自身の選択への後悔で作った見たくないものを見なくていい世界——本当に何やってんだろうな、俺」
真っ暗な雑木林の中を進む仁。剣槍の青白い耀きだけを頼りにして前だけを見て進む。いつもならこんな暗闇を進むのは怖い。でも今は心も足も竦んだりなんてしない。
確証なんかどこにもない、けれど仁は確信していた。あの少女に、
「ネージュに呼ばれてる」
ようやく思い出せた彼女の名前を叫んで、仁は吹雪の中を進む。
寒さで体は震え、指先の感覚は失われ始める。それでも、視界は開かれつつあり、心は炎が灯ったように熱い。
これは夢だと分かっている。今、ネージュを助けられたとしても何の意味もないことくらい理解している、けれど仁は前へと一歩を踏み出し続ける。
行く手を阻む檻と化した凍り付いた草木を剣槍で薙ぎ払いながら進む。
そして、仁はあの開けた場所へとたどり着いた。
だが、そこにいたのは出会った時の雪に倒れこんでいるネージュでも、一か月を共に過ごした普通の少女としてのネージュでもない。
純白に輝く天使の輪に二対の翼を生やした、天使として、『破滅の聖杯』としてのネージュだった。
「——ッ。ネージュ!」
ネージュは仁の呼びかけに答えない。仁に背を向けたままの彼女は今にも背中に生えた翼でどこか遠くに飛んで行ってしまいそうで恐ろしくて、
「待ってくれ! 行かないでくれ! 俺が、俺がどうにかするから、だから!」
ネージュは仁に向かって手を伸ばす。
仁は思わず体を守るために身構えた、身構えてしまった。
「ほら、私のこと、本当は恐れてるのに——怪物だと思ってるクセに」
「ち、違……ネージュは、ネージュだ!」
響く声はお互いに震えていた。二人の言葉は二人ともを傷つける。だが、
「ここは灰月仁の夢だ。ここで語られることは自分が抱いている認識によって形作られる。どれだけ口先で否定しようとも無意味なんだよ」
目の前の少女にノイズが走り、姿が曖昧になったかと思うとそこにもう一つの人影が、灰月仁自身が混ざった。
「ネージュを助ける手段を『俺』は持っているのか? いいや、持ってなどいないだろう。ただ耳障りの良いことを言って自分が決断することから逃げているだけだ。ここにいることが何よりの証明だな。現に『俺』は現実から逃げている」
自分の声は驚くほど冷淡に重い一撃を浴びせてくる。仁は何も言い返すことができない、そんな資格などありはしない。
「そもそもネージュを助けることが彼女が望んだことなのか? ネージュは『俺』の手で死にたがっていただろう。そんな人間を無理やり生かすことが正解なのか? 『俺』ですら化け物と思う彼女のことを誰が、一体誰が一人の人間として扱う?」
仁の足は止まる。見えない壁に阻まれるように前へと進めなくなった。その言葉に抗おうとして、心に大きな亀裂が走る。
ノイズはすでに無くなり、そこにいるのはまた一人の少年と少女だけ。
心を挫きにかかる言葉はもう聞こえてこない。それなのに、足に力が入らなかった。
「今までありがとう、仁。そして、さようなら。私なんて忘れて幸せになって」
言葉が静寂を切り裂いた後、背を向けて歩き出す少女と、少年の間に分厚い氷の壁が立ちふさがる。それは少年を押して少女から遠ざけた。
力に逆らえず、少年はただ流されてゆく。ふと、一瞬だけ少振り返るネージュ。
彼女の瞳は懇願するように潤んでいて。
「え?」
目が覚めると仁が真っ先に感じたのはその手に握った長手袋の感触だった。
心を蝕んでゆく嫌な予感が現実ではないと思いたくて、彼はそこにはもうすでにいないネージュの姿を探す。
「——ああ、そうか。もう何もかも終わったんだ」
予感が確信に変わったときに仁は呟いていた。言葉を、想いを自分の持つ全てを使って引き留めようとした。それでも少女は少年の手の届かない所にまで行ってしまったと理解して、いや始めから自分の手の届くところに彼女はいなくて、自分が思い上がっていただけだと自嘲するしかない。必死に自分に言い聞かせて抗って、その最後がこれ。
「助け方なんて分からない。力はあっても扱えない。——ははははははは! 何にも変わんねぇなッ、俺は!」
自分なんかよりもすごい人、自分を助けてくれた『あの人』のような人はきっとこんな絶望的な状況でも大団円を迎えるはずだ。そうだろう、そうであってくれと願った。でも、ここにいるのはそんな超人じゃない、ただの偶然で巻き込まれただけの少年、たった一人だけ。
「俺はヒーローなんかじゃなかった。ネージュに助けられてばかりだ、俺はまだ全然恩返し出来てないじゃないか」
虚しさだけが胸に広がる。自身を呪う気力すらなく仁は俯いて座り込こんだ。それでもネージュの残したものを捨てられないのはなぜだろうか。
現実は理不尽で、夢すらも非情で、ただどうしようもない運命の大きさを灰月仁は噛みしめて絶望と共に眼を閉じた。
(何も見たくない。もう、何も聞きたくない)
しかし、どこまで抗っても現実は理不尽だ。
さび付いた扉が吹っ飛ばされて轟音が響く。かろうじて雪と風が防げていた室内に容赦なくそれらを伴い一人の少年、煤日ユウが現れた。
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