三十一話『穏やかな悪夢』
「——ッ。ここは」
ツンと鼻を刺激する消毒液の匂いに仁は目を覚ます。身体に上手く力が入らずあたりの様子は分からないが、どうやら学校の保健室らしい。
「なんでこんなところに。——そうだ、ネージュはどこに」
「灰月君、大丈夫ですか。まだ寝ぼけていたり?」
薫はそう言いながら、不思議そうに仁の顔を覗き込む。
「おーい、飲み物持ってきたよ。って、やっと起きたのか、仁」
麦茶を持った英士が息を切らしながら部屋に入ってくる。
「ほら、仁。早く飲んでくれ」
英士は状況が良く理解できていない仁に麦茶を飲ませると、近くの椅子に座った。
「どんな状況だ……二人とも、俺とネージュを追ってたはずじゃ?」
「ネージュ? 僕は聞いたことのない名前だね」
「私もです。灰月君、やっぱり寝ぼけて……」
二人から心配の眼差しを向けられる仁。真面目に寝ぼけていると思われているらしい。
「いや、ネージュだ、ネージュ・エトワール。雪みたいな銀髪に空色の青眼が特徴で、背が高くて、すごく頭がいい。知ってるだろ!」
「薫、これは仁は寝ぼけてるんじゃなく、熱で頭をやられているのかもしれない」
「そんな……」
「おい、そこ二人! 俺はそんな可哀そうなヤツをみるような目で見るな! 俺は正気だって!」
「灰月君、正気でない人は誰だってそういうんです」
それから三分ほど、仁は記憶にあるネージュの情報を当たり障りのない範囲で二人に伝えてみたが心当たりがないどころか本格的に精神異常者扱いされ始めたのでこれ以上は無駄だと悟る。
「クソッ、どうなってる」
「どうなってるって、仁は突然倒れて僕たちがここまで運んできたんだよ」
「そうだ、なんで俺は倒れて」
「断定はできませんけど、恐らく熱中症ですね。灰月君はいつも夜更かししてますし、健康管理ができてないんですよ。こんな時にもコートを着てますし」
「いや、今は冬……」
だぞ、と言う前に仁は部屋が蒸し暑いことに気が付く。今まで必死過ぎて気が付かなかったが確かに夏だ。英士や薫の制服も夏服である。
「え。——じゃあ今までのは本当に夢? ネージュなんて本当はいない、薫や英士は異端審問官じゃない、カレン先輩のことも全部俺の妄想?」
口にした瞬間にパズルのピースが嵌って一枚の絵が完成する時のような感覚があった。今までこの状況に感じていた違和感が消える。記憶のズレが失われて違和感を感じていた自分が自分でなかったかのように消えて、この光景を受け入れる。
「どうですか。少し落ち着きましたか」
「ああ、たぶん。まだ何とも言えないけど」
急に動くようになった体に力を込めて仁はベットから立ち上がる。さっきまでの動きづらさは全くなくなっていた。
「もう大丈夫なのかい」
「悪い、迷惑かけた。早く戻ろう」
▲▼▲
それからはいつもと何も変わらない日常だった。学年が二年生になっていたり、戸惑うこともあったけれど普通の学校生活。
「どうしました。さっきから空ばっかり見て」
「いや、何でもないんだ。ただ、なんとなく気になって」
昼休み、仁は珍しく教室で昼食を食べていた。実際は英士と薫が仁を心配してできるだけ人目の多い場所にいるように言ったためだが。
「僕から見ても今日の仁は全部うわの空に見えるよ。無気力っていうのかな」
「そうじゃないんだが……そうなのか? 急に空から何か落ちてくるんじゃないかって気になり始めたっていうか」
あんなに鮮明に思い出せていたはずの夢の内容がもうほとんど思い出せない。忘れたというより
「あれ、そういえば灰月君。そういえば次の魔道具コンテストは狐火先輩が審査員として参加するそうですよ」
「そう、なのか」
「ご存じありませんでした? 狐火先輩は異端審問所工房の期待の新人としてニュースでも話題の人ですよ。歴代でも類を見ない天才だとか」
「すごいな。俺の知らない内にそんなことに。さすがカレン先輩」
知らない間に憧れの先輩が大成功していたらしいがテレビなんて偶にしか見ないのでまたしても流行に疎い仁であった。ただ、薫や英士も流行りに敏感なわけでもないため、知らない仁が世間に無関心すぎるだけだろうが。
「それにインタビューで先輩が言ってましたよ、二年後には私よりももっとすごいヤツが来る、だそうですよ、灰月君」
「俺の知らない所でとてつもなくハードルが上がってる⁉ 全く、先輩はいつも俺のことを過大評価しすぎだろ……魔術も使えない俺なんかを」
確かに魔道具作成で仁は高い技量を見せる。しかし、それは彼が魔術を、普通は扱えて当然の力を扱うことができないから自身にできることで必死に埋め合わせをしようとした結果にすぎない。
もちろん魔道具作成であっても魔術は使えた方が良い。作業スピードは段違いに早くなるし作品の調整も簡単だ。だから誰よりも一振りを作るのに時間のかかる仁は誰よりも長い時間を工房で過ごしてきた、寝る間も惜しんで努力を続けた。
そんな仁の姿を一番見てくれたのがカレンだ。彼女はいつだって仁の目標だった。
「仁はいつも卑屈すぎじゃないかい? 魔術が使えなくても君は素晴らしい腕前があるんだって、馬鹿にしてきた先輩たちに証明して見せたじゃないか」
「そうだな」
入学後、まったく魔術が使えないことはすぐに広まった。出来て当たり前のことが出来ない、途端に周囲は仁を異物のように扱った。ただ、そんな扱いは今までの人生のなかで慣れてしまったのだが。
だから、英士や薫、カレンのように魔術が使えないことを知っても仁とそれまでと同じように接する人たちに驚いた。普通以下の自分を見下すでも憐れむでもなく、ただ対等に扱ってくれる人がいることに。
(三人のおかげで俺は変わったんだ)
三人に出会うまでの仁は自分に自信が無かった。何かできることがあっても、何ができなくても、『魔術が使えないから』、その仁の積み上げてきた努力を無視した一言が付いて回る。誰かに認められたことなんて無かった。
(仁、一緒にどこか行かないか? クラスメイト同士、仲良くしよう)
何と返したかはよく覚えていない。少なくとも好意的ではなく、そう声をかけてくれた英士を突き放すような口ぶりだったはずだ。
(魔術だけが人の価値を決める訳じゃない。僕はそんな小さなこと気にしたりなんてしないよ)
どれだけ突き放しても英士は仁に歩み寄ってきた。何度も諦めたりせずに。
だから仁も誰かに自分から歩み寄ろうと決めた。初めから殻に閉じこもるのではなくて、相手を理解するためにまずは話し合おうと思った。
(素晴らしい! 一年生が作った魔道具とは思えない仕上がりだ。名は?)
カレンとの出会いは工房の仁の作業場に彼女が押しかけてきたのが始まりだった。とにかく押しの強い彼女と話すのに最初は慣れなかった。
彼女が飛びぬけた実力の持ち主であることは聞いていたが、実際にカレンの作った剣を見た時にその刀身の美しさに心が震えた。その時からカレンは仁の中で目標になったのだ。
(また新しい魔道具を作ったんです。先輩が時間がある時にでも見てくれませんか)
(すぐ行ってやる。仁の魔道具はいつも面白いからな)
色々とだらしない所の多い先輩ではあったけれど、そうやって振り回されるのも仁は楽しかった。
何よりも自分の努力を初めて評価してくれた人だった。努力すればできないことなんて無いんだと思わせてくれた。
「そうです。魔術が使えないんだとしても灰月君はすごいんです。いつだって努力し続けて……でもたまには休んでください。さっきみたいに倒れたりすると危ないですから」
初めて薫に会った時とは彼女の印象はずいぶん異なると仁は感じる。初めは近づきがたいというか、まるで剥き出しの刃物のように触ればケガをしてしまう、と思わされるほど鋭くて余裕が無かったように見えた。
(あの相談に乗ってからだな、薫が変わったの)
仁は特別なことは言ったつもりはないのだが、薫には何か思うところがあったらしく、彼女の雰囲気は柔らかくなったし、よく笑うようになった。
ただその時のセリフを思い出すと羞恥で死にそうになるので、記憶の底に封印しているのだが。間違いなく、自分でも思うところがあるほどのドヤ顔と恰好をつけた喋り方だった。
(まぁでも、俺も誰かの力になれたんだって、少し嬉しかったっけ)
自分の憧れである『あの人』に少し近づけた気がした。
「仁、さっきから少し笑ってるけど何か面白いことでも思い出したのかい」
「いや、三人に出会えて良かったなって」
「そんな別れの言葉みたいなことを急に言わないでください。灰月君は異端審問所工房で職人になるんですよね? それなら私も御門君も一緒ですし、カレン先輩だって会えるじゃないですか」
「それもそうだな。なんで俺、急にこんなこと言ってんだろ。なんとなくだけどさ、もう三人と会えない、そんな気がしたんだ」
首を傾げながら仁は胸のどこかが痛む気がした。上手く言葉にできない違和感がずっとそこにあるような、そんな感覚がずっと這いまわっている。
「どんな時だって僕は仁の味方だよ」
「私も御門君と同じです」
「そりゃ俺だってそう……思ってるさ」
自分でも良く分からないがそう語る自分にも二人にも困惑した。
二人のくれた言葉は仁にとって耳障りのいいものだ。でも、本当に二人はこんなことを言うだろうか。
仁の良く知る二人とはどこか異なるような、度の合わない眼鏡でぼやけた先にあるモデルそっくりの人形を見ている気分になる。
「そうだ、明日から週末ですし三人でどこかに行きませんか? テーマパークとか映画館とか、友達同士で遊びに行くところに」
「僕は問題ないよ。仁はどうかな、予定は空いてる?」
「あー、次のコンテストに向けて新しい魔道具を作らないと……いや、たまには息抜きに行くか」
仁が断ろうとすると、普段通りの表情を保とうとしているが落胆を隠しきれていない薫の姿に思わず仁は参加することにした。隣で英士が満足そうな顔をして頷いているのが無性にイラっとしたが。
「決まりですね。それならどこに行きますか? 二人ともリクエストがありますか?」
「僕はどこでもいいよ」
「俺は……いや、やっぱり特に無いな」
本当は行ってみたい場所があったのだが、流石に友人を連れて行くような所ではないので心の中に留めておこうとした仁だが、二人には仁が隠し事をしていることなどお見通しらしい。
「遠慮なんてしないでください。どうするかはみんなで話し合ってから決めることですから」
「……新門魔道具博物館」
「「……………」」
黙り込む二人。必死に言葉を探しているのが表情から簡単に読み取れるために、仁はとても申し訳ない気持ちになる。
「独特(?)なセンスだね」
「ええ、とても灰月君らしいと思います」
「無理にフォローしようとしないでいいから! 逆に心にダメージが来る!」
狼狽する仁。予想通りの反応ではあったが、心の傷が回避できるわけでは無い。むしろ優しさ百パーセントな分余計に傷つく。
けれど、なぜだろうか。仁は笑っていた。
「ほら、自分で思った通りだ。博物館はないだろ。他にどこかないか」
「そうですね……こことかどうですか?」
「へぇ、面白そうだね」
他愛のない会話、高校生の日常ともいえる光景を仁はたまらなくいとおしく思う。この学校での出会いを経験するまで、それは彼にとっての憧れの一つだったはずだ。この暖かな世界が変わらなければいいのにと思う。
(楽しみだな。そういえば三人でどこかに遊びに行くのなんていつ以来だろうか)
思えば去年の十一月からは三人で高校生らしいことをしていなかったような気がする。
(いや、待て。去年の十一月から……俺は何をしていた? 思い出せない)
一度は飲み込んだはずの違和感が、更に巨大な影となってやってくる。記憶がぼんやりとしているとか、そんな普通のことじゃない。何もないのだ。何か月も眠り続けたわけではないのに。絶対に記憶がなくてはおかしいのに。
(いや、そんなこともあるか)
けれど、そのおかしさも突然に霧散する。それまで気になって仕方なかったはずだが、一瞬でどうでもいいことだと結論づけてしまう。
大切な記憶が風化してゆく。
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