三十話『悲劇の舞台裏』


 古めかしい和風な廊下。真っ白い壁の上に金箔が惜しむことなく使われた極東画が描かれており、床には心地いい香りを放つ材木が使われている。この建物の主の好みが一目でわかる豪華で思わず圧倒されるデザイン。

 薫は見慣れた廊下を重い足取りで進む。隣を歩く英士も同様だ。


「薫、やっぱり仁のことはどうしようもないのかな。僕はもっといい方法があるような気がしてならないんだ」


 英士も友人と戦う覚悟はある、けれど都合のいい方法があったのならどれだけいいだろうと思う。異端審問官である以上、優先すべきはより多くの人の命を守ること。 

 彼が異端審問官になって今年で三年、難しい判断を迫られたこと、後悔したことは何度もある。その度に上手く割り切れるようになった。しかし、今回はそのどれとも違う。友人と戦うのは初めてだ。


「あなたも言ったはずです。確かにもっといい方法があるのかもしれない、けれど今の私たちはそれを知らないし、何より時間がない。あるかどうかも分からない可能性を考えるよりも、確実に存在する解決策を成功させるために思考するべきでは?」


 薫にいつもの穏やかさは無い、彼女は焦っていた。何度もコートの袖を握りこんで何かを探すように視線を動かし続けている。

 だが、薫も薄情で職務に忠実な人間とはいえない。だから、彼女たちはこの廊下の先にある部屋を目指している。


「僕たちの話にあの人は耳を傾けてくれるだろうか。最悪、仁は異端審問所の監視下で封印されてもおかしくない」


「分かりません、けれどきっと大丈夫だと思います。支部長としてのあの人はどこまでも合理的で冷酷な人ですから。灰月君の能力がリスクに見合うと判断するはずです」


 薫は英士に答えながら、自分を落ち着かせるために思いつく限りの安心材料を探す。それも不安を完全に打ち消してくれたわけでは無いのだが。


 薫は廊下の最奥の部屋の扉を開く。

 目に飛び込んでくるのは古今東西の家具や書物、骨董、楽器が無秩序に散乱している部屋。ここには本来真っ赤なカーペットが敷かれているはずが、物に覆われて全く分からない。足の踏み場もない汚部屋だ。


 その真ん中に置かれた上等な机で報告書に目を通す男こそ、異端審問所極東支部の支部長であった。

 その顔立ちは整っており、冷静で理知的ながらも形容しがたい好戦性を感じさせる。背は中ほどで大柄と言うよりはむしろ線の細い印象だが、持ち前のカリスマ性が溢れ、瞳からは誰もが星空に飲み込まれるような感覚に陥ることだろう。


「お父様、報告です」


 男は書類から目を離すことなく、男にしては高い声で「続けろ」、とだけ答える。


「私たちは二時間前に『破滅の聖杯』と交戦しましたが、現れた召喚士『煤日ユウ』の妨害を受けて破壊は失敗しました。煤日ユウと狐火カレンは同じ組織に属しているものと思われます」


 支部長は任務失敗を報告を受けても眉一つ動かさない。気にしていないというよりは、より重大なことに思考を巡らせる必要があるからだ。


「そしてもう一件。『破滅の聖杯』と行動を共にしていると思われる少年、灰月仁が異能に覚醒しているのを御門君が確認しました」


 父の返答は薫には分かりきっている。ただ、それでも焦りと緊張は抑えきれない。


「御門、お前から見た灰月仁の実力は?」


「彼の能力は恐らくは身体強化系の異能であり、目覚めたのは二週間前の新門第二高校襲撃時と思われます。しかし、この短期間に力を十分に制御できているように感じました。戦闘能力面は申し分ないでしょう」


「精神の面はどうだ」


「彼は責任感が強く、努力を怠りません。優しく甘いところが長所であり短所ではありますが、異端審問官に相応しい精神性の持ち主であると評価します」


 支部長は書類から目を上げて、その夜空のような黒瞳で薫を見つめる。


「それでは話を聞こうか、薫」


 目の前の男の娘として八年の間生きてきても薫はこの心の中を見透かすような瞳に慣れない。決して恐怖しているわけでは無いのだが。


「お願いです、お父様。彼の、灰月仁の命をこの事件後も保証してください」


「ほう? お前がそんなことを言うとは珍しい。——そこまでする理由は?」


「それは……彼が私の大切な友人だからです」


 友人、その言葉が薫の心に引っかかる。それは短い付き合いであっても、監視任務を兼ねていた関係であっても、ネージュも薫にとっては友人の一人であった。そのネージュを大義のために殺さなくてはならない。仁と彼女では立場が全く異なるので同じ扱いはできないとわかっていても、自分の行為が矛盾しているように思える。


「いいだろう。この事件を解決した後の灰月仁の命は保証する。加えて彼を異端審問官として迎え入れよう」


 自己嫌悪に陥りかけていた薫の頭はその一言で真っ白になった。もっと難しい交渉を強いられると予想していたのだが。


「どうして……」


「なに、愛娘が珍しく父を頼ってきたのだから応えてやろうとしただけだ」


「……ッ。ありがとうございます、お父様」


「僕からも、仁のことを受け入れてくれてありがとうございます」


 頭を下げる二人の後ろで扉が開き、一人の異端審問官が入ってくる。


「これは、お取込み中でしたか?」


「いや、構わん」


 支部長に促された、異端審問官の男は、ハッ、と敬礼と共に返事をすると報告を行う。


「現在、新門全体で深刻な魔素不足に陥っており、街壁の出力は六十パーセントまで低下。今から十時間後には新門であらゆる魔術の発動が不可能になるという結果が出ています」


 現在の時刻は午後九時。つまり、今夜中に決着をつけなければならないということだ。


「加えて怪異の大群が新門を目指して侵攻中であり、糸繰様をはじめ上級異端審問官を筆頭に迎撃中。非番の異端審問官も合流し始めています。しかし、怪異の数も増え続けており余裕はありません」


 『破滅の聖杯』だけであれば異端審問所にとって解決できない問題ではない。しかし、現状は怪異の大群がやってきたことで状況が一変した。


「偶然にしては出来すぎているか。——まずは病院等の重要施設がある区画以外の魔素供給を止め、住民は重要区画内に避難させろ。非番の異端審問官の一部は住民の避難誘導に当たれ、その後は各区画防衛の任務を与える」


「し、しかし……それでは複数の大型怪異の防衛線突破を許す可能性が。街壁の突破も時間の問題です」


「是非もない。防衛線の穴は『使徒』二位と九位の出撃で埋める」


 部屋の空気に緊張が走る。支部長以外の誰もが顔を見合わせた。

 『使徒』とは異端審問官の中でも飛びぬけた実力を持つ者達、大国の最高戦力と同等の、この世界の頂点の一つ。特定の国家に属さない異端審問所の最高戦力である。その強すぎる力を抑えるために異端審問所本部からリミッターを掛けられ、出撃には政治的な観点から本部の許可が必要な者もいるが。


「確かに使徒のお二人なら怪異の大群であっても相手にならないでしょうが……しかし」


「通信魔道具が使えないために情報が圧倒的に不足している。ならばどんな事態でも対応できるほどの戦力を出しておくべきだ。出し惜しみしている暇はない」


「了解しました。至急、伝令を伝えて参ります」


 伝令の異端審問官が部屋を出てゆくと薫は一つ提案をする。


「私たちにネージュさんの相手を任せていただけませんか」


 それに答えるように英士も大きく頷く。

 薫も英士もネージュと戦うことに迷いを感じていた。しかし今はもう違う、異端審問官として職責を果たす決意を決めた。


 使徒九位を無断で出撃させることは重大な規則違反。もし下手を打てば支部長の座から引きずり降ろされることは間違いない。そんな、職責を果たすために自分を顧みない決断を目の前で見せられては、悩む訳にはいかないと思ったから。


「却下する。友人と戦う覚悟が今はあるかもしれないが、実際に対峙して戦えた者は少ない。敵に対する無用な情は迷い、ひいては死の原因となる」


 それでも二人は引き下がるつもりはない。


「『破滅の聖杯』を破壊するには高い攻撃力を持った魔術師が必要なはずです」


「それに一度戦った私たちであれば戦闘も有利に進められると思います。……なにより、私たちが戦わなくてはいけないんです。私たちはネージュさんの友達で、灰月君の友達です。灰月君がネージュさんを殺さなくて済むように、私たちが殺さないといけないんです」


 少しの沈黙があった。やがて、


「是非もなしか。これを持っていけ」


 机の引き出しから取り出されたのは五本のアンプル。中には青白く輝くドロッとした液体が入っている。


「これは強制的に魔素を吸収させる薬だ。魔素が切れた時以外に服用すれば注がれた魔素の暴走で死に至る欠陥品だが、助けになるだろう」


「わかりました。それでは行って参ります。その間、この街をお願いしますね、お父様」


 深々と頭を下げて礼をした後、二人はアンプルを受け取って部屋を後にする。


「灰月仁、灰月仁か。懐かしい名だ」


 二人が出て行ったあと支部長は窓の外のどこまでも続く夜の湖の景色を眺めながら呟く。


「十年前は炎、今夜は雪。正反対で……その絶望感だけはよく似ている」


 十年前のあの日、燃え尽きながらもまだ熱を残す少年に出会った日。一目見た瞬間から運命を超えたものを感じずにはいられなかった。


「灰月仁、英雄に相応しい名だ」


 『破滅の聖杯』を処分したところで事件は終わらない。死者は現在報告されていないが、これから街が滅ぶ寸前の被害を出す異端審問所への信頼は地に落ちる。故にそんな失望を忘れ去る程に熱狂できるものが、英雄が必要だった。


 それは薫と英士の覚悟を踏みにじる行為、しかしこの男がそれを躊躇うことなどありえない。

 極東支部を頂点に立つこの男は慈愛の心に溢れた聖者であり、最良の結果のためならどこまでも残酷になれる悪魔そのものだ。


「さぁ、天使殺しの英雄の誕生はすぐそこだ。そして貴女の計画にない彼を迎えて、オレの計画もようやく始められる」


 偶然出会った少女を助けるために戦った少年。しかし、少女は悪しき者の計画で怪物になってしまう。そして、少女を苦しみから解放するために少年は少女を殺す。

 何も知らない街の人々は少年の悲劇に同情し、それでも前に進む少年の姿に熱狂するだろう。マスコットには丁度いい。


 誰もいない部屋の中、そこにはいない誰かに聞こえないように小さな声で、しかし確かに男は呟く。


「神を殺すその日のために」


 長い長い計画。もはや果たせぬとさえ思っていた。十年前のあの日までは。


「さぁ、手始めに世界の業、その象徴たる彼を手に入れるとしよう」

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