二十六話『望まぬ事』
「灰月君、ネージュさんを渡してもらえますか」
薫はいつもと変わらない丁寧な口調で尋ねる。仁は倒れているネージュの盾になるように両手を広げて二人と向かい合う。
(え、いや、何してんだ、俺)
薫たちも驚いているが、一番その行動に驚いているのは仁自身だった。今までネージュを殺そうとしていたはずの自分がなぜ咄嗟にネージュを守ろうとしているのか。自分でも訳が分からなかった。
「灰月君、ネージュさんが大切だという気持ちは分かります。でも、ここで彼女を殺さなければこの街に住む人たちに沢山の死者が出る」
そんなことは仁も分かっている。ここでネージュを殺すことが最適解であることも。でも、どうしてもそれが正しいとは思えないのだ。
「で、でも、その『破滅の聖杯』としての力をネージュが制御できれば殺す必要なんてないんだろ。だったら……」
さっきまでネージュを殺そうとしていた自分と今の発言との矛盾に心底吐き気がした。ネージュを殺すことも正しい、ネージュを守ろうとすることも正しい。どちらも正しいとわかっているからこそ選べない。
「仁、制御できるまでにどれだけの犠牲が出ると思ってるんだ! 確かに『破滅の聖杯』は異端審問所でも分からないことが多い。制御だってできるのかもしれない。けれど、それを解き明かすまでにどれだけの犠牲が出るか考えているのか!」
「——ッ」
英士の言うことは正しい。ネージュを殺さなくていい方法を探せば探すほど沢山の人を犠牲にしなければならないことを仁は思い知らされる。
(そもそも、ネージュを助けるにしてもだ。薫と英士と戦わなくちゃならない)
仁自身が満身創痍で勝ち目がないから以前に、大切な友人二人と戦うという決断を仁は下せない。
カレンのようにネージュを狙う悪の手先なら覚悟を決めて戦える。けれど二人は異端審問官、この世界の秩序の守り手。彼らと戦うのなら、間違っているのは仁の方だ。
「灰月君、それに『破滅の聖杯』は上位存在の器となれる人間のことです。——その力を振るうのに本人の意志は関係ないというのは確かなこと、殺すしかないんです」
薫から追い打ちを掛けるように仁の方法では現状がどうにもならないことが確定する。だがそこで終わりではない。
「それにネージュさんの心配ばかりですが、灰月君も異端審問所にとっては重要な取り締まり対象になっています。灰月君は異能に覚醒した異端者ですから」
「なんなんだ、その異能ってのは」
俯いたまま小さな声で仁は聞いた。仁は何も知らない、自分の力のことを。何か逆転の糸口を探すように仁は薫の声に耳を傾けて、
「異能は魔素を使わずに超常現象を引き起こす力、世界を歪めるほどの強い想いによって世界の法則に干渉する力のことです。つまり何が起こるか分からない力と言うことになります」
「そんな……」
「そして異端審問所の使命は世界を脅かすものを監視、管理、破壊すること」
薫の目には覚悟の火が灯っている。何も知らない善良な人々のために自分が戦い抜くという強い意志が。それは英士も同じだった。
仁だって何の覚悟もせずにここまで来たわけじゃない。けれどネージュのために戦うと決めたあの時は、何も知らなかったからそんなことが出来ただけ。背負わなくてはならないものの重さを知った今とは状況が違う。
仁がしたのは、自分がどれだけ傷ついてもたった一人の少女を悪から守り抜く覚悟。だが、本当に必要だったのは、自分の手で誰を助け、切り捨てるのかを選ぶ覚悟だった。
「お願いです。灰月君、そこをどいてください。あなたはならまだ庇える。異端審問所は制御可能な異端者なら、異端審問官として籍を用意できます。ネージュさんと違ってあなたならまだ助けられるんです!」
薫は感情的に叫ぶ。今までの抑揚のない喋り方から一転して、だ。ただそこには嘘や仁を揺さぶろうという思惑は感じられない。どこまでも仁に向けて自身の本心からの言葉を投げかけている。
「僕からもお願いだ。君は巻き込まれただけ、これ以上何かを背負う必要はないんだ。頼む、どいてくれ」
それでも仁は動かない。ただ、ネージュを守るように広げていた両手を降ろした。もう限界だった。
「ごめんなさい、灰月君」
「すまない、仁」
二人の声がやけに遠くから聞こえる。身体を耐え難い脱力感が襲う。それでも、せめて目の前で起きることを見届けなければと、仁は力を振り絞って床に転がるネージュを見つめた。
(こんなことのために助けたんじゃない。ごめん、ネージュ)
英士が剣を抜き、ネージュの首へと振り上げる。薫が矢をつがえ、ネージュの心臓を狙う。仁はただ黙ってそれを見ていた。せめてこれからもネージュを忘れず、彼女の死を抱えて生きていくために。
だが、矢と剣は出現した氷によって受け止められた。
ネージュは立ち上がる。けれどその目に意志はなく、ただ口からは機械的に「死にたくない」と繰り返すだけ。そして翼は四枚に増え、天使の輪のノイズが少し収まっていた。
素早く立ち直った英士が剣を振るうが、ネージュの手に現れた氷の剣によって防がれる。
「御門君!」
薫は援護のためにネージュに矢を放つが現れた氷の壁に阻まれ、その向こうから氷の棘が無数に飛来する。
「——風よ!」
詠唱破棄の高等技術によって何とか風を起こし、氷棘を逸らすことで直撃を避ける薫だが、いくつもかすり傷を負っており長くは持たない。
その隙に氷の剣で英士に連撃を加え続けるネージュ。一撃打ち込むごとに剣はバラバラになるが、すぐさま次の剣が作られ、攻撃は終わらない。英士は高い技量で無傷に抑えているが、ネージュの手数とスピードに押され反撃の機会を見つけられないようだ。
「待て、おい、なぁ! 三人ともやめてくれ……もう、やめてくれッ!」
仁の声でネージュの意識がそれる。その隙を見逃さず英士は盾でネージュの体勢を崩し、膝をついたネージュに剣を振り下ろす。二人の刃が鍔迫り合いをし、拮抗するが。
「シナツヒコに希う。我が一矢に宿りて敵を討ち払い給え——『
放たれた暴風を纏った矢が氷の壁を貫通してネージュに迫る。ネージュは剣を捨てて大きく横に飛ぶと、仁を掴んで窓の外へと飛び出した。
直後、寮全体を覆うようにして分厚い氷の壁が作られ、上空に巨大な氷塊が形成、落下する。
辺りが吹き飛び、真っ白な霧がかかる中に降り立つ仁とネージュ。辺りには瓦礫が飛び散り無残な光景が広がっている。
「仁、これ……は……」
「ネージュ……覚えてないのか」
「私が、やったの……嘘。これじゃあまるで」
化け物が暴れまわったような光景を目にしてネージュは言葉を失う。その瞬間にネージュの頭の中に記憶が蘇る。今まで誰と戦っていたのか、さっき叩き潰した寮の中には誰がいたのかを。
「嘘、そん……な」
「ネージュ、おい、ネージュ!」
気を失い倒れこむネージュを支えようとして、仁は一瞬だけ躊躇う。が、なんとかネージュを支えて抱きかかえた。
その時、瓦礫の中から二人が現れる。少し汚れてはいるが目立ったけがはなく戦闘態勢のままだ。
「半端な覚醒であってものこの力。やはりここで仕留めるべきです」
「僕も同感だ。あと一日もすれば新門を滅ぼすのに十分な力をつけてしまう」
あれだけの攻撃を受けてまだ二人が戦えることに驚く仁。恐らくは結界を叩き斬った英士の魔術で氷塊に穴を開けて直撃を避けたのだろう。
「それにいつもより魔術が発動しづらくなっています。普段と同じ力を出すには十倍の魔素が必要になる」
「そういう訳だ、仁」
仁に歩み寄る二人。もう仁にできることは一つしかない。
(早くこの事件を終わらせることだけか)
いい加減に仁は抗うのをやめていた。抗っても辛いだけだ、希望なんてありはしないのに希望を探して延々と彷徨うことに彼は疲れていた。
(終わったんだ。俺はあの人のようになれなかった。誰かを助けることなんてできない)
仁はネージュを抱いたまま眼を閉じた。
そして、銃声が鳴り響く。
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