十八話『選択の刻』

「はぁ? どこだ、ここ」


 瞬きすれば仁は知らない場所に立っていた。

 雲一つない青空と足が軽く浸かるほどの湖が果てしなく続く場所。仁の記憶の中にこんな場所は無いし、現実とは思えないほど美しい空間だった。暖かな日差しと爽やかなそよ風が気持ちいい。


「おーい、ここだ。灰月仁、ずっと君を待っていたよ」


 声のした方へ振り返ると、一本の槍の刺さった巨大な木とその下に見知らぬ一人の少年が立っていた。狼の耳を生やした狼人おおかみびとの少年だ。理知的な顔つきとスラリとした体つきから頭のいい優等生のイメージがぴったりである。白い髪と黄色い瞳で、黒髪の多い狼人には珍しい外見だ。


「さぁ、遠慮せずに座ってくれ。ああ、仁はコーヒーが好きだったね」


 少年が手を振ると、何もなかったはずの空間に真っ白な椅子と机が現れ、少し遅れてコーヒーが二人分と茶菓子が出現する。

 促されるままに椅子に座る仁。高級そうな見た目に違わず、包み込まれるような極上の座り心地に驚く。学生には縁のない高級品なのは間違いない。


「まずアンタはだれで、ここがどこか教えてもらおうか」


 仁はコーヒーに口を付けるよりも前に尋ねる。過去の記憶を見ていたら突然こんな訳の分からない空間に連れてこられたので警戒はしていた。目の前の少年から敵意を感じることは今のところないのだが。


「そうだね、僕の名は『ヴァン』。そしてここは僕の心の中だよ。もっとも僕は君の中にいるから君の中でもあるんだけど」


「なるほど? じゃあ何で俺をこんなところに呼び出したんだ」


 嘘を言っている様子ではない。心の中、と言う言葉に引っかかりを覚えるが、それを無視して仁は話を進める。


「君に訊くためだよ。どうだい、予告はしたはずだけど。君は選択しなければならないんだ、灰月仁」


「あれはお前の仕業だったのか」


 先ほどの頭の中に響いた意味不明な言葉の主がヴァンということらしい。そしてその『選択』とやらのタイムリミットが今であると仁は理解する。


「で、結論は出たのかい。立ち止まって自身の平穏を得るのか、踏み出して自身の理想を求めるのか、その答えは」


「具体的に言ってくれ。立ち止まるってのはどういうことで、踏み出すってのはどういうことなのかきちんと説明してくれよ」


「仁の予想通りだと思うけど……立ち止まるってのは今、ネージュ君を見捨てることだ。そうすれば少なくとも君は平穏に人生を全うできる。人並みの幸せを掴んでありふれて、かけがえのない幸福を手にすることができるんだ」


 それは仁の予想と何も変わらない答え。もしかしたらもっと別の選択を迫られることを期待していたが、世界は甘くないようだ。


「そして踏み出すというのは、仁がネージュ君を見捨てないこと。……これを選べば君は今までの日常には戻れなくなるだろう。自分の理想を追い求める過酷な道が待っている。さぁ、君はどっち……」


「決まってる、ネージュを助ける方だ」


 ヴァンが言い切るのを待たず、被せるようにして仁は返答する。考える必要のない問いだと、仁の中で答えはすでに決まっている。

 ヴァンは、はぁ、と溜息を吐く。


「もう少しよく考えてくれ、仁。君は出会って二週間の少女のために自分の人生を賭けるのか? 君は誰かのために自分の人生を捧げる義務があるわけじゃない、自分の人生を自分の幸福を求める権利があるんだ。だから、あと十秒だけでいい、もう一度だけ考えてくれ」


 仁は静かに目を瞑る。


 一秒。


 確かに仁に自分の人生を他人に捧げる義務なんてない。それは仁が勝手にそう思い込んでいるだけ。本当は彼が過去に囚われ続ける必要なんてない。そんなもの忘れて自分自身の幸せを追い求めたところで責められる謂れは全くない。


 五秒。


 仁は想像する。もしあの災害が起きていなければ自分はいつも通りの幸せを手にできたのかもしれないと。もしここで諦めて、ネージュとの日々を忘れていつも通りの生活に戻れたのならそこにはどんな未来が待っているのだろう。


(きっと、それも悪くない)


 カレンの世話を焼きながら、薫や英士と過ごすいつもの学校生活が戻ってくる。異端審問官になれないが、彼らを支える職人としての未来が待っているだろう。理想とは少し違う形でも誰かの役に立てる未来、悪くはない。


 十秒。


 それでも仁はその未来で心の底から笑えるか?


「わかった。やっぱりネージュを見捨てる……なんて選べない。俺はネージュを助けたい」


 考え抜いた末に、仁は力強い声でそう宣言した。


「立ち止まって手に入れる未来だって悪いモノじゃないのに、か」


「ああ、確かにその未来も悪くないと思う。でもさ、俺はやっぱり助けを求めてる誰かを見殺しにすることなんてできない」


 もし、仁が何も失っていなければ、その時ネージュと出会えば自分はどうしただろうかと考えて、それでも自分はネージュを助けるだろうと確信できた。だから仁は迷わない、ただ自分が正しいと思ったことをするだけだ。

 ヴァンは、やれやれ、と呟きながら肩をすくめる。ただその表情は少し嬉しそうだった。


「何度も言うけど君が自分から苦しむ必要なんてない。普通の幸せだって掴む権利がある。——それでも灰月仁、君が理想のために理不尽に抗う道を選ぶというのなら、僕はそれを応援するよ。それにその方が君らしいしね」


 二人はコーヒーを同時に飲み干すと、勢いよくコーヒーカップを置く。


「さて、君の覚悟は分かった。それじゃあ、僅かだけど僕の力を貸すよ。使い方はもう知っているはずだ。それと僕はいつだって君の味方だ。頑張れ、灰月仁。どうか理不尽に打ち勝ち、希望を見せてくれ」


「ああ、行ってくる」


 再び仁の意識は暗転する。

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