十七話『地獄の先で産声を』

(ここは……)


 どこだ、とは言わない。目の前に広がる光景を、白い炎に包まれた街を少年は良く知っている。


「助けて、助けて、たすけ」


 幼い■の足に縋りつく、ひどい火傷を負った青年の手から力が抜ける。■はそれを振り払って先へと進む。


「おがーざん、おどーざん!」


 自分と同じくらいの年頃の少女を無視して■は進む。何も感じないわけでは無い、でも■もこのときは自分のことで精一杯だった。


(ごめんなさい、ごめんなさい)


 頭ではこの時の自分にできることなんて無かったと、自分も一緒に死ぬだけだったと理解している。それでも罪悪感は消えない、自分を許すことなどできはしない。


 それに少年がどれだけこの時のことを悔やんでもこれはただの記憶だ。もう終わったことであって、すでに変えようのない過去のこと。少年が家族も名前も、それまで持っていたはずのものを全て失った時の記憶。


 それまでのことなど何一つ覚えていない。けれどこの光景、住んでいた街が白炎の海に変わり、誰も頼ることもできず、ただ人の命が無価値なものに思えて、驚くほどの速さで失われていく地獄のような光景だけは鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。


(いや、それだけじゃない)


 少年は忘れられない。屍の上を歩いたあの気持ち悪い感触を。頭がおかしくなりそうなほど嗅いだ建物と人が焼かれる匂いも、どこからか助けを求める言葉にならない叫びも、口の中に広がる苦い鉄の味も、その何もかもを覚えている。


 ■は上を見上げた。あんなにも美しい星空は、今や黒煙で真っ黒に塗りつぶされて星は見えず、自分たちを閉じ込める檻へと姿を変えた。


 この空を見て■は逃げられないのだと諦めてしまった。でも、心が折れても体は一秒でも長く生きるために手足を引きずり続ける。それはひどく無駄で苦しい時間を長引かせるだけの行為だとしても。


 炎の間を通り抜け、うめき声のする瓦礫の上を歩く。少年が一歩を踏み出す度にうめき声が一つ減る。それが何時間も続く。喉は乾いて全身を脱力感が襲うが、もはや飲める水などない。川は煮え立ち死体が浮かび、水道管からは高温の蒸気が噴きだしている。


 けれどこんな地獄の中でも■は幸運だった。怪異にこの瞬間まで出会っていなかったのだから。


 それは真っ黒に塗りつぶされた人に見えた。ただしその手は鎌のように鋭く尖り、背中からは四枚の羽が生えている。昆虫人間とでも言うべき見た目の怪異だった。


(まだ気づかれてない)


 目の前で知らない誰かが首を斬り飛ばされるのを見ながら冷静に■は考えていた。その時には人の死を何とも思わないほど感情が死んでいた。残っていたのは目の前の誰かを見殺しにすれば自分は逃げられるという打算だけ。


(このままゆっくり逃げれば)


 ふと、彼が後ろを向くと、男が立っていた。炎の海の中でも汚れ一つない男。


 本能が目の前の異常に警鐘を鳴らす。逃げなければならないと思う前に、体は勝手に走り出していた。

 男が変形する。背から羽を生やし、腕だったものは鋭く尖り鎌のような姿に変わった。


 後ろで微かな羽音がして、気が付いた時には背中に服が張り付く感覚と痛みがあった。

 ■は後ろを振り向かずに全力で走る。目の前に現れた自分の死の可能性を認識すると体に自然と力が入り、今までで一番速く走れた。しかし、怪異のほうが何倍も速い。すぐに距離は縮まり、


「——あ」


 鋭い腕が■の小さな体を貫いた。刺されたところが焼かれるように熱くなり、流れ出した血の代わりに冷たさが体中に流れ込む。必死に逃げてきた死がすぐそこまで近づいている。


(ああ、やっと楽になれる)


 ぼやける視界の中、■はそう思った。これまで逃げて生き延びてしまったことが間違いなのだと、苦しい時間はこれでようやく終わるのだと、そう言い聞かせて自分を納得させようとした。


(——なんでここまで逃げてきたんだっけ)

 

 だが不幸にも、■は子供騙しの答えに満足して死ねるほど幼くはなかった。彼は死の間際、答えを求めて思考を巡らせる。


(ああ、そっか)


 今までそれは体が勝手に動くだけだと、そう思い込んでいた。でも、死にかけて気付いたのだ。体はずっと前に限界を迎えていたことに。では、そんな体を動かしていたものは何なのか。


(——死にたくない。 死にたくない? 生きたい!)


 本当に楽になりたいのなら、もっと簡単に死ぬ方法だってあった。それでもここまで生き足掻いてきたのは何故か、死にたくないからだ。こんな地獄を行くことになるのだとしても■は生きていたかった。


 視界が狭まる。血が足りない、怪異が来る。それでも■は諦められない。生への渇望は留まるところを知らず、その渇きを加速させる。そして渇きは一握りの力を少年に与えた。

 穏やかな死を望むのではなく、過酷であっても生きるために、薄れゆく意識の中で■はその手を伸す。


 そこから先を■は覚えていない。


 次に見たのは一面の灰の海だった。深い青の夜空には月と無数の星々が浮かんでいる。身を焼くような炎もなく、怨嗟の叫びも聞こえない。冬の風が頬を撫でるたびに全身に少し痛みが走る。

 けれどそんなことなどどうでもいい。


「生き……てる」


 焼けた喉で呟く。事実を口にして数秒は生きていることが受け入れられなかった。けれど感覚が戻るにつれて、自分は生きているのだと実感する。涙があふれて止まらなくなる。生きている事への安心感がやってきた。でも、


「なんで生きているんだろう」


 あんなに生きたいと願って生き残った。けれど余裕ができると罪悪感がこみあげてくる。人を見捨てて、文字通り命を踏みつけにして、こんな自分が生き残ってよかったのかと。今、考えれば傲慢な悩みだと思う。そんな罪悪感を感じることもできずに死んでいった人たちが大勢いるのだから。


 動く気が起きずにただ空を眺めていた。

 ただ美しいだけの夜空は少年に何も与えることはない。世界は彼など知らないと言うように。


 不意に何かの近づいてくる足音がする。激痛に耐えながら視線を向ければそこには一人の男が足を引きずりながら歩いていた。


 俯いたまま歩いていた男は辺りを見回すと、■を見つけて、その場に少し立ち止まったあと走り出す。それはひどく不格好な様子であった。


「君、少年、生きて……いるか」


 そう語りかける男の姿はボロボロで髪は煤で汚れ、コートとマフラーは焦げ付いている。それに左手はグチャグチャにへし折れ、右手も血で赤黒く染まり、両足も傷だらけで歩くのもやっとだ。動くのも辛いはずなのに、それでも男は■の方へと歩き続ける。

 ■は男の問いに答えられない。代わりに小さく首を縦に振った。


「そうか。——よかった」


 男は安堵したのだろうか、それにしては悲しげな様子だった。もっとも、暗かったために顔は良く見えなかったのだが。


「僕は生きてていいの?」


 気が付けば■はそう訊いていた。自分でもなぜ目の前の男に問おうとしたのかは分からない。でも、彼なら答えをくれるような気がした。


「生きなくちゃ……いけないんだ。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、死ぬことはもう許されない。生き残ってしまったことに罪悪感を抱くなら、死んでしまった人たちのことを想うなら——生きて人を助けろ」


 今にも消えてしまいそうなほど小さく呟くように、しかし、きっと世界の何よりも力強い声音で男は言った。


 夜明けが来る。


 白い朝日が辺りを照らし、空が青と橙に、照らされた月が逆光で灰色に染まる。それは泣きたくなるほどに美しく、少年にとって忘れられないもう一つの景色だった。


「あなたはなんで助けるの」


 ふと疑問に思った。どうして目の前の男はボロボロになって、自分を犠牲にしてまで人を助けようとするのかと。


「俺は、……異端審問官だからだ」


 ああ、なんてかっこいい生き方だろうと憧れた。そして思ったのだ、自分はあなたのよう異端審問官になりたいと。傷ついても誰かのために生き、誰かを助けるあなたのようになりたいと。

 この時だ、この瞬間に『灰月仁』は産声をあげた。地獄の先で出会ったあの人、名前も顔も知らない一人の異端審問官に憧れた、ここから『灰月仁』は始まったのだ。


「もう大丈夫だ、安全なところに行こう」


 幼い仁に男はコートとマフラーを着せると仁を抱きかかえて歩きだす。彼に抱えられていると、とても安心したのを仁は覚えている。


(そうだ、まだ終わるわけにはいかない)


 この時の憧れのためにも、仁は倒れているわけにはいかない。絶対にネージュを助けなくてはならない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る